天気が読めなくて家を出る機会を逸してしまった土曜のTFJです。家で Linton Kwesi Johnson のライヴ評を書き上げて日が暮れた頃家を出たが、CISCO のセールに 出遅れてしまった。まあ、いいや、と、いきつけのジャズ喫茶 Mary Jane へ。 「エスクワィア日本版」97年4月号の「柴田 元幸と読む現代文学のフロンティア」は 面白い。ちょうど Postpunk ML で I know と I should know の違いについて力説した ばかりだったこともあるのだが。Mary Jane で読んでいて爆笑していてはいかんね。 くくくくく。 _ _ _ ジュリアン・バーンズ 「リバイバル」 (エスクワィア日本版, 97年4月号) Julian Barnes "The Revival" ('96) - 柴田 元幸 訳 若い頃の戯曲が再上演 (revival) された老文豪が、女優との恋で若返る (revival) という物語。だが、Julian Barnes がそんな単純な作品を書くはずがない。実は、 その恋をどう物語るかについての物語だ。 だから、この短編の一つの鍵は、例えば「そこ(恋)に胸踊るものがあるとすれば、 それらは「もし……してさえいたら」「……だったかもしれない」という名がついて いた。」といった所だ。ここが元の英語でどう書かれているのか気になる。実は、 「そこ(恋)に胸踊るものがあるとすれば、仮定法 (過去) という名がついていた。」 じゃないか、と思われる節があるからだ。というのは、他にも、「だから二人は、 実はまた旅をしたのだ。仮定法過去のなかで、ともに旅したのである。」「もちろん、 再婚をこの期に及んで撤回するのを是認したりしたら、あまりに大きな現実を引き 入れることになってしまったであろう。現在時制が、そこには入り込んできたで あろう。」のような表現があるからだ。 日本語のように直説法/仮定法 (間説法) という対立のない言葉からは想像しがたい のかもしれないが、直説法と間説法の叙述の使い分けは、欧米の文学 − に限ら ないが − では重要な鍵になっていると思う。直説法/間説法の区別もわからない のに欧米の文学を楽しめるはずがない、とまでは言わないけど、これがわかると その味わいがぐっと深まると思う。それで細かなニュアンスを運んでいることが 多いので、なかなか掴みかねるところなんだけれども。僕も、自分はわかっている、 とは言えないけど (I know じゃなくて I should know (笑)。)。 そういった、直説法/間説法の微妙なあや − だけじゃないが − を使って、物語る ことに関してユーモラスに物語ってみせる Julian Barnes、さすがだ。 Julian Barnes といえば『フロベールの鸚鵡 "Flaubert's Parrot"』('84)(白水社, ISBN4-560-04454-6, '89/9/30) で知られるイギリスの作家。『フロベールの鸚鵡』 も、とても面白い作品なので、お薦め。しかし、最近の柴田 元幸はほんとイギリス づいてるなぁ。と思ったら、この作品は去年8月に"The New Yorker"誌に掲載された ものらしい。へえー。 _ _ _ 「エスクワィア日本版」97年4月号の Agnes Varda のインタヴュー。映画百年記念 映画「百一夜」の公開は3月下旬よりシネセゾン渋谷で。けど、「「5時から7時まで のクレオ」や「幸福」といった代表作が近々ビデオ化されるそうである。」という 方に期待が…。 97/3/1 嶋田 "Trout Fishing in Japan" 丈裕