変容の度合と喩

清水鱗造


 詩集を構成している題材には生命のリズムに沿った一定のリズムがあるといえる。たとえば生涯の時間の節目節目にやはり契機は集中する。例をあげれば、挽歌はたくさんの詩集に現われてくるし、愛や性は詩の中心的な題材である。うたうことを促す契機は生命のリズムに沿っているという点では古来から変わっていないともいえる。
 また花鳥風月をうたうことは作者の生活の、あるいは生理を必然的に反映する。固有の心象がどのように反映しているかが問題になってきて、そこにわずかであっても懸命に差異を表わそうとしている。生命のリズムといえば、それはなんらかの変化に対する感応といってもいい。また心象が生活の変化に影響を受けて変容することも意識、無意識を含めて当然うたうことに照射される。空間がふだんと違って感じられる、時間がふだんと違って感じられる、と意識がわかってもいいし無意識のうちでもいい。
 いっぽうで言葉に対する疑いとか、うたうときの意識に向けてたえず自問している。言葉がどこまで届くか、また言説の射程はどこまで現実的に信じていいのか、たとえばM・フーコーの思想が注目されていることも絶えざるこの自問の行方を追うという契機が人間にあるからだ。認識の変化の不連続線をはっきりさせたいという欲望と、できうるならば“大変化”をみてみたいという欲望をもっている。作者が、単純にうたうことへの自問が含まれていなければ衝撃力を持ち得ないと考えていることは玉ネギの皮みたいに、各時代一貫している。
 パウル・ツェランの詩は訳すのが難しいと想像するが、それにもかかわらずそのイメージの世界の新鮮さが伝わってくる。たぶん名詞の並べ方と意味の系列だけでもただ事ではないなにかが感じられるからだ。

 ここで手がパンを割るとき、ぼくの馬のたてがみを櫛けずれ。
 このテーブルの水飼い場まで馬を乗り進めよ。
          (〈重い石〉末尾)

 パウル・ツェラン『閾から閾へ』(飯吉光夫訳、思潮社)は長男のための挽歌を集めたという構成意図ももっているらしい。《テーブルの水飼い場まで馬を乗り進めよ。》という映像は視覚の“縮小”を表わしている。五感の混乱を象徴する何かを感じさせるのである。もちろんこういう映像が恣意的に使われている場合には、つまりこういう映像がほかのイメージづくりの流れのなかで緊張感がない場合にはそれほどの衝撃力を持ち得ない。ツェランの詩の文脈のなかにこの映像を置くとき、ある“乖離”感が無意識に意味されている。これに共通するイメージにはたとえば次のようなものがある。

 大きな蚊が長い足を晒しのたれている 陰惨な風景がその蚊を中心に数qほども
 拡大して行くようだ ミクロにまで〈おれ〉は縮小して行く……原始時代の黒茶
 けた風景 ……巨木が林立し風もなく
          (〈非連続現実〈夢〉〉部分、立中潤『叛乱する夢』より)

 これは両者が自死に追いつめられたこととの関連を云々することにつなげる必要もないが、 ある微かな感覚の混乱を表わしているということが共通している。もうひとつ、宮沢賢治の自筆手入れによって〈幻聴〉と題名を直された〈陽ざしとかれくさ〉の次のような部分。

 (これはかはりますか)
 (かはります)
 (これはかはりますか)
 (これはどうですか)
 (かはりません)
 (そんなら おい ここに
  雲の棘をもつて来い はやく)

“か”の音が烏の鳴き声を賢治の聴覚から繋がる心象の領域にひきつけられているのであるが、恍惚状態のようなものをバックに置いているために緊張感は感じられない。変容のイメージを統御しているかどうか、変容のイメージが知らずに入り込んでくるかの違いがある。意識的にやればこの固有の変容は異界への入口になるものであるが、感覚の逸脱の接点を表わしている。
抗精神薬の急激な発達が、感性の危機をたとえば詩の作者がくぐりぬけるとき、かなり違ったものにしてくるということは確かだと思う。それから宗教などにいかずに、現代的な精神医学の神経症などの治療法の発達を信用して、変容に気づいた人が素直にいくようになってからずいぶん違ったものになったと思う。しかしそれらは感性の体験のイメージをいくぶん軽微に、曖昧にするかもしれないけれども、また普通の時空感覚に戻すことができても、状況のアポリアはいままでどおり迫ってくる。“方便”ように抗精神薬や臨床精神医学は存在している。内部の調整の方法を追いかけるように、変容の度合を示す喩は現われてくるのだろう。もちろん感性の危機が、そのまま“表現の価値”にすぐ結びついてくるとはいえない。感性の危機はごく一般的に大衆的に訪れてくるものだからだ。
 山本かずこ『愛人』(ミッドナイト・プレス)で示される一種の危機の克服は、流通している汾ォ愛に収斂させることを主張することによってなされようとしている。

 ぬがせたら
 あとで
 ちゃんとわたしに着せてね
 それさえ約束してくれるなら
 わたしは
 あなたの
 着せ替え人形にだってなれる
 (中略)
 だから
 ずっと忘れないでね
 これからも
 はだかのままでは
 からだばかりか
 心の芯まで
 たちまち冷えきってしまうから
          (〈あなたと遊ぶとき〉部分)

 これだけ引用すると誤解されるかもしれない、山本の詩の魅力はむしろここから遡れる生活ののにおいにあるといってもいいから。しかし詩としてまとまった世界をつくっていこうとするとき、こういう方向にラジカルになっていくのが好ましいと思うのだ。庶民的な味と性愛のイメージをランダムに詩に振り分けていくのは難しい。まだ武骨ながらも山本かずこが新しい可能性の領域に踏み出しているのは確かだと思う。
 佐々木安美『心のタカヒク』(遠人社)はごく自然に守られてきた感性に応じて夾雑物を振り落としてきた言葉の集合といったかたちの詩が集められている。ここに残されているイノセンスはなかなかしたたかである。

 貝がらがらがらお椀で鳴った浜栗や
 栗よりうまい
 煙たなびき
 今日のおかずはニシンの照り焼き
 (中略)
 海の子に
 なりたい人の塩の味
 人の味も
 しみとおるよ五十一
 (中略)
 ニシンニシン
 ニシンニシン
 これもやっぱり
 歌のようにくりかえし
 バスのように揺れながら
 朝の川を渡っていった
 ニシンの
 息を吐きながら
          (〈五十一〉部分)

 言葉の意味の変換のきっかけが、音韻を捉えて一定のリズムでとてもよくできている。その軽みに応じて捨てられているものがある。《しみとおるよ五十一》というこの詩の言葉の位相では大仰な行が出てきたとき、変換するリズムをまとめあげるイメージを作者はみつけた。偶然のように、作者は言葉にぶつかる。しかしそこには無意識の必然が作用している。その必然に、守られてきたものと切り捨てられてきたものの比率が示されているはずだ。
 吉沢巴『フィズの降る町』(白地社)でも連想の系列が愉しい。佐々木よりも素直で、佐々木が粘着質なものを振り捨てていることによって韜晦しているようなところがない。

 しいたけがほつれ髪のまますすり泣いていた月夜
 あのころ私はツキヨタケでもワライタケでもなかったのだが
 当時棲み家にしていた森の中から
 明るい山道ランランスキップで里へ下りれば
          (〈キクラゲが店先で〉冒頭)

 こんなふうにずっと続く。連想の系列の倫理感を壊そうとしている。それが快い。これは気取ったかたちの倫理感とかスタイルばかり気にしている変換技法と違っている。佐々木も吉沢もデジタルに対応しているところがはっきりしているところが生きている。
 鳩仁彦『部屋・X・喪失』(書肆山田)は散文的で短編小説の一節のような作品が収められている。散文としてしっかりしているので、この世界はそのまま小説につなげられると思う。しかし、小説でも同じであるがいったん破綻の危機を通り抜けることがインパクトをもつ世界をつくるきっかけになる。構成意思が詩と小説を分けるところはそういう危機感から得られる瞬発力であると思う。それにしても、鳩のこの詩集はちゃんとした物語をつくっているという意味ではまとまっている。〈ある年の暮〉という作品では、心の病人を抱えて家を売ってマンションに移り住んだ家族の一員である少女に家族がいないとき招じ入れられた日の帰り道、最終電車のなかで吐く人を見た想い出が綴られている。少女についてか吐く人についてか集中点が分散しているところが詩としては問題になる。言葉の意味の水位を一定に保っているから分散できるのだと思う。
 永井孝史『ムー大陸にアメがふる』(ワニ・プロダクション)では、地名についての作者の思い入れがポップなかたちでうまくでている。

 大海人皇子がタヌキの姿で
 但馬の出石へ
 アメノヒボコのもとへ行くところだったのです
 あらまッ野洲川をメラ星が照らしだす
 近江富士こと三上山のふもとにて
 こらさ
 いきなりくねります
          (〈神鍋山にフタがふる〉部分)

《あらまッ》と《こらさ》という言葉を全編の転換に使っている。映像に対する粘着的なこだわりはここにはなく、地名に潜在している大衆史的イメージを引き出そうとしたうえで、軽い“タヌキ”のポップな主題で皮膜をかぶせる。
 中野完二『へびの眼』(思潮社)では“へび”に一貫してこだわっている。永井が地名にこだわっているのとある意味で共通している。よく蛇や火事の夢をみると縁起がいいという。へびに対するこだわりはそういう無意識に通じているような気がする。イメージにあらかじめ潜在している力に依拠している。ほかにも加藤三朗『虹のかたち』(同時代)という猫にこだわった詩集があった。
 森田省子『省子元年』(あうら書房)は汚穢好みの一面があるが、なかなか鋭いナンセンスソングをつくっている。

 うんこの、
 匂いのつぶの半減期は
 どのくらいだろう。
          (〈換気せんのないトイレ〉全行)

 岡田清子『三人』(豊川堂)には〈おとしもの〉という《黄色い鶏の足二本》が桜の木の下におちていたという映像から始まる作品がある。ふと眼がいく、ということのなかには、その対象に集中の必然性がある場合がままある。また詩集としてのパワーをもちうるためにはすべての詩に集中の必然性があるときなのだと思う。
 岡見裕輔『サラリーマン・定年前後』(編集工房ノア)を読んでいると“サザエさん”のマスオさんと波平さんの思想がどんなものかわかる気がする。資本とか利権とか単純な力動的構造をもつ会社の下でサラリーマンは奮闘している。これは平板といえば平板な時空なのだ。サラリーマンの風俗が、たとえば“呑むうつ買う”や野球などの共同的なイメージに収斂してしまう時代は、けっして消えない。しかしサラリーマンの世界も徐々に変わってくることも確かだ。高度資本主義に無意識に装填されたいくつかのイメージ戦略はまだ機能していくと思う。

 朝 いつものように家を出る
 いつものようにの いつもは
 今日で終わる
 このひとつの終わりをしずかに絶えよう。
                  (〈最後の通勤〉部分)

 このような感慨は、固有の感性の志向によって終焉すればいいと岡見も考えているだろうか。プラスの方向の“大変化”をサラリーマンは望むだろうか。
 菊田守の二冊の詩集『妙正寺川』(土曜美術社)と『蚊の生涯』(あざみ書房)は東京に残る自然を愛おしんでいる。自然詠への志向は本当に変わらないな、と思う。山田玲子『ひきわたすもの』(詩学社)、橋口しほ『櫻の見える場所』(解纜社)、はくのさちこ『日々の遠近』(花神社)も印象に残る。

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「現代詩手帖」詩書月評(一九九〇年)目次
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