Cu

1.

 理科準備室。今日の実験に使う物を取ってくるのが「理科係」である彼の役目だ。鍵をもらって中へ入る。薄暗い部屋。彼はこの雰囲気が好きだった。きらきらと光るガラス器具。薬品。岩のサンプル。モーターのカットモデル。滑車。人体模型。はく製。骨。液体の中に浮かぶ作り物めいた動物たち。部屋はそれ自体で地球と宇宙のひとつの標本だった。
 奥の方で、ひと抱えもある大きなガラスびんを彼は見つけた。中は青い液体で満たされている。びんはほのかな光を増幅し、あたりを青く染め上げるランプの役割を果していた。まるで海の中にいるようだ、彼はそう思った。びんには小さなラベルがついていて、「Cu2+」とマジックで書いてある。銅イオン。結合を解かれて蒼ざめる、赤茶の金属。でも本当は、彼らは束縛から逃れて喜んでいるのかもしれない。エントロピーの法則によればそうだ。どちらにせよ、このもと金属だった青い液体は、金属だった時にはちらりとも見せない妖しさで今ひとりの少年を魅了している。びんをのぞき込んで、彼はそのうちこの青い液体の中からアメーバが発生し、それが集まり進化して生き物が発生するかもしれないと考えだした。海水浴にいっても得られなかった「海」のイメージがこのびんの中にはあった。原初の海。彼はじっと見ていた。生命の誕生の瞬間を見逃すまいと。
 突然、がらがらと不快な音がした。彼がはっと我にかえって振り向くと、理科の教師が憮然として立っていた。彼は急いで必要なものを取って、それを抱えて理科室へ走った。理科の時間、彼は授業もうわの空でずっと海のことばかり考えていた。

2.

 女性というものは、少なくとも月一回「血」とつき合わなくてはならない。彼女は初潮が来てからまだ三回しか生理を経験していないが、その女の性(さが)にうんざりするにはそれで充分だった。おまけに彼女は保健委員の任に就いており、あの運命的な現象に加えてさらに多くの血を見る機会があった。
 まったく、血が赤いなんて誰が決めたのか。赤と言うのは、何か生々しいものを連想させる。すりむいたひざを見るたびに彼女は人の肉が溶けて流れるように感じ、そして生理の度に彼女はヒトになりそこねたものがどろどろと自分の身体から這い出してくるような気がした。彼女は、赤という色に拒絶反応を示すようにさえなった。
 本で読んだけれど、血の色が赤いというのには特に何の必然性もないらしい。たまたま大部分の動物の血液には赤い鉄分が含まれているのだが、別にそれは鉄でなくったっていいのだ。その証拠に、イカの血は青い。イカの血には、鉄のかわりに銅が溶けているからだ。あたしの血も青ければ、そんなに生々しい感じもしないだろうに。彼女はそう思った。
 冷静に考えてみても、人間の体液にはやはり「青」がふさわしい気がする。原初、すべての生物の祖先である有機体は、細胞液として周りの海の水を自らの体の中に封じ込めた。青い海。生き物すべての故郷。その純粋な体液にいつ鉄の赤が紛れ込んだのか知らないが、ともかくこれは本来の色じゃない。彼女はそう確信した。
 精一杯の想像力を動員して、彼女は青い血の自分を思い浮かべる。すりむいたひざににじむ青い血。「ブルーデイ」の呼び名にふさわしくやってくる青い経血。やがて彼女は誰かと結ばれ、母になる。青い胎盤を破って出てくる、青い胎児。看護婦が、赤ん坊(この言い方も訂正した方がいい)を見せる。「ほら、かわいい女の子ですよ」。泣き叫ぶ口の奥に見える、青い舌。青い喉。見えないけれど看護婦たちが処理しているであろう、青いへその緒。青い血のついた手を洗う医師たち。排水口に流れる、青い液体。ゼリー状の青い固形物が少しこびりついている。
 そこまで考えて、彼女はやめた。気分直しにテレビをつけるとちょうどナプキンのCMで、売り物の吸収力を青インクを使って見せていた。彼女はそれで完璧に憂鬱(ブルー)になってしまった。やはり赤い鉄分に染った脳味噌で考えるには、彼女の考えは飛躍しすぎていたようである。

3.

 絵を描くとき、青い絵の具しか使わない子をひとり知っている。パレットに淡い青から黒っぽい青までを十段階ほどつくることから、彼女のすべての創作が始まる。風景を描くにも静物を描くにも、人物を描くにもそうだ。もちろんその後はごく普通の水彩画なのだが、彼女の絵は他人にはとうてい真似できない透明感を持っていた。
 つまらない質問だとは思いつつも、僕は彼女に聞いてみたことがある。
「何で青しか使わないの?」
 彼女は少し笑って、言った。「あのね、沈んでるの」「海の中に沈んでるの、ぜん ぶ」
 今、僕は地中海のあたりを周っている。この海の鮮やかな青は、遠い昔に沈んでしまったギリシアの青銅器から溶け出した銅の青だ。そういえば、人類が最も古くから使っている顔料は銅鋼から取れる青だという話も聞いたことがある。あの子をここに連れてきたらどんなに喜ぶだろう、僕はそう思った。ここは彼女の絵と同じ青の世界だ。絵の具はこの海いっぱいに満たされている。
 夜、僕は夢を見た。北極と南極の氷が解けて、地球の陸地が全て水没してしまう夢だ。海に沈んだ人類の文明は、少しずつ少しずつ水に溶けていく。地下にはりめぐらされていたケーブルの銅線も、イオンとなって海を青く染める。そして、ただひとり生き残った少女はその海を絵の具として滅びた街を描き続けるのだ。どこまでも青い、透明な街を。




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