ゴキブリコンビナート『ロワゾ・ブル ― 譫妄編』 1999/9/24, 19:30- 中野ひかり座 (中野) - 作・演出: 斉藤 寿幸 (a.k.a. Dr. エクアドル). 照明: 加藤 友紀. 音響: 森田 美代子. 出演: 竹田 オメス 吉祥寺 (トオル), 小池 洋子 (アキコ); 高松 タイヂ山, 滝田 須比呂平太, 相模原 餓鬼, 木村 亮介, 古沢 裕介 (浮浪者); ビッケ, 眼鏡博士 (格闘士); 戸次 350cc, 石井 悦子, 石田 ともこ, 安藤 ヒヤシンス子 (ひまわり学園の人たち); 森野 久美子 (ロワゾ・ブル); Dr. エクアドル (村長). 5月の『粘膜ひくひくゲルディスコ』が最高に良かったこの見世物集団の新作を、 初日に観てきた。期待を裏切らない出来で、演劇ではなく見世物と言ったほうが 誉め言葉になると思われるような最高のパフォーマンスだった。元ポルノ映画館 というぼろぼろの建物が会場で、それ自体が見世物小屋感を強く醸し出していたし。 開演時間と同時に開場し、中に入ると「人蝋燭台 (マンろうそくだい)」が、 壁ぎわの足場の上にいる、という演出 (前作と同様だが) も見世物小屋っぽさを 出していた。 今回の見世物は福祉問題と産業廃棄物処理場問題が主なテーマとなっており、 産廃処理場に住み着く浮浪者たちの話という設定で、会場も処理場の中という 感じで粗っぽく作り込まれていた。床上げされ乱雑に敷かれた使い古しの畳、 壁際に組まれた足場、天井から吊るされた縄の足場。舞台と客席の区別は無く、 客は畳の上に座って観るわけだが、この客のいる畳の上でも、見世物は展開した。 入場前に汚れ除けに新聞紙が配られたのだが、それを被っている観客も、 産廃処理場の住民という感もあって、面白い演出になっていた。褌一丁の裸の 役者が頭上の行き交い、壁際の足場からはゴミが降り、畳敷きの中央でも客の 間で体を張ったパフォーマンスを展開し、安全な場所からの見物とは違う体験 ができるようになっていた。実際のところ、僕はあまりゴミなどが降ってこない 場所にいたのだが、それでも血糊まみれの役者に蹴られてTシャツに跡は付くし、 グラインダで火花を散らすシーンでは危ないと顔の前にかざした手に熱い火花が 当たった。ま、このくらいは覚悟済みだったので、気にはならなかったが。 観客はもちろん、役者の体を張った演技も相変わらずで、拷問のシーンでは 役者は気絶していたという噂も聞く。(演技だと思っていたので、観ていて、 気づかなかったが。) 会場は暑くて酸欠気味だったこともあり、シーンの合間に 控えに戻ったときに、役者は酸素吸入をしていた、という話も聞く。 前作『粘膜ひくひくゲルディスコ』に比べて残念だったのは、気ぐるみがあまり 無かったということと、観終わった後も頭に残るような歌が無かったことかも しれない。 この劇団はあまり登場人物の心情を語るようなセリフは使わないのだが、今回は 冒頭を中心に比較的あったように思う。しかし、それは明らかにメロドラマの ステロタイプを用いたもの。それも効果的だった。もちろん、その一方で、 単純ながら切れ味鋭いセリフは相変わらずで、今回の公演でも「肉喰いて〜」 「ロボトミー万歳〜」など頭にこびりついている。 ゴキブリコンビナートにとって、少なくともこの作品においては、狂気というのは、 人の心の底に潜むもの、苦悩や衝撃の結果に到達するもの、といったロマンチック なものではない。登場人物の浮浪者の一人が発狂する、というシーンがあるのだが、 そこでの登場人物の独白 (産業廃棄物処理場によって農家だった自分かいかに 浮浪者になったか) は、心理的な描写という観点からすると紋切り型である。 一方で、この作品の中では発狂を通過儀礼的に祝福する。むしろ、ここでの狂気と いうのは、内面的なものではなく、社会的に疎外されているという証であり、 発狂とはアウタースペースへの出国の儀式である。そして、それは、心理描写を 拒絶するような切れ味の良い単純なセリフ、体を張ったドタバタ、などの演出に よって、この作品の中では保証されている。逆に言えば、短い単純なセリフや ドタバタの演出は、疎外的な社会状況に対する明確な政治的認識によって支え られている。 John Corbett はエッセー "Brothers From Another Planet -- The Space Madness of Lee `Scratch' Perry, Sun Ra, and George Clinton" (_Extended Play_ (Duke Univ. Pr., 1994) 所収) の中で、Lee Perry, Sun Ra, P-Funk といった 黒人のバンドが多用する、狂気 (madness) や宇宙 (outer-space) というモチーフ を分析してこう言う (引用者訳)。 狂気は、恋愛やドラッグの解毒作用を連想させる一方で、よりいっそう一般的な 二つの言外の意味を担っている ― 激烈な自暴自棄と社会的抑圧という。 狂気というのは、征服的な社会システムの中 (もしくは外) で美を作り出すと いう問いなのである。その狂気の中でアフリカ系アメリカ人は、抑圧から解放 されるかもしれないが、彼らはその狂気の中で常に抑圧されているのである。 (宇宙をメタファーとして使うことについて (引用者注)) Ra、Clinton そして Perry の場合に起きていることはこういうことである。彼らは無分別なイメージに 基づいて神話を築きあげている。そしてそれは、社会的に周縁に置かれている ことのメタファーである。そして、そのような経験は、地球上の支配的な白い 「中心」のほとんどから疎外されている多くのアフリカ系アメリカ人にとって 身近なことなのである。 この作品における産業廃棄物処理場=ひまわり学園 (『粘膜ひくひくゲルディスコ』 におけるゲルディスコ) は、まさにアウタースペースだ。狂気や宇宙のメタファー だけではない。Lee Perry, _Super Ape_ (1975) のジャケットでのバビロンの中を 暴れまわる超猿、もしくは、P-Funk のジャケットに使われた Pedro Bell が描いた カートゥンのセンスと、ゴキブリコンビナートの「見世物」のセンスは、共通する ところが多いと僕は思う。 Ra, Clinton, Perry に見られるようなアフリカ系アメリカ人の文化のテイストは、 もちろん、山下 洋輔 のエッセー『ピアニストに手を出すな』(1984) に出てくる 人種差別ギャグをネタにするNYの黒人大道芸人 チャーリー にも繋がると思うし、 Rap のような音楽の中にも見られる。抽象的とされる Detroit Techno ですら、 Underground Resistance, _Interstellar Fugitives_ (UR, URCD-045, 1998, CD) のようなものがある。音楽以外でも、ブラック Sci-Fi の中にも見られると思うが、 僕は詳しくないので残念ながら言及できないが。 例えば、The Goats, _Tricks Of The Shade_ (RuffHouse, CK53027, 1992, CD) という、コンセプチャルな Rap のアルバムに対して、Greil Marcus はこうコメント している (_Interview_, April, 1993;『ミュージック・マガジン』1993年6月号)。 これは、黒人に白人を加えた、フィラディルフィアのラップ・グループの最初の アルバムである。一風変わったアルバムで、背信と腐敗とに関するひと続きの、 動きの早い、筋肉質の歌から成り、あいだに「アンクル・スカムの、連邦政府の 資金援助を受けた "ウェル・フェア" と奇形の見せ物」についてのどたばた喜劇が 挟まれる。 この「奇形の見せ物」ほどゴキブリコンビナートの作品 (特に、前作『粘膜ひくひく ゲルディスコ』) を形容するのにうってつけの言葉はないかもしれない。 ゴキブリコンビナートの表現は、演劇の流れの中での位置付けは別にして (それが 重要だとは僕は思わない。)、Sun Ra, Lee Perry, George Clinton などに見られる 疎外的/抑圧的な社会システムの中 (もしくは外) での美の創造 (John Corbett が 指摘するような) の系譜に連なるものだと、僕は思う。そして、この『ロワゾ・ブル ― 譫妄編』では (もちろん、前作『粘膜ひくひくゲルディスコ』も)、それに 見事に成功していたと、僕は思う。 1999/9/26 嶋田 Trout Fishing in Japan 丈裕