最初の土曜の午後に観に行ったら大変な混雑だった、この展覧会。しばらく間を おいて今日日曜に行ったけど、やはり大変な混雑だった。ううむ。もう夏休みだし、 もうダメそうだな。一応、会期が終わる前に。 tomato がつくる「ロンドン⇔東京」展 ザ・ギンザアートスペース, 銀座7-8-10 ザ・ギンザビルB1F (銀座) 97/6/23-7/31, 11:00-19:00 (日祝 11:00-18:00, 無休) Underworld のレコードジャケットでお馴染みの、と説明するまでもない、London の デザイン・チーム tomato の展覧会。今まで手掛けたグラッフィック・デザイン などの展示ではなく、この展覧会のために特別にインスタレーションを制作している。 一角に CD-ROM のブースはあるが。いつもひどい人だかりではある。 暗いスペースは、ガラスで迷路風に区切られており、ガラスにはいくつかの大きさの 白い文字で、英語と日本語である文章がレタリングされている。英語と日本語は対に なっているが、それは隣接しているとは限らない。 所々に小さなプロジェクタがぶら下がっており、ガラスにヴィデオが投影されている。 投影されている所だけスリガラスの処理が行われているのがいい。プロジェクタと 投影されているガラスの間を人が歩くので、時々映像が途切れる。こういった効果も 面白い。 と、これで人が少なかったらいい雰囲気の、オシャレな空間かな、と思いつつ、 ガラスに書かれた文章を読んでいたら、気が滅入ってしまった。街で採取された という、いかにもちょっと気取った感の言葉がそこにあるのだが。その言葉は、 その言葉の中身を問い直させるようにではなく、むしろ、ある一つの雰囲気を作り 出すそうに、構成されている。ある言葉が、他のある言葉を裏切ったりはしない。 ヴィデオ映像にしてもそうだ。その結果としての雰囲気とは、「都会 (東京/London) というのはこういう所さ」「これが今一番クールなのさ」とでもいう、ほとんど 無条件な受動的な現状肯定だ。そして、ここでの気取った感じというのは、 むしろ、ユーモア − それが現状を問い直すきっかけになるものだが − の欠如 と言った方がいいものだ。 僕は、この Tomato の言葉を使ったインスタレーションを見ていて、ふと、 Jenny Holzer や Barbara Kruger の言葉を使ったインスタレーションを連想した。 それは、全く逆な方向性を持っているのだが。彼女らの選び抜かれた言葉と Tomato の採取された言葉を一概に比較できないし、これが芸術とデザインの 違いなんだという人もいるかもしれない。しかし、そういう問題だろうか? Barbara Kruger の本 "Love For Sale" (Abrams, ISBN0-8109-2651-2) の中に 彼女や Jenny Holzer が参加した "The Revolusionary Power Of Women's Laughter" というグループ展のポスター (デサインは Kruger) を見ることができる。 そう、笑いの革命的な力、というのが、 Kruger や Holzer の作品の鍵の少なくとも 一つになっている。そして、この Tomato のインスタレーションに欠けているのは、 この笑いなのだ。革命的な力のある笑いなんかでなくてもいいし、いわゆる「笑い」を 取る必要もないと思うが、ちょっとしたユーモアを含めるだけでも、この画一的な 現状肯定の雰囲気も和らぐだろうに。そして、それは芸術かデサインかという 問題ではない − ユーモアの感じるデサインはいくらでもあるだろう。ユーモア すら欠如してしまう所に、僕はむしろうすら寒さを感じてしまった。 97/7/20 嶋田 "Trout Fishing in Japan" 丈裕