ウィリアム・H・ギャス 「ブルーについての哲学的考察」 (創論社, ISBN4-8460-0273-X, '95/9/30) William H. Gass "On Being Blue - A Philosophical Inquiry" ('76) - 訳 by 須山 静夫 + 大崎 ふみ子 - pp.206, 2575円 John Barth、Thomas Pynchon、Donald Barthelmeなどと並ぶアメリカのポスト モダン小説家と言及されながらも、彼らと異なりめったにその作品が翻訳紹介 されることがなかったWilliam Gassのエッセーの翻訳が出た。Gassの翻訳は、 「アメリカの果ての果て」(冨山房, "In The Heart Of The Heart Of The Country" ('68)) いう'68年の短編集が他に出ているだけだ。(未入手だが。) 哲学的考察などとあるが、それほど論理的に書かれたものではない。むしろ その語り口を楽しみたいエッセーだ。John Barthと一緒に講演旅行に行く くらいで、ある意味でBarthの名エッセー集である「金曜日の本」(筑摩書房, "The Friday Book" ('84))に感触が近い。といっても、芸風は若干異なるが。 「そこで私は、セックスが文学にはいりこむ五つのふつうの方法を、一つを 口の中に入れているあいだ、四つのポケットのおのおのに一つずつ入れて、 これから述べよう。」(p.18) ということで、この本は、*青について*の本ではなく、文学におけるセックス 描写について書かれた本と言える。しかし、*セックス*は例題であり、それを *(小説に)書く*ということがこの本の主題である、と言えるだろう。 「セックスが文学にはいりこむのは、ちょうど観音開きのドアや、金てこで こじあけられた窓を通って泥棒が夢に侵入し、私たちの女を強姦し、私たちの 強力な道具を盗み、私たちの夢を破壊するのに似ている。」(p.18) と、話は続くのだ。多くの小説に見られるセックス描写を通して、*小説の嘘* − 約束事とその限界を暴こう、というのが、このエッセーの主眼だ。もちろん、 こういったことは、ポストモダンの文学批評でさんざんやられてきたことでは ある。この本にそれほど目新しい視点があるわけではない。 むしろ、この本の面白さは、大量の多様な作品や関連する本を引用しながら、 それを、当然のものとしては受け入れがたいもの、疑わしいものとして、呈示 していく語り口だ。それも痛快な。例えば、Alain Robbe=Grilletがヌーボー ロマンの宣言とも言える"Pour Un Nouveau Roman"の中でフロベールなどを 引き合いに数頁かけて物語が既に時代遅れになっているのにそれを擁護する 批評家を批判している。Gassはそういったことを、手短に 「フロベールは、エンマ・ボヴァリーが姦通をおかす部屋に私たちの目を向け させ、それで満足するだけの分別を持っている。ところが、彼を絶賛する人々 にはしばしばその分別が欠けているのだ。」(p.58) と言ってのける。頭ではわかっているつもりでも、こうして鮮やかに語られる のを読むのは面白い。このように、この本には、今までなんとはなしに読み 流してしまった小説を、違うふうに読み直すための暗示的なヒントがたくさん ある。これでもかこれでもかと一冊も続くと、読んでいて後半に緊張感がきれる ところがあるが、それでも充分に刺激的だ。 めったに紹介されないWilliam Gassの翻訳でもある。一読をお薦めしたい。 96/1/5 嶋田 "Trout Fishing in Japan" 丈裕