ジュリアン・バーンズ, 中野 康司=訳 『海峡を越えて』 (白水社, ISBN4-560-04654-9, '98/6/15) 『フロペールの鸚鵡』で有名になったポストモダンな作風の英国の小説家の初の 短編集 (という形式を取った小説、といったほうが正確かもしれない。) の翻訳が この夏前に出た。以前、『エスクワィア日本版』97年4月号に短編「リバイバル」 が掲載されたのを読んだことがあり、それがとても面白かったので、楽しみに していた。 短編集という形式をとっていることもあるのだろうが、「メロン」のように書簡文で 書かれた作品もあるが、普通に物語る感じで書かれている。それもあって、むしろ、 取り上げられている題材の方に興味が行った。 フランスで鉄道建設をするイギリス人鉄道建設労働者たちのエピソードと、現地の キリスト教会の神父たちのエピソードを、さり気なく対立させ重ねあわせる 「ジャンクション」は、近代化の明暗を浮かびあがらせてくれるかもしれない。 社会主義者、自由恋愛主義者と鉄道建設労働者を非難する神父の話とか。 むしろ、フランス革命前にグランドツアーをしたフランスびいきのイギリス貴族が、 革命後のフランスを荒廃を嘆く「メロン」は、近代的な景観の成立・普及の契機と なったグランド・ツアーをした貴族が、社会の近代化が進む革命以降のフランスを 嘆くという皮肉がなんともいい作品だ。 「ふたりだけの修道院」における、硫黄消毒派 vs アメリカ派という図式の向こう にも、ブドウ農園におしよせる農法の近代化に対する反応を見ることができる。 と、短編の中では、18〜19世紀にフランスで進行した近代化を題材にした作品が 印象に残ったのだが。ふと、Barnes が最初に題材にした Flaubert が、西洋小説の 近代化に果たした役割のこととかも連想してしまった。 この短編集の最後の短編「海峡トンネル」は、2015年という時代設定がなされて おり、そのフランスびいきのイギリス人の小説家の主人公が、これから短編集を 書こう、ということで、他の短編に出てくるエピソードを挙げる、という内容に なっている。これによって、この短編集自体が2015年に書かれたという設定に なった、短編集という形式の小説、ということに気づかされた。 今から20年後という設定で (なくても構わないのだが)、18〜9世紀にフランスで 進行した (他でも進行したのだが) 近代化について思いを馳せるということは どういうことなのだろうか、と、考えさせられることもある、そんな作品だ。 98/9/27 嶋田 Trout Fishing in Japan 丈裕