Jean-Luc Godard の映画の、特に Anna Karina が主演された映画は、よく知られて いるので、わざわざ紹介するほどでもないと思うが。今、渋谷シネセゾンのレイト ショーで上映中の『女は女である』を観る直前に、同じく Anna Karina と Jean-Claud Brialy が主演する『アンナ』という映画を、試写会で観る機会が あったので、併せて軽く。 『女は女である』 _Une Femme Est Une Femme_ - France / Italia, '61, color, 84m - un film de Jean-Luc Godard - Anna Karina, Jean-Claud Brialy, Jean-Paul Belmondo - Image de Raoul Coutard. Decors de Bernard Evein. Musique de Michel Legrand. 『アンナ』 _Anna_ - France, '65, color, 90m - directed by Pierre Koralnik - Anna Karina, Jean-Claud Brialy 65年 (66年?) にもともとTV映画として制作されたという『アンナ』はミュージカル 映画である。基本的に台詞は歌として歌われている。しかし、その歌と映像の関係を 見ていると、80年代以降のロック・ポップの大半のプロモーション・ヴィデオを 思わせるものがある。『アンナ』での歌と映像の関係は、MTV世代の人なら見慣れて いる、という意味で自然なものかもしれない。陳腐といってもいいくらいだろう。 いかにも非現実的と思われるような展開や、舞台設定や衣装にしてもそうだろう。 しかし、もっとも特徴的なのは、歌が映像 (登場人物や風景) を説明し、映像が 歌を説明するという、一種の共犯関係かもしれない。歌っている歌詞によって 登場人物の心情を説明する、もしくは歌詞の内容に合わせて映像作りをしている といったような。歌と映像の多声性が抑え込められているかのような構成なのだ。 それがこの映画を単調なものにしている。 かつて Greil Marcus は「歌詞つきの一篇の音楽というものは矛盾である。」と 言った[1]。これに言い回しを倣えば、歌つきの一篇の映像というものは矛盾である。 そして、そのことを確かめたいのであれば、そういう『アンナ』ではなく、 『女は女である』を観るといいだろう。この映画でも、ミュージカルからの影響は 観て取れる。実際に歌を台詞にしているところは多くはないにしろ。しかし、 歌と映像はお互いを説明し合うような関係にあるとは言い難い。むしろ、 矛盾しがちな編集がなされている。監督の意図として映し出されている映像と 食い違うような歌詞や台詞を載せているようにみえる部分もあれば、むしろ、 即興的とも感じる編集によって矛盾が生じていると思われる部分もあるが。 そして、Anna Karina や Jean-Claud Briary、Jean-Paul Belmondo といった 俳優の魅力でもなく、(陳腐ともいえなくはない) 三角関係のプロットでもなく、 歌と画面だけでなく映画の構成要素の矛盾が生む緊張感と笑いこそが 『女は女である』の魅力なのだと、僕は思う。 参考文献 [1] G. マーカス, 「記号論とニュー・オーダー」in『ロックの「新しい波」』 ,晶文社, 1984. 98/2/28 嶋田 Trout Fishing in Japan 丈裕