土曜の14時頃からの 雪竹 太郎 の「人間美術館」で、「ゲルニカ」の右から 二番目、あおむけに倒れている人の役をやっていた黒い The Ex のTシャツを 着た男が僕です。というわけで、大道芸好きな TFJ です。今年も行ってきた、 野毛大道芸。結局二日とも行ってしまった。 第21回野毛大道芸 "21th The International Street Performance Festival" 野毛商店街〜吉田町商店街 (桜木町,日ノ出町,関内) 97/4/19,20 12:00〜16:30 土曜は自転車で雨上りの冷たい風を切って昼過ぎに会場に到着、と、ちょっと 出遅れた。腹ごしらえに屋台の焼きソバをビールで流し込みつつ、貰った案内の チラシを見つつ会場をふらつき様子見した。いつも、土曜は客の出足は日曜ほど じゃないのだが、朝の雨のせいか出足が悪い。歩き易いのはいいのだが。 効率良く観る作戦を立てるのは重要だ。だらだら観ていると、結局、人ごみしか 観られない、ということになりかねない。 しかし、野毛商店街から観ていたら、土曜は吉田町商店街のほうがろくに観られ なかった。雪竹 太郎 などとても楽しんだので、日曜も行くことを決意。 日曜は好天ということもあり、土曜とうってかわって猛烈な人出だった。 ゆっくり観るなら、やはり土曜がお薦めだ。 僕が大道芸にはまる契機となったのは、94年1月のある晩に新宿西口の地下街で 雪竹 太郎 の「人間美術館」を偶然通りがかりに観たことからだった。舞踏的な 丸坊主裸白塗りという姿で、ギリシャ彫刻からモナリザ、ロダンの彫刻、弥勒 菩薩からピカソの「ゲルニカ」に至るまで、うまく観客を参加させながら、しかし 静かに演じていく様子は、帰宅途上の人で溢れる空間を激しく異化していた。 この人について NetNews で尋ねたことをきっかけに、野毛大道芸や、大道芸 ワールドカップin静岡 を知り、94年春から野毛大道芸には欠かさず行っているし、 95年には静岡にも行った。晴れた週末に時間があると歩行者天国に大道芸を やっていないかチェックしに行くこともある。 こういう3年余りの間、いつか雪竹 太郎 の「人間美術館」の「ゲルニカ」に 参加してみたい、と思っていた。そしてついに参加できたのが、とても嬉しい。 今回は、この他にももう一回、ジャグラーのアシスタントとして参加させられて しまった。そう、観客を芸のアシスタントなどとして参加させるということが、 大道芸ではよく行われる。芸人と観客の間の拍手や掛け声によるやりとりに してもそうなのだが、このような、演技者と観客の間の距離が無いということ − 物理的にも舞台と客席ではなく、互いに路上にいるのだ。 − こそが、 大道芸の醍醐味だ。 「悲劇と同じように、喜劇も必ず生贄を − 罰を受けて、その見世物が模倣的に 表現しているような社会秩序から追放される存在を − 必要とする。ハプニングに おいて行われることは、アルトーが、舞台を − つまり観客と演技者との間の 距離を − 消し去って、「文字通り観客を包み込む」ような見世物を作り出す ために与えた指針に、忠実に従った結果にすぎない。ハプニングの場合には、 この生贄は観客なのだ。」 -- Susan Sontag (1962) [1] これは Sontag が (美術の一形式としての) ハプニングについて述べたことだが、 よくできた大道芸に起きることもまさにこれだ。大道芸人に引き出されて一緒に 道化 = "社会秩序から追放された存在" のような振る舞いをさせられている 観客 = "生贄" を観れば、そして、時には、自分が生贄になれば、これがよく わかるだろう。ハプニングがラディカルな併置の芸術なら、大道芸ほどラディカル なものはない、と思えるときすらある。 そして、今年に入って観たいくつかの美術としてのパフォーマンス・アート − Marina Abramovic (@ 世田谷美術館) や アラフマヤーニ (@ 都立現代美術館)、 張 ホワン (@ ワタリアム) ですら − に欠けるのは、観客を「生贄」にする ような、そんな緊張感なのだ。そして、それが、こういったパフォーマンス・ アートを観たときの僕の物足りなさの原因になっている。 John Barth は、エッセー「尽きの文学 "The Literature Of Exhaustion"」の中で、 ハプニングなどの「インターメディア」芸術における伝統的や観客/芸術家という 概念の排除に触れた直後に、こう言う。 「バッファローのぼくの家から二、三丁離れたところにある有名なオールブライト =ノックス・コレクションに入っているポップ・アートを、ぼくは生き生きした 会話をエンジョイするようにエンジョイするが、概してボルティモア市の旧演芸場の ジャグラーや軽業師のほうに感動する。」 -- John Barth (1967) [2] 今年に限っても、いくつかの現代美術の展覧会を僕はエンジョイしてきた。が、 この野毛大道芸の大道芸人のほうに感動した、という意味で、John Barth が こう言うのもよくわかるような気がする。面白い大道芸を観た後によく思うこと ではあるのだが、そんなことを改めて思った。 各々の芸人について。 第一回大道芸ワールドカップin静岡 ('92) のチャンピョンでもある 雪竹 太郎 は、さすがうまいし、芸としても完成しているのだが、去年も思ったんだ けれども、そろそろ新しいレパートリーが欲しいとも思う。土曜の終了間際に、 「人間美術館」ならぬ「人間映画館」のようなことをやっていたのだが、 うまくいくのだろうか? あまりちゃんと観ていないのだが。雪竹 氏は服を 着ているので肉体性が生きないし、観客を配役に多用しすぎると、間延びし すぎるような気もするんだけれど。 日本の大道芸人の期待株は、牛飼い小出くんと牛くん。ちょっと間の抜けた 感じの小出くんと、気難しい感じの牛くんの、ジャグラーのコンビなのだが。 ほのぼのトークに、元気系のトークが多い外国のジャグラーに無い個性があって、 いいと思う。とても面白いんだけど、どっと場が盛り上がるような芸でないので、 いまいち集客力が無いのか惜しい。初めて観たのは '95年の第四回大道芸ワールド カップin静岡だけど、技も増えていた。今度は普通の歩行者天国で観てみたい。 外国からの芸人が減っていて、常連の芸人が今回は来ていなかったり、去年に 見られた即席コンビも今年は見られなかったし。ちょっと寂しいね。そんな 中で初めて観たジャグラー Nils Paul (from Denmark) が良かった。正直言って 技は下手。だけど、観客を巻き込むトークがとてもうまい。元気のよさがいい のかな。 高い一輪車+ジャグリングの That Amazing Guy はあいかわらずトークがうまい。 好きだった超高度一輪車コンビ The Flying Dutchman はコンビは解消していた。 片割れの Michel だけ来ていたけど、いまいちだった。 ほかにも紹介したい芸人はいるけど、きりがないのでこのくらいに。しかし、 94年の秋の野毛に来た Theatre de Unide のような強烈な芸人がいなかったので、 全体としては地味だったかもしれない。 野毛大道芸ではいつも、ちゃんと待ち合わせしても会えなくなりそうな人混み なのに、特に約束もしてないのに友達と会ってしまう。今回も土日ともに やまぶん氏と遭遇。ううむ、お互い怪しいオーラを発しているので、人混みの 中でもすぐ判るという説もあるのだが。で、日曜の祭の後、一緒に焼肉「大衆」に 行って、大道芸について語り合ってしまった。 しかし、二日じゃぜんぜん見切れないなぁ。去年は行かなかったけど、今年の 秋は絶対に静岡に行くぞー。 [1] スーザン・ソンタグ: ハプニング − ラディカルな併置の芸術 in 反解釈, 竹内書店新社, '68/'71. [2] ジョン・バース: 尽きの文学 in 金曜日の本, 筑摩書房, '84/'89. 97/4/20 嶋田 "Trout Fishing in Japan" 丈裕