ジョセフ・コスース『1965-1999 訪問者と外国人、孤立の時代』 Joseph Kosuth, _Guests and Foreigners: The Years of Isolation (including a Survey of Works 1965-1999)_ 千葉市美術館, 千葉市中央区中央3-10-8, tel.043-227-8600. 1999/12/21-2000/2/6 (月休;1/10開;12/29-1/3休), 10:00-18:00. US で 1960s〜70s に展開した概念芸術 (conceptual art) の代表的な作家 Joseph Kosuth の、新作を含む回顧展。1月23日の作家トークのビデオ上映会に 合わせて観てきた。 意味に対する「権威」がどこにあるのか (展示された物なのか、指示書なのか。) という問題 (多分にイデオロギー的なのだが。) は別として、基本的に、 彼のこだわる「意味の生成」の場というのは、(文芸理論の) Mikhail Bakhtin の 言うところの「多声 (polyphony)」とでもいうものに近いものだと思う。 文学のような "ハイアート" でなくても、Greil Marcus はその rock についての 評論 "Life After Death" (1982) (_In The Fascist Bathroom - Punk In Pop Music 1977-1992_ (Harverd Univ. Pr., 1993) 所収) で、「歌詞付きの一編の音楽と いうのは矛盾である。」と言い、その矛盾に「意味作用 (意味づくり)」の場を 見出している。それに従えば、Kosuth の pre-_Titled_ の作品において、 テキストと写真と物というのは、矛盾である。他の作品にしても、ある意味で 「多声」を強調することを目指した作品になっていると思う。 「多声」や「矛盾」の意味作用は Joseph Kosuth の作品の特徴ではないわけで、 そういうことを考えていると、結局のところ、Kosuth の作品について考えるとき、 それが概念芸術であるということが重要なのではなく、また、その概念芸術の イデオロギーとは裏腹に、例えば、どうして歌詞付きの一編の音楽ではなく、 もしくは、Bakhtin が言うような文学における「二重志向の言説」でもなく、 テキストと写真と物なのか、それらによってどのように「多声」「矛盾」が、 提示されているのか、といった、そういう問題になるのだと、僕は思う。 そういう観点で Kosuth の作品を観ていると、1980年代の Freud に関する作品、 特に _Fetishism Corrected, Green_ (1985) のような、自己言及的で、見た目も 自己相似的な作品に、構成された矛盾にさり気ないユーモアが感じられたと思うし。 そういう傾向の強い作品が僕は気に入った。 この作品の問題点としては、やはり、概念芸術作品の多くがそうなのだけれど、 時間感覚が無いことが無いということがあるように思う。例えば、新作である _Guests and Foreigners: The Years of Isolation_ (1999) の、ギャラリーの 壁にレタリングするというインスタレーションが、複数のテキストの織り成す 「多声」「矛盾」を鑑賞者に実感させるのにうってつけの表現方法だとは、 僕にはとうてい思えないのだ。もちろん、ばっと目に綺麗で気になるもので、 後でカタログのブックレットでテキスト内容の詳細に当たることができるので あれば、それで良いとは思う。しかし、今回の展示の日本語のレタリングは、 写真で見ることができる欧米の展示でのローマ文字のレタリングに比べて、 いまいち美しく無かったのだが。特に、カーニング処理など、素人の僕から 見ても、ちゃんとされてないのが目についてしまうのは、ちょっと残念だった。 作家トークのビデオの内容は、残念ながら大したことはなく、概念芸術に関する 基本的な Kosuth の主張に始終していた。というか、「現代美術は難解で、 どうみたらよいかとまどうところがあるのですが…。」みたいな質問は、 止めて欲しいと思うのだけれども…。 2000/1/23 嶋田 Trout Fishing in Japan 丈裕