自然、対幻想域、喩

清水鱗造


 売れている漫画雑誌を見ていると、日常的な欲望をうまく刺激していると思うことがある。そしてできる限り一過性の風をもたらそうとしているのがわかる。そこに流通するイメージは、一つの水位を設定したうえで壷に充満する虫のようにうねっている感じである。たとえば性欲を少しだけ刺激することができれば、成功なのである。これも手軽な情報ではあるし、作る方もしのぎを削っているのがよくわかる。
 パソコンのフリーウェアに、止めないと般若心経を唱え続ける、というのがある。僕も九十五歳まで生きた義祖母の書き写した般若心経を小さく畳んで定期入れに入れているし、クリスマスにはキャンドル・サービスはやるわ、浄土真宗の法事では坊さんの話は聞くわ、神社ではガランガランとやって手を合わせるわ、である。
「試行」第六九号(九〇年三月)に近藤渉の〈新宗教のラディカリズム〉というのが載っている。この小論の論旨を示すためにちょっと引用すると、入信のきっかけに典型的なシャマニック・トランス体験がありながら《第一にこの信者には、動機がない。動機のないことが入信動機となっている。本人がいっているように、従来の「病貧相」が原因でないことは、戦前―戦後的な新宗教入りのパターンがもはや解体していることを示している。》《現在の新宗教の存在理由が対幻想の領域を中心にしていることは、最初にも述べたが、したがってそのラディカリズムも対幻想域に限定されたラディカリズムにすぎない。》このようなことを書いている。こういう分析は新宗教に限らず、鋭く状況を衝いているところがある。追悼のために少しだけ私事を書いておけば、学生時代短期間飲み友達だった。橋川文三のところで歴史をやり、まさかこういう評論を書くとは思わなかった。早逝が惜しまれてならない。
 対幻想域自体が揺れていると感じたのは、村上春樹の『ノルウェイの森』について、かなり正面からみて書いてしばらくたったときだった。まともに論じるとたとえば次のような具合だ。
○直子はなぜ自殺してしまったのか、主人公はこの問いにまったく答えを見いだせない。
○小説の筋立てからみれば、直子の自死は主人公も友人であった幼馴染みの恋人キズキの自死、姉の自死、キズキとの思春期からの性交への飛躍がうまくいかなかったことと関連している。
○主人公ワタナベにとっては性交は健康な営みであって心的世界と媒介する事象は無意識のままスムーズに通じている。主人公は性交に対して強固で単純な認識をもっているといってもいい。
○主人公は自分のライフ・スタイルを動かせないように、直子の追いつめられたライフ・スタイルに侵入できない。
○療養所の閉ざされた空間がこの小説の中の断層をもっていることは確かだが、そこに生活する人の生活は突き詰めれば不可解ということになる。村上の小説で主人公が納得するときよく使われる生活思想のパターンなのだが、たとえば《死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。》という。
 ところで、“性交に対して強固で単純な認識”というのを別の言い方でいえば、“性行為は本来は自由に行われていい、しかし愛している人と性交するのが最も自然である。そして心的要請によって愛しているもの同士で性交が行われた場合、その関係は内的倫理によって真正面からとらえられ完遂されるべきである”ということになる。七月号でとりあげた山本かずこは、模索の状態で『愛人』のような詩集を書いたのだと思われる。簡単にいえば山本の場合でも対幻想域の認識は揺れた状態のままなのだ。ところが詩というのは遮二無二書かれるものだから、揺れた認識の接線といったかたちになる。エア・ポケットのように動機の曖昧な対幻想域に落ち込むこともあるのが、現在注視されるべき特徴なのではないだろうか。愛という内的倫理が揺れている。『ノルウェイの森』を読んで正面から考えたあと、そんなふうに思った。つまりこの小説が当然のように舞台としている状況と、人物が考える軌跡を真正面からでなく裏のほうからみて書いてみる必要を感じる。売れている漫画雑誌でさえ、そのことを認識していなければつくれない話が必然的に掲載されるのだと思う。
 そういう“揺れ”の中で、やはり詩も生まれているのだと思う。南文『ラーメンの朝』(交野が原発行所)は第一詩集である。

 描きかけの不気味な絵のような
 団地の間に沈む
 安っぽいほど赤すぎる夕陽
 昨夜の風呂場で
 上気する意識と湯気の中
 磨り硝子に張り付いたヤモリも
 世界を一周する
 つくりたてのアスファルトに匂い立つタールが
 内腿を
 もわっとすり抜けて
 出来もしない欲求を掻き立てる
 青白い身体は
 杉の木の根っこで仄めきながら腐敗している
 何も心配いらないとそいつは言うが
 花のように埋もれて笑うばかりなのだ
 椅子の脚にさえなれないというのに
          (〈Bus Stop〉全行)


 湿った生理感覚の中にふいに現われるバスストップが鮮明である。“不気味”という生な言葉を使ったのが失敗であり《出来もしない欲求》というのがわからないが、最後の三行は巧いと思う。これは擬人化なのだろうか。偶然浮かんだイメージなのだろうか。もう一冊の処女詩集で橋本和彦『細い管のある風景』(詩学社)も、これから先期待を抱かせる。
 清水昶『百年』(思潮社)の次のような行は、四月号で書いた現在の都市に対する典型的な認識が出ている。

 東京のビルのひろがりは
 まるで戦争で焼きはらわれた瓦礫である
 中心を失った場所では
 特性をなくさなくては生きていけない
 だからぼくは学校で習った
 死の哲学を
 傾きながらもう一度
 元気をだして読みかえす
          (〈ゆうひ〉部分)


 現在の都市のなかで生きていくことの困惑から、《若い残像》のほうへ回帰していく。“あとがき”で《どうやらぼくは、まだ人間の延長戦を生きているようだ。》と書かれている。この詩人については詳しく論じる必要を感じるが、とりあえず逢着している位置が汲み取れるような詩集だと思う。それにしても初めの四行から次の四行への経過の中に無頼派風の風貌を見ることは、間違いだろう。なげやりふうで計算高くないところが快いにしても。
 岡井隆の評論集『文語詩人 宮沢賢治』(筑摩書房)は、歌稿を含む賢治の文語詩について冷静な鑑賞の態度で書いている。いくつかの鋭い指摘がある。

「文語詩稿」には、人物スケッチ風の作品が意外に多い。作りながら、対象となる人物を想い出している感がある。「文語詩稿」のモチーフはだから、比較的平俗な、交友愛惜の情に発しているのかも知れない。重い主題が捨てられていったのは、そこに原因しているのかも知れない。


 というところとか、

内面的な伝記、というのは言葉の矛盾だけれど、形而上的日記という日記のつけ方があるとすれば、内面だけを綴り、夢だけをつなげて一生の伝記とすることも可能だろう。わたしが、賢治の文語詩で逢着しているのは、そうした内面的なエクリチュールかも知れぬ。


 というところにはっとさせられる。あと、賢治の“歌稿”の短歌的技法についての見解が面白い。
 自然を極限的に細微に描こうとするその可能性を“心象スケッチ”に求めうると認識したとき(もちろん無意識に)、短歌の枠から外れ、自然の空間把握の可能性を一時諦めたとき文語詩をまとめたという言い方はどうだろうか。岡井も別の言い方で同様なことをいっている。こういうことを一般的見解としたうえでテキストクリティックをやり、引用したような文章に岡井はつなげていく。
 自然を強固な永久に奉職できる株式会社(吉本隆明)ととらえた「四季」派の自然空間把握より数段細微に賢治は成し遂げた。自然(関係)―五感―心象―概念(言葉に依る)と並べるとき心象から概念までの距離がいちばん遠い。初めの三つは一つの枠でくくってもいい。自然を分節するとき、概念が細分化されていればいるほど綿密にできると言えばいえる。だが心象から自然までを総体的にとらえたいのだ。概念の分節化は自然の分節化の無限に対応して無限になっている。それに粘着的な記号として対応する言葉もまた無限になっている。そうすると概念の分節化が勝負ではなくて心象の総体にできるだけ沿った概念構成の試行が始まる。だがここに一つの謎がある。無意味な記号が前三者に抉り込んでいる部分が確かにある。これが言葉の謎だ。ソシュールではないが、アナグラムでもである。
 このことはおいておくにしても、一応いろいろ放射線状にやってみたよ、ということで今度は無限ループを目指す文語定型詩に向かったのではないだろうか。材料は溢れるまでに蓄積されているのである。岡井のいう短歌的技巧は、僕は“無限ループをつくる”という比喩で表わせると思う。完結性を基準にするとき俳句、短歌、文語定型詩、口語自由詩というふうに並べることに格別の意味はない。“無限ループ”とは粗雑な比喩かもしれないが、映像と感情の断絶する技法や起承転結を含む構成の限界意識はその形に規定されざるをえない。完結性寸前のところである折返しを定型詩はつくるのではないだろうか。もちろん口語自由詩のイメージも無限に時空に発散するようにはできないわけだから、折返しをつくるのだがそのバリエーションの範囲が違う。この折返しをいかに固有にやるかが定型詩の課題なのではないだろうか。岡井のこの本は賢治の文語詩を考えるときとても役にたつ。全体的にみれば、岡井の批評意識はほとんど註解することに専念しテキストの細部から始め、飛躍したアイデアを抑制しようとする意識がはたらいている。
 ちぎ・けんいち『アニマル! アニマル!』(イオブックス)は情念をポップなかたちで提出する。ものすごく口語的で風俗的な題材を生のまま出した詩と、自分はメタレベルにいるんだぞみたいなかっこ付けだけの詩があったら、僕は前者を選びたい。その意味でこの詩集は好感がもてる。

 「アオイキンギョ アオイキンギョ」と叫びながら
 全力疾走する男がいる
 もう四日間ずっと通勤中の男は
 柱時計のような顔でパチンコ屋の前に立つ
 マクドナルドハンバーガーが黄色い光を投げる
 背広の男が
 ヘッドスライディングする
 顔を血だらけにして
 またヘッドスライディングする
          (〈大阪環状線天満駅のララバイ〉部分)


 どういうわけか、双方がきちんと背広を着た人の喧嘩をたまたま続けてみた。背広の男がヘッドスライディングするというイメージが、ミスマッチでなくなってきた。
 野間明子『玻璃』(漉林書房)は意識して夢の記録をとったところから出発している。夢における決着のつけかたというのは、いつも意外でそれでいて的を射ている。あるいは夢の決着のつけかたをヒントにしている。
 金城哲雄『風のゆくえ・風の場所』(脈発行所)は陰鬱な気分をもっている。

 静かに降りつづける雨の道路に
 突然
 眼帯の男が駆け抜けるのを見た
          (〈剥きだしの痛み〉部分)


 この三行で一篇の詩にすればいいと思う。あるいはこのイメージに匹敵するイメージで展開するべきである。詩をたくさん書いていて、これと思う部分をつかんだらあとは全部捨てるということをやったほうがいいと思う。またそこに展開の端緒があるというべきである。
 たなかあきみつ『声の痣』(七月堂)は自動記述の一種だと思う。実は自動記述でも言葉に対するこだわりは必ずわかるといっていい。自動記述の場合そのこだわりから遡るのだ。もともと心から溢れてくるものから、意味から逸脱する言葉が出てくるのだから、あらかじめ逸脱させるのはナンセンスなわけだ。たなかはこの微妙なところに接している。

 空っぽの胃に
 投凾された
 ザーウミの虹の骰子
          (〈声の痣〉部分)

 フレーブニコフは
 ついに
 薄荷がきらい 
          (同前)


 こういう言葉の並べ方が古風に感じられる。これは空洞に接しているのではないだろうか。
 元野影一『塔の消えた日』(本多企画)、大橋政人『キヨシ君の励ましによって私は生きる』(紙鳶社)も印象に残る。

Copyright (C) 1990 Shimizu Rinzo, etc
「現代詩手帖」詩書月評(一九九〇年)目次
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