原美術館主宰のバスツアーでハラ・ミュージアム・アークへ行ってきた7月20日の TFJです。往路は、バスの空調が壊れて使えず、車内はサウナ状態。曇天は不幸中の 幸いか。さらに渋滞に巻き込まれ、到着は予定の二時間遅れ。14時からの八谷和彦の ワークショップにはなんとか間に合ったが、Cafe d'Artでランチと企画ケーキを 慌ただしく食べることになってしまった。ゆったりとした時間を過ごしたかったのに、 ここまでで気分は台無し。このまま最低な気分で一日は終わるのだろうか、という 憂鬱を吹き飛ばしてくれたのが、視聴覚交換マシンだった。 ・ ・ ・ 八谷 和彦 - 視聴覚交換マシン ハラ・ミュージアム・アーク, 渋川伊香保 - 96/7/20,21,8/10,11 おまえ、いつも俺の胸を見ているのか。/高い〜。 僕が順番を待つ間、視聴覚交換マシンを付けたカップルが、付けたばかりの向かい 合った状態でまず交わしたのが、これだった。 視聴覚交換マシンは、眼鏡式のヴィデオモニターとヘッドフォンとマイクとヴィデオ カメラとトランスミッタが一体となったヘッドマウント部と、鳥の翼のような アンテナの付いた背負い式の受信部からなり、2台1組で互いの視聴覚を擬似的に 交換するという作品だ。 「相手の身になる」ということを強制的に実現したもの、と、いうコンセプトだ そうだが、僕が付けた感想としては、あまり他人の身になった気がしなかった。 これは、ちょっとした男友達と組んで体験したからかもしれない。彼がどのような 視線で物を見ているのか、正直言って僕はあまり興味なかった。むしろ、自分の 動きと無関係の映像を見ている感覚はTVを見ているようであり、その一方で目隠し されて動き回る感覚に近かった。しかし、しばらく歩き回るうちに視野の中に 自分の姿を見つけると、それを頼りに動きが取りやすくなった。相手を見つけて 喧嘩をするという約束だったのだが、結局はそんなことはしなかったし−特に理由 なしに喧嘩するのは難しい。−、組んだ相手と手を取り合ったときはむしろなんと なく嬉しかった。 この体験は相互二人羽織とでもいうようなものだった。それはそれでとても面白い ものだ。例えば、これを数組用意し二人で何か共同作業しその完成時間を競う ようなゲームをする、というのは、それだけでTV番組の企画になるものだろう。 そのようなゲーム感覚が、この作品の一つのポイントだ。この件について八谷に 尋ねたところ、数組の視聴覚交換マシンを同時に動かすのは、現状では混信の 可能性があって難しいと言っていたが。 結局のところ、「相手の身になる」というのは、当事者にそもそもその気が無いと 始まらないことなのだ。映画やTVだけでなく、多くの芸術・ジャーナリズム作品は 受け手に自分と異なる視線で描かれているわけだが、どれだけその身になることが できているだろうか。しかし、相手の身になってみたい相手と組んでこれを体験して みると、また違う体験になるのかもしれない。その相手は、例えば、恋人同士とか 親子かもしれない。 もし僕にそういう相手がいたなら、喧嘩やセックス−実際にそういう仕上がりだとは 思わないが、このマシンの仕様には「装着してのキス・セックスが可能であること」 というものがある、と八谷は言っていた。−のような差違の際立つ人間関係とまで いかなくても、二人で向き合って座ってお茶でもしながらゆっくり語りあってみたい。 そしてその体験は、相手の身になってみたいもしくは相手の身になっているつもりで いるほどに、むしろいかに自分が相手の視点を判っていないか暴く体験になるかも しれない。はじめに挙げたカップルのように。そして、相手の視点の理解を助ける ということではなく−その機能があってもそれは映画やTVの程度とたいして変わら ないだろう、と僕は思う。−、自分と他人の視点の埋め難い差違を暴くということが できるということが、この作品のもう一つのポイントだ。 モニターで見られる映像はモノクロで粗いものだし、聴覚に関していえば交換した という印象が全く残らないなど、改善の余地を探せばいくらでもあるだろう。 しかし、ゲーム感覚でも充分に楽しめるだろうポップさ持ちながら、自分と他人の 差違という奈落を暴いて見せてくれるだけでも、この作品は成功していると僕は思う。 ・ ・ ・ 「視聴覚交換マシン」は、以下の展覧会の期間中の関連ワークショップとして出展 されている。 アートは楽しい7 - In/Out ハラ・ミュージアム・アーク, 渋川伊香保 - 96/7/6-9/1, 10:00-16:00, 7/11,18休 - 有地 左右一 + 笹岡 敬, 城戸 孝充, 小島 久弥, 関口 敦仁, 西野 康造, 松村 泰三, 森脇 裕之 松村 泰三 "Synchronize"は、去年末にプラス・マイナス・ギャラリーの個展で 観たものだが、ヴィデオ映像と肉眼で見ているものの違いを直感的に暴いて見せる この作品は好きだ。ただ、この作品は93年のもののはずだから、今後どういう展開を しているのか、するつもりなのか、気掛かりだ。 有地 左右一 + 笹岡 敬 "Luminous"は、今年6月の日本・オランダ現代美術交流展で 観ているはずなのだが、見事に印象に残っていなかった。電極に加圧するのではなく 電磁波を当てることによって蛍光燈を光らせるこの作品はこの展覧会の中でも栄える 奇麗さではあるのだが。ギャラリートークで作家が言うほどには、対象とする日常と いうものが作品から見えない、ということが理由かもしれない。 関口 敦仁 "地球の作り方 - 祈り"は、4人の合掌のそれぞれ4点の圧力の釣り合いで 4分割された地球の映像を1つにする、という作品。自分の合掌における力のかけ 具合と映像との間に直感的な関係を見出せないため、合掌していてかなり不条理な 気分になる。作家自身がゲーム性はほとんど無いと言っていたし、そもそも祈る なんてそういう不条理なものだ、という点からすれば、まさにコンセプト通りなの かもしれないが。擬似餌でいいから、鑑賞者を作品に引き付けるような、強引さが 欲しい。 展覧会全体の印象としては、ちょっと見は楽しいのだが、あまりひっかかる所も無い 展示なので、観終わった後の印象が希薄だ。もともとそんな企画ではない、といえば、 それまでだが。 ・ ・ ・ 展覧会を観た後、伊香保温泉の源泉地まで登って露天風呂に入った。家ではシャワーで 済ましていることもあるが、久しぶりに風呂でリラックスできたような気がする。 96/7/20 嶋田 "Trout Fishing in Japan" 丈裕