フランスNouvelle Vagueの5人組の一人Eric Rohmerの初期 (60年代前半) の中編を 観てきた。 「モンソーのパン屋の女の子」 (シネセゾン, '96) - France, '62, 16mm (35mm), monochrome, 26min - Directed by Eric Rohmer 「シュザンヌの生き方」 (シネセゾン, '96) - France, '63, 16mm (35mm), monochrome, 52min 「六つの本心の話 "Six Contes Moraux"」の最初の2編は、16minで撮影されたという ことよりも、台詞がいわゆるトークオーバーというアフレコによるナレーションで あることが、妙にぎくしゃくした感を生んでいる。 小説版の方を熟読していたためほぼ展開が読めたこともあるのだろうが、ナレーション と小説に差を感じられなかったところが面白かった。それが説明的ではないことが、 良いのだが。むしろ、語られる観念が主役、というのが、いくつか観た最近の作品 よりもくっきり出ているように思う。そう、映画で観ると、小説ではうっとおしく 感じたくらいの所がちょうど良く、もっときついディスカッション・ドラマ風にして もいいくらい、とも思ったほどだ。 小説で自分なりの登場人物像を作り上げていたこともあり、それとのギャップも 面白かったが。特に「モンソーのパン屋の女の子」の主人公の男性は、線の細い気が 弱そうなタイプというイメージがあったので、割腹のいい男優に違和感を覚えた。 平日の朝のみの上映ということもあるし、あまり勧められるものではないが。 ・ ・ ・ 僕がいくつかのRohmerの映画や小説に接して比較したくなるのがUSのポストモダン 小説の代表的な作家John Barthの初期の2つの小説、特に「旅路の果て "The End Of The Road"」('58/'67)だ。それは、いわゆる近代社会の性的倫理を俎上に上げている こともあるのだが、それを俎上へ上げるにあたって、ディスカッション・ドラマ的と もいえるとても観念的な方法をとり、それで物語拒否ともメロドラマ拒否ともいえる ものを感じるからだ。 John Barth "The End Of The Road"の主人公Jacob Hornerにしても、「固定症状」が 出るほどで活動的ではなく、結末を除いて、恋愛はたとえセックスを伴うものだと しても情熱的に人生を賭けるものというよりおおよそ登場人物にとって (Godardの ように、作家と観客にとってではない) 議論の対象であり、おおよそ「情熱的」とは いえない。 これは今までRohmerの映画からもそういう印象を受けることで、登場人物は恋愛を するというより恋愛について語りつづけるといった具合だ。今公開中の「夏物語 "Conte D'Ete"」なら、GasperとMargotのように。 Rohmerの映画では、登場人物にひたすら語りつづけさせることでメロドラマを拒絶 している感もあるのだが、Barthと比較するときに気になるのが、"The End Of The Road"の結末なのだ。ここでは、Jacob Hornerの情事の相手が、妊娠した上に非合法 中絶手術に死ぬのだ。 「(これは)『フローティング・オペラ』に直接つづくはずのもので、『フローティング・ オペラ』の結論として始まるはずだったが、結局は、まったく違った結論になって しまった ---- ぞっとするような結論で、死ぬべきでない人が死ぬ。自分の、また 他人の観念によって滅ぼされる。私は、そのころもすでに観念がおもちゃでないことを 知っていた。」-- John Barth [1] 少なくとも僕が観たRohmerの映画では、登場人物は観念を弄ぶ有閑人といった具合 なのだが、Rohmerにとっても観念はオモチャではなかったようだ。最近、知ったこと なのだが、 「ロメールが『クレールの膝』の最初期のシナリオを1951年『カイエ・デュ・シネマ』 誌に発表したとき、そこにはまだヒッチコック/トリューフォー的メロドラマの要素が 色濃く残っていた。完成版との最大の相違は、今日クレールという名で呼ばれている 娘が最初期のシナリオでは妊娠したあげくに自殺してしまうという点であろう。 また今日『クレールの膝』の観客で、そこに象徴的レイプの存在を指摘するのは 紋切型のフェミニストたちくらいのものだろうが、最初期のシナリオ段階でレイプの 暗示を見落とす者は誰もいなかっただろう。要するに、ロメールは構想段階から 二十年かけて自作からメロドラマ的意匠をそぎおとしていったわけである。」[2] とある。「クレールの膝 "Le Genou De Claire"」は小説で読んだが映画は未見なので、 多くは語り辛いが、Barthの"The End Of The Road"の結末がだからといってメロ ドラマチックであるとは思わないが。 どちらが優れているかというよりも、芸風の違いのようなものだと思うのだが、 このRohmerが20年かけてそぎおとしていったものが気になっている。もしくは、 Barthの"The End Of The Road"での「まったく違う結論」とは何なのかという問題 なのかもしれない。 これからしばらくは、これがRohmerを観るにあたっての僕の最大の気掛かりになり そうだ。その答があるのかどうか..。 [1]志村 正雄: 解説, 旅路の果て, 白水社, 1984. [2]加藤 幹郎: ヌーヴェル・バーグはいかにヒッチコック的メロドラマを継承するか, ユリイカ臨時増刊 vol21-16 「ヌーヴェル・ヴァーグ30年」, 青土社, 1989. 96/9/9 嶋田 "Trout Fishing in Japan" 丈裕