Ulf Poschardt, Shaun Whiteside (trans.) _DJ Culture_ (Quartet Books, ISBN0-7043-8098-6, 1995/1998, book) - 21cm(h)-19(w), pp.474, paper back. _The Wire_ 誌1998年12月号に著者のインタヴュー記事が載っていて気になっていた この本をやっと入手した。ざっと読んだ限りでは、少々ジャーナリスティックな 感じもあって、読みやすそうに思う。まだ細かい議論まで追っていないが、なかなか 面白そうな本なので、概要を紹介しよう。 この本は、1995年にドイツ語で書かれた本の英訳である。著者は _Sueddeutsche Zeitung_ 誌の編集長で _The Wire_ 誌のインタヴューでは、「Kodwo Eshun、 Greil Marcus や Slavoj Zizek といったライターを紹介するため」に仕事している、 と言っている。序文を読んでいても、Greil Marcus をかなり意識していると 感じるところがあって、_Lipstick Traces_ (Harvard Univ. Pr., 1989) で Marcus が示した「20世紀の隠された歴史」をDJ文化について補完し Punk 以降へ 延長しようという意図もあるよう。だが、それは、ちょっとズレているような 気もする。しかし、この本における、DJ文化が近代芸術的な面を持っているという 認識はある意味で妥当だと思うし、それを積極的に評価しようという立場も 理解できる。 この本において、Poschardt は、DJing の3要素を「2枚のレコードをミックス してプレイすること」「リミックス」「サンプリング」として定義している。 これは、少々定義が狭いようにも思うのだけれども。いわゆる Rapping のような 部分は抜け落ちるわけだけども。Poschardt も David Toop, _Rap Attack_ に 言及して、全く無視しているわけではないのだけれど。このような Rap 的な部分が 抜け落ちる傾向は、Hip Hop が欧州では Rap が抜け落ちた Abstruct Hip Hop と して発展したという経緯とも似ているように思う。(著者はドイツ人である。) この本は、DJ が単なる「レコード廻し (record-spinner)」から「アーティスト (artist)」になった歴史についての本である。大きく「前史 (prehistory)」と 「歴史 (history)」に章が分かれていて、「前史」というのは、「アーティスト」 となるようになる前の DJ の歩みを意味している。「前歴」の章は、1906年に ラジオ放送において初めて"DJ"をしたラジオ技術者 Reginald A. Fessenden から、 その歴史を語り始めている。 「歴史」というのは、DJが「アーティスト」になるようになってからの歩みで、 最初の「作家/アーティスト/アイドルとしてのDJ (DJ-as-autheur/artist/idol)」 として、1969年に NY にあったアンダーグラウンドなクラブ Salvation のDJ、 Francis Grosso を挙げている。彼は、スリップマットを使い、2台のスピード コントローラ付きターンテーブルを用い、音をミックスすることをしていたという。 グルーピーも沢山いたそうだ。(500人もの女性と寝た、という記述まである。) ただし、"Francis Grosso never saw himself as an artist, but only ever as someone who put on records and mixed them, thus realizing his own ideas." ということで、「アーティスト」としての自意識の成立からではなく、技術的な 「革新性」やグルーピーの存在といった点から、Poschardt は Grosso を 「アーティスト」と見なしている。これは、autheur/artist/idol と併記している ことから判るように、いささか近代芸術的な「アーティスト」から意味がズレていて、 Pop / Art の切り分けが曖昧な気もするのだけど。 「歴史」の章では、それ以降の様々なDJ文化において、系統図 (family tree) を 述べているのだけれど、図示していないのでいまいち見通しが悪いのが惜しい。 Eurobeat / Hi-ENG (House の中) や、Industrial 〜 Electric Body Music (Techno の中) に、一節を割いているのは、欧州出身の著者ならでは、だろうか。 1995年に書かれた本ということもあって、Jungle 〜 Drum'n'Bass がほぼ抜け落ちて いるのが惜しい。 この「前史」「歴史」に関しては、Rap 的な意味でのDJが抜けているものの、 かなり多くのDJのエピソードを集めており、ざっと斜め読みしていても面白そう。 資料的にも使えそうに思う。ただ、書誌情報はちゃんとしているのだが、 ディスコグラフィックな情報に欠けているのが惜しい。いわゆる音楽を聴くための 入門書としては使えない。 「前史」「歴史」に続いて最後に「DJ文化 - 理論の試み (DJ Culture - Attempt at a Theory)」という章があり、そこで、モダニズムの中にDJ文化を 位置づけようとしている。例えば、「作家の死 (The death of auteur)」についての 議論では、DJ文化における聞き手/作り手は、もやは、Roland Barthes 的な意味での 読み手/書き手とは異なるものになってしまっていると主張している。そして、 DJ文化は、「作家の死」に関するものではなく、むしろ、音楽が制作される構造の 拡張 (そして「作家」の拡張) に関するものだと、主張している。「主題」に ついても同じような議論をしてる。「自己言及性」も、目的ではなくそのような 拡張の結果に過ぎないと。そして、著者はこう主張する。 ポピュラー文化の文脈の中で、モダニズムの可能性は全く尽きてはいないこと、 そして、歴史の進歩の道筋のさらなる進展に大きな歪みを生じさせることなく 当てはめることのできる、闘うだけの価値のある新しい目的とその戦略、 新しい方法、手段や道筋、があることを、DJ文化は明らかにしてきた。 ここの議論は、Jurgen Habermas からの影響が強く感じられる。近代 ― 未完の プロジェクトを21世紀に向けてさらに推し進めるものの一つとして、この本では DJ文化を捉えている。このような Habermas からの影響は、著者がドイツの人だと いうこともあるかもしれない。また、ZKM 界隈で言われている「第二の近代」の ような議論とも関係あるかもしれない。 この本の主張に全て同意するわけでもないが (そもそも、まだ追いきれていない ところもあるが)、ポピュラー音楽に関するエッセーは、Jean-Francois Lyotar 対 Jurgen Habermas の議論の図式で見ると、Lyotar の側に近い立場で議論を進めて いることが多いと感じていただけに、Habermas に近い立場で書かれているという ことが、この本を読んでいて最も興味深く思ったところだった。 1999/9/12 嶋田 Trout Fishing in Japan 丈裕