先週末の土曜は午後に竹橋へ。この展覧会を観てきました。
戦後間もない1950s-1960sの日本の女性の美術作家による抽象的な絵画表現を、当時の欧米での潮流の日本での受容の観点から振り返る展覧会です。
1957,8年のフランスの美術評論家 Michel Tapié 来日による欧州の潮流であるアンフォルメル (Art informel) [関連する鑑賞メモ] の「旋風」の中で Tapié の評価もあって女性作家も評価されるようになったが、
次第に Tapié やアンフォルメルが批判されるようになり、1960年前後からは米国の潮流であるアクション・ペインティング (Action Painting) [関連する鑑賞メモ] が受容される中で、女性作家が批評対象から外れるようになったと言います。
アンフォルメルとアクション・ペインティング (もしくは抽象表現主義 (Abstract Expressionism)) は同時代の熱い抽象表現の欧州と米国での潮流という認識でしたが、
日本での受容には前後があり、後者の立場から前者が批判的に見られ、また、女性作家の評価が異なっていたということを知りました。
戦後美術を観る解像度が少し上がったでしょうか。
取り上げられてい作家は、この時期に抽象的な絵画表現に取り組んでいた女性作家で、具体美術協会(田中 敦子, 白髪 富士子) [関連する鑑賞メモ] や
実験工房 (福島 秀子) [関連する鑑賞メモ] などの活動に関わった作家や、
当時の抽象表現を推進した作家・批評家からの「後押し」を受けた作家が中心でした。
最近の活動もあり少し降った世代の作家という印象を持っていましたが、草間 彌生 もこの世代と認識しました。
2023年のコレクションによる小企画『女性と抽象』 [鑑賞メモ] とも被るところがありましたが、
『女性と抽象』で1/3を占めていた女性画家協会は『アンチ・アクション』のスコープでは前駆的な位置付けだったので、相補的にも感じられました。
昨年の東京都現代美術館コレクション展示室の企画「竹林之七妍」 [鑑賞メモ] に取り上げられた作家も含まれ、この界隈の最近の再評価の動きを感じます。
しかし、それらの展示と比べても、コレクション展中の小企画ではなく企画展ということもありますが、質量共にそして企画の切り口という点でも見応えがありました。
このような企画意図はありますが、1950s-1960s日本におけるアンフォルメルやアクション・ペインティングの受容や批評等の中での女性作家の扱いを、関連資料の展示で浮かび上がらせるような展覧会ではありません。
むしろ、それは展示前半にある年表や、会場14箇所で配布されるそれぞれ異なるテーマのテキストが書かれたA6判4ページの「別冊」で示される程度。
展示としては、関連する14名の作家の作品としっかり見せるものでした。
アンフォルメルや抽象表現主義と同時代を感じさせる抽象的な絵画が主ですが、
立体派などの戦間期アバンギャルドに近いデフォルメされた抽象度高めの具象や、60年代のポップアートに近い色彩感覚の作品まで、多様性も感じる展示でした。
多くはなかったですが立体作品も展示されていて、むしろそちらに目が止まってしまいました。
特に、今までほとんど意識することの無かった 多田 美波 の良さに気付かされました。
宮脇 愛子 や (立体はありませんでしたが) 福島 秀子 の抽象度の高さも良かったでしょうか。
会場で配布されてた別冊の「7 女性の美術家とファッション」で言及あるものの、福島 秀子 の舞台衣装デザインは出ていませんでした。 絵画中心の展示構成ですし、会場規模的な制約などもあるので、そうだろうとは思います。 しかし、以前にMOTコレクションの特別展示 [鑑賞メモ] で観てから10年以上経つので、また見直したいものです。
かれこれ20年来の習慣のようになってますが、30日の若林時代の大家さん宅での餅つき宴の後は、実家での年末年始。 2日晩に自宅に戻って、3日は美術館初詣に写美。ということで、この展覧会を観てきました。
サスティナビリティをテーマとした国際写真賞プリピクテ Prix Pictet の第11回の最終選考者 (ショートリスト) の展覧会です [前回の鑑賞メモ]。
今回のテーマは「Storm/嵐」ということでしたが、嵐のような短時間で発生する自然災害だけではなく長期的な環境破壊 (今回の受賞者 Alfred Jaar のグレートソルトレイク)、
さらに、人間社会における「嵐」ということでしょうか、戦争や騒乱のような出来事を題材とした作品
(新井 卓 の広島原爆投下, Balazs Gardi のホワイトハウス襲撃, Belal Khaled のガザ、Laetitia Vançon のウクライナ) も半分近く占めていました。
そんな題材への興味もありましたが、いわゆる報道写真とは異なり、作家性の高いフォーマルでコンセプチャルな作風の写真が楽しめました。
特に良いと思ったのは、コンゴ共和国の Boudouin Mouanda。
2020年に首都ブラザビルを襲ったコンゴ川洪水に取材したものですが、洪水が治った後に、住民自身が直面した状況を象徴的な形で演じた演出写真としています。
一見では災害を題材としているとは思えないような、そして、サブサハラ・アフリカの現代美術 [鑑賞メモ] との共通点も感じる鮮やかの色彩を使った絵画的な画面作りです。
また、私物を持ち寄って撮影したことのことですが、被災する前の仕事、学校、家事や家族団欒など日常生活の様子を伺わせます。
さらに、被写体を、可哀想な被害者としてではなく、むしろ、普通の生活をしている人々として見ているようにも感じられました。
総合開館30周年記念で企画されたグループ展です。
美術館レベルでの個展でもおかしくないような作家5名で、個展を観たことがある作家もいて、既視感を強く感じる展覧会でした。
しかし、どうしてこの5人なのか、展覧会を通してのテーマはあるのか、どうも判然としないものがありました。
5人中2人が広島原爆投下に関わるテーマの写真が展示され、1人もそれに関する写真が含まれていたので、
展覧会を通底するテーマの1つのようにも感じられました。
年末年始は26日、28日、4日と渋谷円山町へ。渋谷ユーロスペースで開催されていた 『中央アジア今昔映画祭 vol. 3 ウズベキスタン特集』で、これらの映画を観てきました。 (順番は観た順ではなく、公開年順です。)
Никита Хрущёв (フルシチョフ) 失脚 (1964) 間もない、まだ «Оттепель»「雪解け」の時代の雰囲気を残す1967年に公開された映画です。 1960年代のウズベキスタンの首都タシュケントを舞台に、少女時代に戦火のレニングラードから疎開してきた Лена、川辺で Лена を見かけて一目惚れする工場労働者 Санжар、 Лена と親しいながらプロポースは受け入れられない工場技術者 Тимур、 Тимур に片思いする Мамура というすれ違う男女を、余暇を過ごす時間の中で、明るく淡い陰影の画面で描きます。 そんな画面も、雪解けの社会の明るさの中にうっすら差す Лена の戦争のトラウマなどの影の、隠喩のようでした。
バレエ中のお姫様に憧れるような無邪気な少女 Наргиз は少年グループのリーダー格の Эркин に憧れますが、 Эркин と一緒に出かけるために女性の親友 Лали との約束を破り仲違いしてしまいます。 さらに、Эркин は自身も Наргиз へ持ちながら少年ならではの粗暴さと女心の読めなさで Наргиз を傷付ます。 小綺麗な別荘地のようなウズベキスタンの田舎を舞台にした、そんな Наргиз のひと夏のほろ苦い経験と、その心情の揺れ動きを、自然の中の明るい画面と、繊細な演技で描いていて、 女性映画というより少女映画といいたくなるような映画でした。
ウズベキスタンの集団農場 (コルホーズ) 近くに不時着したUFOに乗った高度な能力を隠し持つ宇宙人の少年 (アブドラジャンと名付けられる) と、 宇宙人とは気づかずに彼を助けた Базарбай と Холида の夫婦を核とするコルホーズ農家一家を巡るドタバタを描いたコメディです。 UFOでやってきた宇宙人という設定や、彼を捉えようとする大掛かりな軍の動きなど、SF的な設定もありますが、 むしろ、俗っぽく不器用だけれども悪気はなく人情味溢れる人々が繰り広げるホームドラマ的な人情コメディを楽しみました。 SF的な設定は、むしろ人情コメディとのギャップからの笑いのネタでしょうか。
現代的な都会 (おそらくタシュケント) の寄宿学校から田舎の祖母の家に引き取られた少女 Zulfiya と、彼女を引き取った祖母、同居する叔母 (母の弟の妻) の、それぞれのうまくいかない人生を、 空撮も多用したダイナミックに撮られた美しいウズベキスタンの田舎を舞台に描きます。 両親は都会で豊かに暮らしていて迎えにきてくれると信じる Zulfiya ですが、 映画が進むにつれて、Zulfiya の母は再婚のため娘を祖母に預けることにしたこと、 母の弟は賭けトランプで村じゅうから大きな借金を負ったために湖での事故死を偽装してロシアに逃げたことなどが、明らかになって行きます。 父がいなくなった原因は読み取れなかったのですが、弟の問題が原因かもしれません。 Zulfiya は都会へ母に会いに行くものの、会いに来たことを半ば困惑気味に接せられるのですが、 そんな母も豊かな生活をしているのではなく、縫製工場で働いています。 行動的な主人公 Zulfiya やダイナミックに撮られた自然の風景に救われた感じはありましたが、 Zulfiya や彼女を取り巻く女性たちが現代のウズベキスタンで生きる困難をメロドラマチックに捉えた女性映画でした。
1920年頃の、ロシア革命後の内戦の中央アジアを舞台とした、(おそらくウズベキスタンのブハラ近くの) 山中に隠れるように住む老いた一人の男 Kamil とその4人 (実際は5人) の妻 (イスラームの一夫多妻に従っている) の物語です。 タイトルロールの若い女性 Farida が嫁いでくる場面から始まり、伝統的な、しかし女性を家事もできる子作りのための道具としか考えていないような抑圧的な生活を描きます。 威圧的な男を囲んで沈黙が支配する食事の場面、ほとんど Farida が Kamil がほどんどレイプのようにセックスすることを強いられていることをほのめかす場面など、 説明的な台詞や直接的な暴力描写は控えめながら、明るいというより陰影の深いスタイリッシュな映像を通して描きます。 最も寵愛を受ける気の強い二番目の妻 Robiya と新しい妻 Farida の確執を感じさせる描写もありますが、 子が産めなかったばかりに山の洞窟に鎖に繋がれて捨てられた最初の妻 (彼女が歌う歌声が「2000の歌」) に食事を運んだり、 その仕事を三番目の Mahfirat に任せることで彼女の浮気 (これが発覚することで指詰めの体罰を受ける) を助けたり、など、密かで細やかな共闘も描かれます。
特に前半は、山中の家でも家族に閉じた生活描写が中心ですが、次第に、訪れた知り合いの白軍のロシア人軍人に妻も権利があると諭されたり、 バスマチ蜂起 (восстание басмачей) (革命直後のムスリム住民を中心とした反ソビエト武力運動)の反乱軍に協力を求められて家畜を皆持っていかれたりと、外からの変化が迫ってきます。 (その中で Kamil はブハラのアミールに仕えた有力者だが、故あって山中に潜んでいることが仄めかされます。) また、Farida の妊娠を期に Kamil の寵愛を失ったことを悟った Robiya は家から逃げ出します。 そして、Farida の恋人が Farida を救いにやって来て、Kamil に組み伏せられ殺されかけるものの、Farida が身を挺して彼を庇ったことで、 Kalim は状況を悟り、Farida だけでなく3人の妻を Farida の恋人と共に家から送り出します。 Kalim は洞窟に捨てた最初の妻を解放し、共にブハラへ戻ろうとしますが、そこに逃げた妻が Robiya が赤軍と共に戻り、 家は焼かれ、Kamil も Robiya 自らの手で銃殺される所で、この映画は終わります。 そんな、白軍、バスマチ、赤軍が入り乱れるロシア革命直後の状況を感じさせる描写も興味深い映画した。
観終わった後、検索していて「『ファリダの二千の歌』、要約が難しいが、『マッドマックス怒りのデス・ロード』のイモータンジョーと妻たちの暮らしみたいな話といえば良いのか。」というツイートを見つけたのですが、 なるほど、夫から逃げ出し赤軍に入って、赤軍と共に戻って Kamil を殺す二番目の妻 Robiya は、Furiosa のようなものと言えるかもしれません。 といっても、Mad Max Fury Road では話のメインとなる逃げ出してから戻ってくるまでは描かれませんが。 タイトルロールでもある Farida が主役かと思いきや、最後は Robiya ですし、ポスターと見ると Robiya が使われているので、むしろ主役は Robiya と言ってもいいかもしれません。
結局、今回の上映6本中5本を観ることができました。観る前はソ連時代の映画の方に期待していましたが、 むしろ、ソ連崩壊後というか、ここ最近十年の間に作られた2本、 Issiq Non [Hot Bread] 『熱いノン』 (2018) と Faridaning ikki ming qo'shig'i [2000 Songs of Farida] 『ファリダの二千の歌』 (2020) に感銘を受けました。
この週末3連休土曜は午後遅めに早稲田大学 戸山キャンパスへ。 約1年ぶりに桑野塾へ。 その年に読んだ本、観劇した芝居など、印象に残っているものやお勧めしたいものを持ち合い、それぞれに話をする会が毎年年末に開催されるのですが、今回はそれが年明けになりました。 もはや、桑野塾で報告するようなネタが仕込める程の趣味生活はしていませんが、 このような場で人の紹介を聞くと、映画を観たり本を読んだりするキッカケが得られます。 で、自分のネタですが、 当初は2025展覧会・公演等 Top 10 1位を紹介するつもりでいたのですが、 急遽、この『中央アジア今昔映画祭 vol. 3 ウズベキスタン特集』と、 関連書籍として 梶山 祐治 『中央アジア映画完全ガイド』 (パブリブ, 2026) (発売日前にユーロスペースで入手) を紹介したのでした。 ちなみに、渋谷ユーロスペースでの上映は終わってしまいましたが、2月7〜20日に横浜シネマリンで上映予定となっています。
12月最終土曜は2025年の展覧会観納めで、午後に2つのファッション展をハシゴしてきました。
京都服飾文化研究財団の服飾作品や資料のコレクションに基づく1920年代のデザインの流行 Art Deco をテーマとした展覧会です。
Paul Poiret, Jean Patou などの1920年代パリのモード、女性向けファッションを中心に据えた構成ですが、
Gabrielle “Coco” Chanel, Madeleine Vionnet, Jeanne Lanvin ら女性のクチュリエを特集したコーナーや、下着やスポーツウェアのコーナーも設けられているところが、この展覧会の特色でしょうか。
しかし、華美なハイファッションのドレスや装飾小物が多く展示される中、Art Deco 本流というよりむしろ同時代の Avant-Garde とも言える Sonia Delaunay のコートに惹かれてしまいました。
19世紀末の1895年に設立されたフランスのハイジュエリー (高級宝飾品) メゾン Van Cleef & Arpels の展覧会です。 タイトルでアール・デコを謳い、特に本館では、 1925年パリ Art Deco 博 (Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes) でグランプリを受賞した Entwined Flowers, Red and White Roses bracelet をはじめ戦間期1920年代から30年代にかけての作品を中心に展示していました。 しかし、“Minaudière” (Van Cleef & Arpel が1933年に特許取得した小物入れ) のような装飾小物はまだしも、宝飾品は Art Deco に限らずモダン・デザインと相性の悪いことを実感してしまいました。 Bvlgari 展 [鑑賞メモ] では楽しめるポイントがあったのでそこを期待したのですが、やはり“not for me”と感じた展覧会でした。
しかし、三菱一号館美術館よりも東京都庭園美術館の方が混雑していたのは意外でした。 三菱一号館美術館の展覧会が、2022年の『ガブリエル・シャネル展』 [鑑賞メモ] のように有名なブランドもしくはその創設者をフィーチャーしてなかったということもあると思います。 また、同じ日に続けて観たこともあり、客層の違いに興味を引かれました。 ファッションやデザインに興味があるわけでなくそれらに関する展覧会には来ないような観客も宝飾品の展覧会は集客するのか、と。
2025年は Art Deco 博から100年ということで、Art Deco を謳った展覧会を2025年のうちに観ておこうと、年末に2つの展覧会をハシゴしたのでした。 しかし、2025年に Art Deco をジャンル横断的に回顧するような展覧会が無かったのは残念。 東京都庭園美術館の場合、毎年の建物公開と合わせて日本における Art Deco 受容などの展示をしていますし、 2022年には『交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー』 [鑑賞メモ] という展覧会もありましたし、 改めて企画する程ではなかったのかもしれません。
12月第三週末土曜は午後に与野本町へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館 の劇場付きダンスカンパニー Noism Company Niigata [鑑賞メモ] の2025年夏の公演は、 2023年に黒部市の前沢ガーデン野外ステージで上演した『セレネ、あるいはマレビトの歌』を改訂した劇場版で、 スロヴェニア公演を経ての帰国公演です。
Arvo Pärt の音楽を使い『Fratres I』 [鑑賞メモ] を含むということで予想していましたが、全体として祈りの色合いを強く感じる作品でした。 といっても、『春の祭典』 [鑑賞メモ] などを思い出すような集団と個、2集団間の対立などを描く場面や、 井関と金森のデュエットのような見せ場もあり、そんなところもNoismらしいと。 しかし、そんな場面を使ってナラティヴに物語を描くというより、全体として祈りの儀式を観るような作品でした。
この公演が終わって1週間後、「【独自】「Noism」金森穣芸術総監督が退任の意向「ほかの自治体での活動含め考えたい」」 (新潟日報, 2025/12/28 22:00; 最終更新: 2025/12/28 23:42) という報道がありました。 2日後、自身のブログに「芸術監督の上限付き任期を否定する理由」 (2025-12-30) を投稿しています。 公共性という観点でオープンかつ公平であることを考慮すると、また、新陳代謝を促す観点からも、公共劇場の芸術監督 (Artistic Director) の任期に上限を設けることは基本的に良いことと考えています。 しかし、それは、欧州のような公共劇場付き劇団/舞踊団の制度とそれをとりまくエコシステムの存在が前提で、 日本で唯一の劇場付き舞踊団といわれるNoismですら劇場に運営体制が整っておらず芸術監督の金森の尽力と幾分かのカリスマ性でなんとか維持できているという状況では、 芸術監督の交替は無謀だというのも、よくわかります。 日本にも劇場付き劇団/舞踊団が増えて欲しいと思っていますが、現在の日本では状況は厳しいと突きつけられるようなニュースでした。
このままでは鑑賞メモのバックログが解消されないですし、そもそも時間が経つと印象や記憶も不確かになってしまうので、今年から、鑑賞メモは拙速でも早く書き上げることを重視しようと思います。
2025年に入手した最近数年の新録リリースの中から選んだ10枚+α。 展覧会・ダンス演劇等の公演の10選もあります: 2025年公演・展覧会等 Top 10。
2025年に歴史の塵捨場 (Dustbin of History)に 鑑賞メモを残した展覧会やダンス演劇等の公演の中から選んだ10選+α。 おおよそ印象に残った順ですが、順位には深い意味はありません。 旧作映画特集上映や劇場での上演を収録しての上映などは番外特選として選んでいます。 音楽関連は別に選んでいます: Records Top Ten 2025。
あけましておめでとうございます。
去年2025年の一年間を振り返って、展覧会・公演等Top TenとレコードTop Tenを選びました。
2025年は1月の手術入院から始まるという幸先悪さだったわけですが、2月には自宅のPC/HDD故障、4月から数ヶ月は中耳炎、とトラブル続き。 そして、6月下旬には独居の母が倒れて入院。以降は、入院中は病院へ、退院後は実家へ週1, 2回通う日々です。 そんな、展覧会・公演等へ足を運んだり、音楽を聴いたりする時間の捻出に苦慮した2025年でしたが、 こうして振り返ってみると、Top 10 を選ぶのに困らない程度には良い展覧会・公演やレコード/CDに出会えていたのでしょうか。
そんなプライベート上での問題もありますが、 それに加えてBBC世界情勢編集長が言うように 第三次世界大戦へのプロセスが始まっているのではないかとという世界情勢もあります。 そろそろ趣味生活などど言っていられない状況なのかもしれません。 この談話室への鑑賞メモを書く時間がなかなか取れず、更新も滞りがちで、 サイトの存続も危機的状況ですが、細々とでも続けて行ければと思いますので、今年もよろしくお願いします。
12月第二週末土曜は二週続けて横浜山下町へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
1973年設立の台湾のコンテンポラリーダンス・カンパニー雲門舞集 [Cloud Gate Dance Theatre of Taiwan] ですが、 海外公演も多く、欧州での公演のレビューやトレイラーなどを目にする機会も多かったのですが、今まで生で観る機会がありませでした。 今回、横浜国際舞台芸術ミーティング2025 (YPAM2025) のYPAMショーケース かつ ヨコハマダンスコレクション 2025の公演で初めて生で観ました。 観たのは、2020年就任の二代目芸術監督、鄭 宗龍 と、Rhizomatiks での活動で知られる 真鍋 大度 [関連する鑑賞メモ] のコラボレーションによる、2023年作です。
後方の数枚に別れたパネルを使う程度でほぼブラックボックスで、映像を駆使した演出です。 リアルタイムでの撮影、処理と投影による映像とのインタラクティヴなダンスで、 Adrien M & Claire B [鑑賞メモ] や 梅田 宏明 [鑑賞メモ] などの、 粒子状というかテクスチャのような映像使いが多く観られましたが、抽象的なものだけでなく、むしろ人物像などの実写映像の加工と組み合わせが特徴的で、飛び散る光の粒は波飛沫のよう。 ダンサーは13名で、長袖のレオタードというかコンプレッションウェアのようなトップスに袴のようなワイドなボトムという、テクスチャはあるもののほぼ黒の衣裳。 一列に並んで波のような動きを作ることもありましたが、むしろ、広めに開いた脚を踏ん張った状態で腰や肩を回すような動きの多用に、波を感じました。 そんな、多くのダンサーとインタラクティヴな映像によるスタイリッシュな舞台を楽しみましたが、Rhizomatiks だけでなくテクノロジーを駆使した展覧会でもあることなのですが、それ以上のものがあまり感じられないという空虚さもありました。
12月最初の週末土曜は晩に出直しで初台へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
2000年代以来フランスを拠点とし、2023年にフランスの TJP, Centre dramatique national de Strasbourg - Grand Est (ストラスブール・グランデスト国立演劇センターTJP) のディレクターに就任した、ダンサー・振付家 伊藤 郁女 [Kaori Ito] のソロでの公演です。 2020年代に入って度々日本で公演するようになっていますが、観るのは2021年の 笈田 ヨシ [Yoshi Oïda] とのコラボレーション [鑑賞メモ] ぶりです。 作品は2018年に自身のカンパニー Compagnie Himé で制作したものです。
自身の多忙なダンサー時代の体験に基づく作品です。 スケジュールに追われて自分を見失っている様を、 奈落に抜ける方形の穴が2箇所に空いた斜めに置かれた白い方形の舞台と、 その上に敷かれた薄布や、腕や膝を固定するような型なども使って、 奈落に落ちたり這い出たりする様な動きや、型にハマってままならない身の動きで、読み上げられる自身のスケジュールに合わせて、自身が疎外されている様を描くようでした。
自身の体験に基いた自伝的な作品で、時折、観客へ問いかけ応答を求める所など、 少し前に観た Aya Ogawa: The Nosebleed [鑑賞メモ] も思い出しましたが、同じようにはいかず、 ソロで自身を演じているという距離感の無さなのか、もしくは、ダンサーの生活の多忙さが自分の生活とはかなり縁遠く感じたせいか、作品の世界に入り難いものを感じてしまいました。
12月最初の週末土曜は昼に横浜山下町へ。コンテンポラリーサーカスの公演を観てきました。
2012年に香川県を拠点に活動するコンテンポラリーサーカスの拠点、瀬戸内サーカスファクトリーが、 フランスのサーカスアーティストと共同創作した作品です。 首都圏での公演がほとんど無く観る機会が無かった瀬戸内サーカスファクトリーですが、 この横浜国際舞台芸術ミーティング2025 (YPAM2025) のYPAMフリンジでの公演で、やっと観ることができました。
芥川 龍之介 の短編小説『蜘蛛の糸』に着想した約一時間の作品です。 香川県産の石材や木材を使った装置を使いつつ、抽象度の高いミニマリスティックな演習で、 その物語を演じるというより、着想した場面をサーカススキルを交えつつ描いたものを連ねていく様な作品でした。 中盤のエアリアルアーティスト2名によるロープ2本回転させながらのエアリアルから後方の壁前を方形に巡るワイヤーワークの場面や、 ラストの円錐状の光の中、釣りされた石を揺らしながらその上でのソロのアクロバットなど、 エアリアルスキルを活かした浮遊感ある場面が、美しく印象に残りました。
その一方で、前半の長さ 50 cm 程度の角材を積み上げたりする場面は、テキパキした動きなどは、演技というより逆に作業を見ているようで趣に欠けるように感じる時もありました。 自分が『蜘蛛の糸』のハイライト的な場面と期待していたということもあるかもしれませんが、 ラスト直前の犍陀多が地獄から逃れようと蜘蛛と糸を登る場面が、 リガーも含めた6名のパフォーマーが吊り下げたロープの周りで小さな動きでわちゃわちゃ動いていて、総体として動きがごちゃごちゃとして映えない印象を受けたのも惜しく感じました。
11月最後の土曜は午後に与野本町へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
ドイツのコンテンポラリーダンスの文脈で活動した振付家 Pina Bausch (2009年没) の最晩年作の、 彼女が率いたカンパニー Tanztheater Wuppertal によるリバイバル上演です。 かつては数年おきに来日していましたが、2017年の Neklen [鑑賞メモ] 以来8年ぶりの来日です。
象徴的ながら大掛かりな舞台装置が印象に残ることが多い Pina Bausch ですが [2004年の Ten Chi の鑑賞メモ]、 この作品はドレープのある薄手の白布がいく筋か下げられたシンプルなもので、 ライティングとナチス期ドイツのモノクロ映画 Viktor Tourjnsky: Der Blaufuchs (UFA, 1938) での演出でした。 しかし、スリムな黒の上下と男とロングのキャミソールドレスという姿の女が、私的な語りを交えつつ、時に遊びを感じる仕草を交えた踊りを繰り広げる、という定番の展開で、 Nazareth Panadero や Julie Shanahan など昔ながらのダンサーも出演しており、 (Kontakthof 以降のスタイルが定まった) Pina Bausch を観た、という感慨がありました。
しかし、衣裳も振付も性差を感じさせない Nederlands Dans Theater 2 の公演を観たばかりだったせいか、 今となってはその衣裳や振付が保守的に感じられてしまうことは否めず。 多様なミュージシャンの既存の音源を使った音楽も、選曲のセンスの良さは感じられるものの、なまじ知っているミュージシャンや曲が少なからずあるだけに、 DJ的とすら感じる元の音楽の文脈を外すような使い方が、気になってしまいました。 Cluster & Eno や Hope Sandoval の様なポピュラー音楽、特にロック的な文脈のもの場合、時代的な文脈が少し気になった程度ですが、 ノルウェーの少数民族サーミ (Saami) の歌手 Mari Boine の曲など、その文脈を外してオシャレなダンスのBGMとして消費しているかのよう (ワールドミュージック的な音楽消費の一面とは思いますが)、とも感じてしまうという。 そんな限界も感じてしまった公演でした。
11月第4週末三連休中日土曜は午後に初台へ。この演劇の公演を観てきました。
東京とアメリカを行き来きしながら育ち、ニューヨーク・ブルックリンを拠点に活動する劇作家・演出家・パフォーマーの Aya Ogawa の日本初公演です。 作風やバックグラウンドはほとんど知りませんでしたが、新国立劇場・演劇部門の海外招聘公演ということで観てみました。
失敗をテーマとしたワークショップを通して作り始めた作品で、作家自身の失敗である父と疎遠になり亡くなった際も葬式をあげなかったことを題材するという自伝的な作品でもあります。 元々、オルタナティブスペースのような会場を使い客席を取り囲むような形で上演を始めたとのことで、 舞台と客席の関係を取り払うというほどではないものの、客席の照明に明るさを残した上、観客も時々参加させる形での上演でした。 オーソドックスな会話劇のような演出ではなく、Aya Ogawa が自身を演じることが避けられ、一人複数役で舞台上での役の切り替えもあり、 俳優のリアリズム的な役の作り込みを通してではなく、俳優が舞台上に作り出す状況を通して、 親子のディスコミュニケーションやアメリカ社会での日系人の置かれた状況 (白人) を描いていくよう。
入場時にメモ紙が渡され、後半近くに観客に自分の失敗について書かせて集めました。 読み上げたりするのだろうかと思ったところ、内容に触れずに手回しのシュレッダーにかけてしまい、 観客に書かせたものをそうしてしまうのかと、驚きました。 しかし、ラスト、観客8名も参加させて父の葬式をする場面で、そのシュレッダーが棺桶に入れる花の様に添えられるのを観て、 なるほど、Aya Owaga の父の葬式をやり直すことを通して、Aya Ogawa だけではなく観客の失敗と悔恨も「葬送」する作品だったのだな、と。
Aya Owaga の個人的な体験に基づくものの、肉親との不仲という多くの人が何かしらの抱えているという点で普遍的なテーマが、絶妙な距離感で作品化されていましたし、 晒すように弄るのではなくそっと寄り添うような観客参加のあり方も興味深いものがありました。 自伝的、観客参加型と事前に知って苦手なタイプの作品かもしれない思ってましたが、杞憂でした。
11月第4週末三連休初日土曜は午後に横浜山下町へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
オランダのコンテンポラリー・ダンス・カンパニー Nederlands Dans Theater (NDT) の去年 [鑑賞メモ] に続いての来日は、 去年の NDT 1 (23歳以上のダンサーからなるメインのカンパニー) と代わって NDT 2 での来日でした。 NDT 2 は Jiří Kylián 芸術監督時代の1978年に若手育成目的のセカンド・カンパニーとして設立されましたが、 独自の演目を持つ NDT 1 とは独立したカンパニーという形で活動しています。 新進の振付家と新作を制作することが多いようで、今回のトリプルビルも Alexander Ekman 以外はこの公演で知りました。
スペイン・バレンシア出身で、現在はカタルーニャのバルセロナを拠点に自身のカンパニー La Veronal を率いる Marcos Morau の作品です。 12名のダンサーを使い、Sharon Eyal [鑑賞メモ] なども思い出されるダンサーの密集や線状の連なりを作りますが、Eyal の脈動とは違い全体として有機的な動きを見せます。 人の塊から一人がこぼれ落ちたり、取り込まれたりという形で、要所要所で、集団と個を対比する場面を作ります。 ブルガリアのポリフォニーに太鼓様の打楽器の強い響きによるビートを重ねた音楽を使い、動きもキレ良くメリハリがあるものでした。 男女共に、袖と首周りに細かい抽象的なプリントのある半袖白Tシャツに、黒のスカートにサスペンダー、という衣裳も、音楽同様架空の民族衣装の様に感じられました。
ロンドンの Hip Hop Dance Theatre のカンパニー Far From The Norm を主宰する Botis Seva の作品です。 ヒップホップというよりダブステップ的なビートに乗って、ヒップホップ/ブレイクダンスのイデオムを強く感じる動きを使います。 ラップではなくナレーション的に創作についての考えなどの語りが使われますが、その語りの内容をダンスで表現しているようには感じられませんでした。 むしろ、暗めの照明下で、カーキ色のTシャツやカットソーにルースなパンツという上下に黒のキャップを目深に被った男女8人のダンサーが、 組んだりするような動きをほとんど使わずに踊る様、そして、集団的な動きに1〜2人の動きが並置される様に、都会の中での孤独、分断された社会の中で孤立する人々を連想させられました。
Ballet de l'Opéra national de Paris に振り付けた Play (2017) の日本公演の記憶も新しい [鑑賞メモ] スウェーデンの振付家 Alexander Ekman の作品です。 ちなみに、Ekman は2002年から2005年の間 NDT 2 にダンサーとして在籍していました。 13名のダンサーを使い、集団へ新しい一人が加わる時の互いの違和感、戸惑いなどの微妙な感情や状況のスケッチ的な情景描写を繋いでいきます。 男女共に上半身裸 (女性はベージュのスポーツブラ) にロマンチックチュチュという衣裳をベースに、 時に黒のジャケットを羽織り、最後はチュチュを取ってベージュのアンダーウェアのみの姿で、 Dave Brubeck Quartet の “Take Fave” をメインテーマの様に使った音楽に、 エレガントな動きにユーモアも交えて軽妙洒脱なダンス作品に仕上げていました。 ほぼブラックボックスの舞台に置かれた丸い岩のようなオブジェの醸し出すシュールな不条理さも良いアクセント。 トリプルビルの中で最も楽しめた作品でした。
三作とも衣裳はもちろんダンサーに振り付けられた動きも性差がほとんど無い作品だった、というのも、今の時代のダンス作品ならではでしょうか。 それだけでなく、三作の間でベースにある動きのイデオムや作風は異なるものの、集団と個の関係という通底するテーマが感じられるなど、 共通点というか方向性も意識させられたプログラムでした。
公演後は鎌倉へ移動。6月以来休業していたカフェ・アユーが10月から不定期ながら営業再会したので、遅ればせながら顔を出したのでした。よかった。
11月第三週末土曜は午後に初台へ。このオペラを観てきました。
Georg Büchner の戯曲 Woyzeck [関連発言] を原作とする Alban Berg のオペラ Wozzeck [2014年の鑑賞メモ] の新国立劇場2025/26シーズン新制作です。 イギリスの Richard Jones よる演出ですが、この演出家の舞台作品を観るのは初めて。
Wozzeck ら兵士の服装もイエローの作業服、上官の服も階級章風の飾りこそ軍服風にも感じますが原色の赤という作業着を思わせる服装です。 べニア板風の壁の質感のプレハブ小屋の内部のようなセットを幾つか用意し、それを移動させて場面を切り替えていきます。蛍光灯のフラットで青白い照明が多用されます。 20世紀半ばの大規模な工場か工事現場とその現場事務所、近所の接客ありの酒場 (いわゆるキャバクラのような店) を舞台にした現場作業員と現場監督の話に置き換えたかのような演出でした。 あえてゴージャスさや美しさを避けるようなビジュアルの舞台もオペラらしからぬと思いつつ、 話の内容からするとむしろこの安っぽさこそ Wozzeck らしい、とも。 そんな場面が続くだけに、Marie を殺す場面や Wozzeck が沼に嵌って死ぬ場面こそ照明を使った抽象的で象徴的な演出も生きます。
今まで観た演出は Wozzeck に比べて Marie の描写は薄く印象に残っていないのですが、 Marie の部屋のミッドセンチュリーな感じや少しくすんだパステル入った色合いのカーディガンとスカートという服装という (Aki Kaurismäki の映画 Kuolleet lehdet [Fallen Leaves] を思い出しました) 質素な生活感や、 鼓手長との浮気での服装の変化のような形で可視化されたせいか、 この物語の中での彼女側の視点というか内面が見えたようにも感じられました。 また、出番があるときはTVばかり観ているネグレクト気味のとも言える Wozzeck と Marie の息子が、 ラストの場面ではまるで Wozzeck のようになることで、貧困の世代的再生産を暗示します。 Wozzeck を通して貧困を生きる男性の困難を描くだけでなく、貧困を生きる女性やその子供にも目配せが効いた演出でした。
オペラを観た後は隣の東京 オペラシティ アートギャラリーへ。 『柚木紗弥郎 永遠のいま』を観ました。 民藝がルーツにある作家ですが、パターンの抽象度の高さがミッドセンチュリーモダンぽくもある型染で、そこに時代を感じました。
11月第二週末土曜は午後に恵比寿へ。この展覧会を観てきました。
Pedro Costa
1989年に長編デビューしたポルトガルの映画監督 Pedro Costa の、21世紀に入って制作するようになったビデオ作品をメインに構成した (スライドショーとプリントの作品、他作家のドキュメンタリー映像上映を含む) 展覧会です。
Costa の映画は観たことが無く作風の予備知識はほぼありませんでしたが、この美術館での展覧会ということで観てみました。
ビデオ作品はマルチチャンネルのプロジェクションで投影されていましたが、
人物を捉えた映像ながら何かを演じている様を捉えているというより、動きの少ない顔のアップやバストアップを多用し、それを短時間のループで反復しいます。
まずは全体把握とざっと展示を一周した後に見直しても投影された映像に何か物語るような展開が感じられず、「液晶絵画」の肖像を観るようでした (プロジェクタでの投影ではありますが)。
暗い背景に人物を浮かび上がらせるようなライティング、テクスチャ感を増すようなオーバーレイの光や火の映像など、さすが映画監督でもあるだけあってスタイリッシュな映像の仕上がりでしたが、
一カ所以外全て立ち見でむしろ観客を回遊させるかのような構成なので、じっくり映像を観る展示ではないようにも感じられました。
アニュアルで開催されている写真を主なメディアに使う新進作家展です [去年の鑑賞メモ]。
展示前半、プライベートな題材の作品が続いて、苦手感は否めませんでした。
後半は対照的で、ラストは、Banaba (キリバスのバナバ)、Nauru (ナウル)、Viti Levu (フィジーのビティ・レブ) といった太平洋の島嶼の近現代史に取材し、
アーカイブ写真や古地図を使ったインスタレーションに仕上げた 呉 夏枝 [Oh Haji] の«Seabird Habitatscape #2 - Banaba, Nauru, Viti Levu» (2024)、
いかにも現代アート主流のリサーチベースのインスタレーションでした。
呉の作品も興味深く観ましたが、最も印象に残ったのは、日本の葬送儀礼をモチーフにして、逆さの文字盤の振子時計に小さく映像を組み込んだ
岡 ともみ のミクストメディア作品 «さかさごと» シリーズ (2023)。
骨董的な質感とささやかな寓話的なナラティブが好みでした。少々ノスタルジックな所など
Janet Cardiff & George Bures Miller の小品 [鑑賞メモ] にも近く感じましたが、
ユーモラスで演劇的というより、日本の葬送の風習を題材とすることでまた違った幻想的で感傷的な雰囲気となっていました。
10月後半から11月にかけて出張ラッシュでした。 そんな中、11月上旬福岡出張の際にランチついでに福岡アジア美術館で『ベトナム、記憶の風景』。 戦前のフランス絵画の影響下から、戦後のプロパガンダ、ドイモイ移行の現代美術まで、 1930年代から現在に至る約100年のベトナム近現代美術史を辿りました。 所蔵作品中心で構成して一連の流れを辿ることができるのはさすがです。
中旬の広島出張では、帰途の新幹線までの時間調整で平和記念公園へ。 広島へは年1, 2回の頻度で出張していますが、ここは10年ぶりくらいでしょうか。 原爆投下80年だし久しぶりに行くかと軽い気持ちで行ったら、 広島平和記念資料館が修学旅行団体とインバウンドでまさかのぎうぎうの大混雑でした。 展示をまともに観られる状況でなく、東京都写真美術館で『被曝80年企画展 ヒロシマ1945』を観ておいてよかった、と。
11月頭の三連休中日日曜は、昼に湘南新宿ラインで小田原を越えて根府川まで。この野外即興パフォーマンスを体験してきました。
神奈川県小田原市にある 江之浦測候所 を会場にミュージシャンの 大友 良英 が開催している野外即興パフォーマンス『MUSICS あるいは複数の音楽たち』の2022年、2024年に続く第三回です。
今回は「アジアン・ミーティング20周年記念スペシャル」と題し、韓国、中国、シンガポール、マレーシアからのミュージシャン5名が参加してのパフォーマンスでした。
今まで観に行ったことがありませんでしたが、今回、開催前の告知に、それもチケット完売前に気付くことが出来たので、足を伸ばしてきました。
会場の江之浦測候所は小田原市の南端、真鶴町との境近くの海に臨む崖の上にある、
現代美術作家 杉本 博司 が2009年に設立した財団が2017年にオープンさせた芸術文化施設です。
妙月門エリアと呼ばれる入口「妙月門」や野外の舞台やギャラリー棟などのある崖上の展望の良いエリアと、
そこからしばらく下った崖の中腹にある竹林エリアという、2つのエリアに分かれた広大な敷地を持っています。
敷地内に展示されている「杉本コレクション」は、杉本の展覧会に使われるような小物の骨董ではなく [鑑賞メモ]、
室町期禅宗様式の鎌倉明月院正門が幾つかの変遷を経て移築された明月門に始まり、
飛鳥時代の法隆寺若草伽藍礎石から明治期に敷設され昭和末まで使われていた京都市電軌道敷石まで。
古代から近代まで様々な時代の建築 (もしくは遺跡) の類を、博物館のように体系的にというよりも
杉本の美意識に沿って骨董趣味的に、現代的な建築 (夏至光遥拝100mギャラリー、光学硝子舞台) やオブジェ (数理模型) などと並置するように野外に展示しています。
杉本の骨董を使った展覧会の延長の、巨大な野外インスタレーションのようです。
そんな場所を会場に、屋内外の様々な場所を回遊しながら13時45分頃から16時半にかけての約3時間にわたり即興演奏を繰り広げました。
正確な観客数は把握しかねましたが数百人はいたでしょうか。
スタートは妙月門エリアの石舞台。特に始めますというアナウンスも無く、ミュージシャン達も半ば観客に混じる形てばらけた状態で、静かに音を出し始めます。
ミュージシャンは固まっても3、4名程度、移動しながら居場所を定めてしばらく音出ししたかと思えばまた移動。
演奏は分かりやすい旋律やリズムはほとんど用いず、派手に音を出して存在をアピールするものでもなく、観客の中に混じるかのように、そしてサウンドスケープに寄り添うように、電子音や打楽器やオブジェを鳴らします。
自分も会場を移動しながら、時にミュージシャンの後を追いつつ、時に止まって音出しするミュージシャンの傍で、もしくは一人で時に遠くの会場のあちこちに控えめに鳴る物音に耳をすましながら、その風景と音景を楽しみました。
その場所が遥かに洗練されて広大な自然の多い場所となり、音の機微も楽しめるようになったという違いはあるものの、
『休符だらけの音楽装置』 (旧千代田区立練成中学校屋上, 2009) のオープニング・ライブ [鑑賞メモ] のことを思い出しもしました。
しばらく妙月門エリアの光学硝子舞台や夏至光遥拝100mギャラリーや冬至光遥拝隧道、茶室のある小道などを散策した後、
下の方で鳴る音に導かれながら、榊の森を抜ける葛折の小道を下って竹林エリアへ。
このエリアでは生えている竹などもパーカッションに。
そして、今度は蜜柑畑を抜ける道を登りつつ、ミュージシャン達が遠くに声を掛け合うような音のやりとりを楽しみつつ、再び妙月門エリアへ。
薄曇りで陽射しは暑くなく、風もほとんど無く寒くもなく、雨も降らず、野外の3時間もあっという間でした。
そして、日が傾いた中、ミュージシャンが次第に光学硝子舞台やその周辺に集まり、観客も舞台を観るかのように古代ローマ円形劇場を再現した客席に座り、
吉増 剛造 が舞台に上がりパフォーマンスし、それを客席最前列で座った 杉本 博司 を始め満場のオベーションという、
いみじくも 大友 良英 がMCで「吉増剛造オンステージのよう」と言っていましたが、まさにそんな終わり方でした。
普通のクラシック・コンサートやロック・コンサートであれば違和感無かったとは思いますが、
演奏者の特権性を排してサウンドスケープに溶け込むような演奏をひとしきり楽しんだ直後だっただけに、そのコントラストも強烈。
なんだかんだ言いつつも特権的な芸術家をオベーションしたいという観客の欲望を観せつけられるようでした。
そして、まさかそんな終わり方をするとはと半ば苦笑しつつ、やはり『休符だらけの音楽装置』から遠くに来たものだと感慨に浸りました。
11月頭の三連休初日土曜の晩は、池袋から乃木坂へ。この展覧会を観てきました。
国立新美術館と、2021年に香港西九龍文化地区にオープンした美術館 M+ との協働キュレーションによる、
昭和が終わった1989年以降、2000年代にかけての日本の現代アートが作り出した表現に焦点を当てた展覧会です。
スコープは 『日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション』 (東京都現代美術館, 2024) [鑑賞メモ] と大きく被っており、
やはり1990年代半ばに興隆した街中アートイベントやそれを支えたオルタナティヴ・スペースが日本の現代アートの起点だったのだなと。
『日本現代美術私観』
よりイベントやパフォーマンスのドキュメンテーションの展示が豊富で、
現在の自分の興味からは少し外れてはいるものの、『日本現代美術私観』と比べて自分が観てきた日本の現代アートに近く感じられました。
『日本現代美術私観』では抜け落ちていましたが、ジェンダーやセクシャリティをテーマにしたフェミニズム的な展覧会が1990年代半ばに多く開催されたことに言及があり、
中でも好きだった 笠原 恵美子 [関連する鑑賞メモ] の作品が展示されていました。
街中アートイベントというと東京のものが選ばれがちですが、
『ミュージアム・シティ・福岡 1998』で制作された Navin Rawanchaikul 「博多ドライヴ・イン」 [写真, 鑑賞メモ] が展示されていて、福岡の街中を歩きまわった時のことを思い出されました。
また、今まで自分が観た国内の街中アートイベントの中でもベストと言える『水の波紋 '95』 [言及のある鑑賞メモ] の展示もありました。
そういう展示を観ながら、作品云々というより、懐かしいというか、そういう事もありましたね、という詠嘆が先立つ展覧会でした。
イタリアの高級宝飾品ブランド Bvlgari の展覧会です。
正直に言えば、展示されていた宝飾品は“not for me”で、近代的な色彩論に紐付けようとはしていましたが近代デザインの観点でも興味を引かれるものはありませんでしたが、
日本の建築ユニット SANAA (妹島 和世 + 西沢 立衛) とイタリアのデザインスタジオ FormaFantasma によるという会場デザインが面白いものでした。
上から見ると魚の鱗を連ねたような区画で、時に透明なパーティションも使い、基本構造に並進対称性がありながら単調さを排除していました。
しかし、展示されているのがせいぜい数十センチの小さなオブジェだから生きる空間構成かもしれません。
宝飾品に関する展示の他に、現代アート作品が3点展示されていました。
中山 晃子 “Echo” は、本人がライブて操作する alive painting [鑑賞メモ] ではなくインスタレーションですが、
雲母の煌めき混じりのカラフルが色面を低音で間欠的に水面を湧き立たせ、変化させた色と光を投影するという alive painting の変奏とも言える作品でした。
洗車機に使われるような巨大な回転ブラシが何本も回転する Lara Favaretto “Level Five” は、回転による風に煽られるような迫力がありました。
11月頭の三連休初日土曜は、午後に池袋西口へ。このコンテンポラリーダンス公演を観てきました。
2016年の Vessel 以来継続している ベルギーのダンサー/振付家 Damien Jalet [鑑賞メモ 1, 2] と 日本の現代アート作家 名和 晃平 のコラボレーションによるコンテンポラリーダンス作品です。 元々2020年に日本で世界初演されるはずもコロナ禍で公演中止になり、これが日本初演。 2人のコラボレーションを観るのは初めてです。
黒光する砂で敷き詰められたほぼブラックボックスの舞台で、暗めの照明の中、 その上で物語らしきものはないものの、抽象度の高いイメージがシュールレアリスティックに連鎖するかのような作品でした。 ダンサーたちも砂まみれになり、膝まで埋まった状態で上半身をうねらせるような動き、 フォーメーションでの動きの中で動画の時間進行が前後するかのように振動する動き、 敷き詰められた砂を掻き回しつつのたうつ動き、 糊のような白い高粘度の液体が滴る中での蠢きなど、 黒光り砂や粘度の高い液体に覆われた有機的な物体というか正体不明の生命体が蠢く様を観るようでした。 名和 晃平 の作品というとガラス玉で覆われた動物の剥製のイメージが強いのですが、 生命体を粉粒等で覆ったイメージという点は共通するかもしれません。
パンフレットでは古事記の葦原中国、雅楽や枯山水などに言及されていましたし、Tim Hecker による音楽も電子音の中に雅楽の楽器の音が鳴っていたようにも思いますが、 日本的と言ってもその歴史的文脈はバラバラですし、むしろそんな歴史的文脈は捨象、抽象化されていて、 どちらかというと、ホラー的、SF的な生命体 (エイリアン) の棲まう異星を連想させられました。
約一ヶ月前の話になりますが週末日曜午後に三軒茶屋へ。このコンテンポラリーサーカス公演を観てきました。
世田谷パブリックシアターの秋恒例コンテンポラリーサーカス公演、 今年は2019年 [鑑賞メモ] ぶりに Raphaëlle Boitel 率いるフランスのカンパニー Cie l'Oublié(e)。 今回は、スモークと照明を使った演出にサーカススキルを交え台詞も使った一連のスケッチで、 父と三人姉妹、弟、長女の夫という6名の間の関係の不安定を描いた作品でした
例えば父と次女、結婚後の長女夫妻の不仲が台詞を交えて演劇的に描かれるのですが、 その顛末の描写はあえて避けられ、家族の日常に亀裂が入る瞬間の原因も結果も見えない宙に浮いたような不穏で不条理な状況に焦点が当てられます。 さらに、それをキックにサーカススキルやダンスを使った象徴的な心情表現が展開します。 そんな演劇的な表現と現代的なダンスやサーカススキルを使った象徴的な表現の組み合わせは、 シュールなユーモアもありましたが異化する方向性ではなく、ホームドラマ的な題材に寄り添い過ぎてメロドラマチックにも感じられてしまいました。
うっすらスモークを焚いた空間に輪郭の明瞭な強い照明を当てると光の筋だけくっきり切り出され光と影の境界がスクリーンのようになる効果を使い、 舞台上にマルチウインドウのように複数の場面を並置して切替たり、奥行き方向に並置して光をビートに合わせて前後に動かし細かく場面を切替えたりする、 スモークと照明を使った演出を多用しました。 そんな演出は確かに見応えありましたが、エアリアルのサーカススキルを使った演技が霞んでしまい、その点が物足りなく感じてしまいました。
コロナ禍前は、世田谷パブリックシアターのコンテンポラリー・サーカス公演は
三茶de大道芸の週末に開催されていました。
近年は1週後の週末になっていたのですが、つい昔の感覚で三茶de大道芸と同じ週末 (10月18,19日) と勘違いしていました。
18日に三軒茶屋へ行って勘違いに、そして翌週土曜にダブルブッキングしていることに気づいて呆然。
結局、26日日曜の公演のチケットを取り直して観たのでした。
18日はちょうどプラザ (世田谷線駅前の広場) で大駱駝艦の大道芸を久しぶりに観ることができ、全くの徒労とならずに済みました。
大駱駝艦が三茶de大道芸へ出演したのは6年ぶりとのこと。
パフォーマンスに合わせる音楽はジャズをメインに構成してコロナ禍前 [鑑賞メモ] とはガラッと雰囲気を変えていました。
3週間余り前の週末土曜は、午後に横浜山下町へ。このダンス公演を観てきました。
ポルトガル出身で、競泳、そしてストリートダンスのバックグラウンドを持ち、 2010年代以降、コンテンポラリーダンスの文脈でダンサー・振付家として活動する Marco da Silva Ferreira の2022年作です。 去年もこの作品で来日していたものの首都圏で公演が無く見逃していました。 ポルトガルのコンテンポラリーダンスは観る機会はほとんど無かったので、観る良い機会かと足を運びました。
打楽器とエレクトロニクスの生演奏に合わせ、性別やルーツも様々な、一人は隻腕の10名のダンサーが踊ります。 衣装は黒のスポーツ用のレオタードやアンダーウェアをベースとしたもので、履いているのもスニーカー、鮮やかな色を差した布を腰に巻いたり羽織ったりして時に変化を加えます。 その動きは、ヨーロッパやアフリカのフォークダンスを都会的なストリートダンスでアップデートしたよう。 パーカッションの連打に合わせて手足を細かく動かすアフリカのダンスや、 アンゴラ発のアーバンダンスミュージック Kuduro、 ヨーロッパ、特にポルトガルの民族音楽・舞踊を参照していたようでした。
ポルトガルというと港町の歌謡ファド (Fado) が有名ですが、それではなく、むしろルーラルなもの。 自分の知る範囲では、1990年代にポルトガルのレーベル Farol がリリースしていたような、 例えば Gaiteiro de Lisboa のパーカッション・パートを抜き出したような音楽と感じました。 それ以外にも hardy gardy を思わせるジーと連続するような音がサンプリングで使われたり。 そんな音に合わせてヨーロッパのフォークダンスを思わせる対になったり並んだりしてのダンスしたり。 そんな様々な動きを繋ぎ合わせていたのは、ストリートダンス的なスポーティさも感じるフットワークに重点を置いた踊りでした。
特に中盤くらいまではフォークダンス的な人の配置での見せ方が巧みで、黒字に色を差した衣装も美しく、視覚的な音楽を観るようでした。 もちろん、ポルトガルやその旧植民地の音楽や踊りを参照することで国の成り立ちを間接的に浮かび上がらせていましたが、 終わり近くなり、床に敷いた蓄光の白いシートをスクリーンのように掛けて ポルトガルの独裁政権を終わらせたカーネーション革命 (1975年) の際のプロテストソングの歌詞の訳を投影しつつ歌うことで、その作品テーマがグッと全面に出ます。 直接的に過ぎるようにも感じましたが、粗めながら切れ味良いダンスには、そのくらいの勢いもアリかもしれません。
音楽のうち打楽器を担当した João Pais Filipe は、Burnt Friedman と共演したシングル (Automatic Music Vol.1–Mechanics Of Waving (Nonplace, 2022) など) を通して知ったミュージシャンだったこともあり、 エレクトロニクス (Luis Pestana) との組み合わせもあってダブワイズな展開を予想した所もありましたが、 エコー的な音弄りはあまり感じられず、むしろ、動きのシャープさを生かすような演奏でした。 後で自分のCDコレクション等を聴き返していて気づいたのですが、 舞台中盤で使われた “We will rock you” にも似たズンズンチャというリズムが、 Rui Júnior e o Ó Que Som Tem?: O mundo não quer acabar (Farol, 1998) の最後の曲としても収録されていたり、 エレクトロニクスを担当していた Luis Pestana のアルバム Rosa Pano (bandcamp, 2022) に Gaiteiro de Lisboa の Carlos Guerreiro の hardy gardy がクレジットされていたりしたので、 観ていた時に感じた音楽のポルトガル的な要素の印象は大きく外していなかったでしょうか。
3週間余り前の週末日曜は、午後に池袋西口へ。東京芸術劇場で 舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」 のプログラム2本をハシゴしてきました。
イングランド北部シェフィールドを拠点とする劇団 Forced Entertainment の設立40周年を記念する作品です。 観るのはFESTIVAL/TOKYO 2013で観た The Coming Storm [鑑賞メモ] 以来、十余年ぶりです。
AI生成でされた音声に合わせてリップシンクで演じる作品です。 しかし、その台詞で物語を展開したり、台詞の内容に応じた心情を自然な表現で演じるものではありません。 その音声の内容は登場人物の心情を描くというより舞台の進行に関するものも多く、反復が多く、次第に断片的なものも多用されるので、 次第にそういう音声を使ったメロディの無いコラージュ的な音楽を聴いているような気分になります。 AI合成音声の内容の空疎さはもちろん、それに合わせてリップシンクしながら、少々キッチュな衣装を着替え、舞台上の家具等を移動し、掃除し、という動きをひたすら繰り返して、という意味を感じられない動きから、その形式が浮かび上がるよう。
抑揚はあるものの妙に単調でゆっくりとした女声のセリフが催眠的でしたし、おそらく意図的な空疎さ退屈さもありましたが、 演劇というよりAI生成音声をコラージュした音楽を使ったダンス作品を観るような興味深さもあった舞台でした。
チェコ・プラハを拠点に活動するオブジェクト・シアターによる公演です。 といっても、抽象的なオブジェを操るモダンな演出のものではなく、 伝統的な人形劇に準じた舞台を用い、しかし操り人形ではなく、おもちゃの人形などのオブジェを使い、 台詞は用いずに、物語るというよりシュールレアリスティックなイメージを連ねていくような作品でした。
高さ2.5m幅2m程度の衝立の中央上部に幅60cm高さ40cm程度の開口部が設けられ、そこが人形劇の舞台となります。 演じるのは男性2人女性1人の3人。衝立の裏にずっと隠れているわけでなく、時折衝立前でマイムで進行など演じ、 衝立の上手にはDJブースが置かれ、男性1人がライブで音楽が添えました。 衝立はカトリックのお祭りで使われそうな手作りの刺繍の布で飾り立てられ、 開口部にはやはり刺繍の緞帳を使い、時に2重3重のプロセニアム・アーチを立てて、 そこを舞台に、せいぜい十数cm程度の大きさの、安価なおもちゃの人形、ぬいぐるみ、その他ガラクタのようなファウンド・オブジェを並べ動かして場面を作っていきます。
作り出すイメージは、強権的な政治や虐殺も思わせるものから、脱力するようなユーモアを感じるものまで。 ラストはいわゆる Memento mori に Goethe の今際の言葉 Mehr Licht と、死のイメージ色濃いものでした。 音楽使いも、幕間などにノスタルジックな音楽を使いつつも、音声の断片などの具体音をまぶしたelectronia / dub technoな音楽使い。 脱力するような可愛らしさと不気味さグロテスクさが同居するような公演でした。
終演後は観客を衝立の後ろにまで自由に回らせ、舞台裏の上演に使った大量のオブジェを間近に見ることができるようにしていましたが、そんな所も人形劇のお約束でしょうか。
約1ヶ月前になってしまいましたが、10月三連休中日の日曜は、午後遅めに清澄白河へ。この展覧会を観てきました。
東京都現代美術館の開館30年を記念する展覧会です。
といっても、開館から30年間の東京都現代美術館の歩みを振り返るような展覧会ではなく、
今現在の現代美術のありようを切り取る展覧会でした。
欧米 (北米及びヨーロッパ) の有名な作家は無く、
世界の南北問題や国内の貧富格差の問題、マイノリティに対する抑圧などの作品のテーマの採り方は、
『国際芸術祭「あいち2025」―灰と薔薇のあいまに』 [鑑賞メモ] にも共通しますが、
そちらでは扱いが少なかった東アジアから東南アジアにかけての作家が厚く取り上げられていて、補完しているようにも感じられました。
しかし、作風は『国際芸術祭「あいち2025」―灰と薔薇のあいまに』に多かったすっきりとスタイリッシュの仕上がりというより、
キッチュだったりドキュメントを集積するようなものだったりするものが目立ちました。
それが地域差によるものなのか、キュレータによるディレクションの違いなのかは、わかりかねましたが。
そんな作風もあって、ノンフィクションの本かドキュメンタリー映画としてきっちり仕上げた方が良いのではないかと思ってしまう作品も少なく無かったのですが、
中で印象に残ったのは、インド南西部マハーラシュトラ州ムンバイのスタジオCAMPによる、
ムンバイの高層ビル上部に設置された監視カメラのように向きや焦点を遠隔操作可能としたカメラで撮影した高精細カラー映像を凸凹に配置されたスクリーン投影した7チャンネルビデオ作品 Bombay Tilts Down (2022)。
建設途中の高層ビルからスラム街まで舐めるように撮られた映像に、街の貧富格差の激しさを自分自身がビルの上から観るかのように感じられました。
日本出身で2000年代半ばよりニューヨーク拠点で現代美術の文脈で活動する作家の展覧会です。
国際美術展などで観たことがあるかもしれませんが、意識して観るのは初めてです。
パフォーマンスやそれを行う場としてのインスタレーションを主たる作風の作家のようで、
この展覧会中にもパフォーマンスは行われていますが、タイミングが合わず、インスタレーション作品として観ることになりました。
パフォーマンス抜きで観たということもあると思いますが、動きのある作品の方が興味深く、
直径2m深さ2mほどの円柱状の穴の中で飛び跳ねつつ声をあげている様子を撮った映像作品 «random memo random» (2016) や、
疑似餌を拡大したオブジェを挟み込んだスプリングを頭上に張り巡らせて間欠的に振動させる『測深線』«Sounding Lines» (2024) の、
不条理なユーモアを楽しみました。
コレクション展示室では 『開館30周年記念 MOTコレクション 9つのプロフィール 1935>>>2025』。 企画展『日常のコレオ』とは対照的な、東京都美術館以来の歴史を振り返るようなオーソドックスな年代順の展示構成でした。
3週間前の週末土曜晩は、間が空いたので一旦出直しして、再び池袋西口へ。この舞台を観てきました。
2000年代末から主にダンスの文脈で活動するアメリカの振付家 Faye Driscoll の2023年作です。 といっても、背景や作風の予備知識はほとんど無く、 今年から始まった舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」Autumn Meteorite 2025 Tokyoのプログラムということで足を運んでみました。
明示的に示されたわけではないですが、 フランス・ロマン主義絵画 Théodore Géricault: Radeau de la Méduse 『メデューズ号の筏』 (1819) と その元となったフランス海軍のメデューズ号の遭難とその後の乗組員の筏による漂流という事件 (1816) を参照した作品です。 海を漂う筏に見立てた一辺5m、高さ1m程度の分厚い白いマットレスのような舞台が中央に置かれ、 そこから5mほど距離を置いて舞台を取り囲むように客席を配置するというセッティングで上演されました。
アフリカ系やアジア系も含む老若男女、体型も痩せ型からがっしり太めまで、多様性を意識したパフォーマー10名が、現在のアメリカの街中で普通に見かけそうな服装で現れ、 活人画として筏での漂流している様子を描くかのように狭く足場の不安定な舞台の上でポーズをとります。 それから暫くは無音で、動きが無いと感じるくらいジリジリと少しずつ動き、他のパフォーマーに掴まったりしながら、次第に舞台の上に崩れていきます。 並んだアメリカのごく普通の人たちに大量の水を浴びせた時の様子を高解像度高速度カメラを用い「動く絵画」のような劇的なスローモーション映像とした Bill Viola の The Raft (2004) [鑑賞メモ] というビデオ作品があるのですが、 それを活人画的にパフォーマンス化したようと思いつつ、最初のうちは観ていました。
ほぼ台詞の無いパフォーマンスで、時折、静かにカウントするかのような声や詠唱がある程度の展開ですが、 中盤になると、活人画をいろんなアングルから見せるかのように、時々、舞台を90度ずつ回すようになり、 パフォーマーたちも単にのたうつような姿勢を取るだけでなく、服を脱ぎ/脱がしはじめます。 香りもパフォーマンスに一要素ということで、Faye Driscoll 自身を含むスタッフが場面に合わせて調合された香水をスプレーで客席に振りかける時もありました。 後半は皆半裸となり、舞台を勢いよく回し、舞台から転び落ちたり飛び乗ったりという激しい動きとなり、 軸が固定されておらず次第に回転する舞台が客席側に迫ってきたりもしました。 後半、自分の身を含めてスリリングにな展開となり、半ば呆気に取られているうちにパフォーマンスは終わりました。
絵画『メデューズ号の筏』は筏に乗った生存者が接近する船を見つけた救出直前の瞬間を描いたもので、 その絵画のオマージュのようなポーズがこのパフォーマンスの最後近くに出てきたので、 遭難から救出までの漂流13日間が演じられていたのかもしれません。 しかし、タイトルは「風化」という意味ですし、後半の激しい展開は筏が嵐に揉まれる様子を象徴的に示したかのよう。 メデューズ号事件の具体的なエピソードより普遍的に、 激しい天候に晒される中で逃げ場もなくなす術もなく人々がボロボロに「風化」していく様を描いたかのようなパフォーマンスでした。 最初に感じた Bill Viola: The Raft から最後には遠く離れたようで、結局、似たような印象を残したパフォーマンスでした。
ちょうど2週間前に観たばかりの Peeping Tom: Triptych の第三幕 The Hidden Floor (2007) [鑑賞メモ] でも、大厄災 (自然災害や戦争) でそれらになす術なく翻弄される人々のメタファーとして観たわけですが、 それも、近年の極端化する気象とそれに伴う災害の多発や不安定化している国際情勢を意識し、観ている作品へ反映しがちということもあるのかもしれません。
2週間前の週末土曜は、午後に池袋西口へ。この舞台を観てきました。
今年7月に亡くなったアメリカの Robert Wilson の演出による、フランスの女優 Isabelle Huppert の一人舞台です。 様式的な動きと美しい光の演出で知られる Wilson ですが、 生で観たのは Lecture on Nothing 『“無”のレクチャー』 (利賀芸術公園 利賀大山房, 2019) [鑑賞メモ] ぶりです。 演じる Isabelle Huppert は日本では映画俳優として知られますが、舞台俳優としては Ivo van Hove 演出による La Ménagerie de verre [The Glass Menagerie] 『ガラスの動物園』 (新国立劇場 中劇場, 2022) [鑑賞メモ] を観る機会がありました (このときは Huppert を特に目立たせるような演出ではありませんでしたが)。
16世紀半ばのスコットランド女王 Mary, Queen of Scots (aka Mary Stuart) が、 イングランドへの亡命の後、イングランド女王 Elizabeth I 廃位の謀略に関わったとして Fotheringhay 城で処刑されるその前夜を、 実際の書簡などのテキストを独白の台詞として用いて描いた作品です。 Wilson らしい美しい光の演出のミニマリスティックな舞台で、操り人形を思わせる動きをしながら、処刑の時間が迫る中での過去の記憶の走馬灯を、光と語りで現前したかのような、圧倒される一人芝居、約一時間半でした。
セリフは反復が多く、さらに (事前かライブか判然としませんでしたが) 録音も使って反復させていくのですか、 最初はゆっくり、後になるほど捲し立てるような語りとなり、その声の調子の変化で様相が変わっていきます。 セリフがフランス語で、かつ、字幕の位置が遠く、セリフはほとんと追えず、 女王 Mary の処刑に至る経緯の話は耳に/目に入っても滑りがちでしたが、 周囲の人物の処刑や虐殺に関わる語りの時にふっと血生臭いイメージが浮かぶことがあるくらいの語りの強さがありました。 当時の時代背景、特に当時のイングランド、スコットランド、フランスを取り巻く情勢、特に、人物の固有名詞に関する知識があれば、もっと話についていけたかもしれません。 結局のところ、侍女4人の Mary の話の方が印象に残り、歴史的証言というより私的な語りを聞くようでした。
ほとんど光の演出のみのミニマリスティックな演出でしたが、 中盤にはスモークを敷き詰め、椅子に座り、手に枝を持つような演出もありましたし、 その暫く後、台詞なしのノンクレジットの俳優で反転した鏡像のようなシルエットを作り出した場面も、幻想的でした。 象徴的な小道具としては、ヒールと、蝋燭で燃やされる手紙もありましたが、台詞が追いきれていなかったこともあり、何を象徴していたのかは掴みきれませんでした。 Huppert の演技は自然なリアリズム的なものとは対極的なもので、こわばったような手の動き、それに、まるで吊るされた人形が揺すられているかのような前後する動きもあって、操り人形のよう。 そのような形式的な動きを介して、時に彼女の置かれた立場を、時に彼女の感情を示しているようでした。
2週間前の週末日曜は、午後に南青山へ。このライブを観てきました。
1970年代のArild Andersen Quertetの以来ECMへ様々なグループでのリーダー作を残してきているノルウェーのピアノ奏者 Jon Balke の来日公演です。 前半は、今年リリースしたソロアルバム Skrifum (ECM, ECM2839, 2025, CD) でも用いられた自ら開発したライブ・エレクトロニクス・システム Spektrafon を使ったピアノソロ。 休憩を挟んで後半は Spektrafon は用いず、代わりにキーボードを加え、Balke と福盛とデュオで演奏しつつ、白石がライブ・ペインティングならぬライブ書をするというものでした。
Jon Balke の Spektrafon のHMIはタブレットで、ピアノの譜面台を外し、チューニングピンがあるあたりに置いて演奏していました。 その演奏の様子から想像するに、音声入力をフーリエ変換したスペクトルをリアルタイムでタブレットに表示していて、その画面を撫でると、撫でられた部分の周波数成分が撫でられた大きさに応じて増幅される、というシステムのようでした。 実際の音の変化は、倍音成分が増えてサワリのような響きが増えるというより、リバーブがかかるというか残響が大きくなるよう。 そんな音の変化が際立つような、音の間合いを聴かせるような疎なフレーズを、ソフトなタッチで聴かせます。
福盛 進也、白石 雪妃 を迎えた後半は、白石 のライブの書に目が行きがちでした。
白石の書は文や文字を書くのではなく抽象的なもの。
黒使いは控えめで、薄い青炭や、銀泥、金泥も用い、
穂丈が20cmくらいありそうな細筆を使った草書のようなストローク、穂径が10cmくらいありそうな太筆を使った強くシンプルなストロークに、ドリッピングを交えました。
対称性を崩すように床に広げた3本の白い紙の上だけでなく、
着ていた裾を摺る丈のシンプルな白のノースリーブワンピースドレスへも、書いていました。
最初にほとんど水のような薄墨を使い太筆で描いた円が綺麗でと思っていたのですが、
それが次第に乾いて、最後の方ではほとんど消えてしまうという、
そのような書いたものが消える効果も使っていました。
Jon Balke の演奏も、福盛 のドラムと呼応するように、強いタッチの使いや手数の多い時もあり、起伏のある展開になりました。 また、Balke が度々立ち上がってピアノ越しに白石が書く様子をよく見ていて、 ストロークに合わせて分かりやすくフレーズを繰り出すことはありませんでしたが、 まるで書かれる書に着想するかのように音出しをしていました。
前半の Balke の強調されたピアノの残響や、後半の Henri Michaux なども連想される白石の書のイメージもあって、 静かで落ち着いた展開の中に時折幻想がふっと湧き上がるかのような、そんな約2時間のライブでした。
6月22日から母が入院していたわけですが、9月29日の退院後初の週末でした。 というわけで、日曜は昼に母の家へ様子を見に行って、それからのライブでした。 この週末は、Jaco Van Dormael / Michèle Anne De Mey / Astragales: Cold Blood @ 高知県立美術館ホール [日本公演情報] や、 Co.SCOoPP 『竹×絹×現代サーカス「project KUMU」』 @ 関西エアリアル 沓掛スタジオ など、 観に遠征したい公演もあったのですが、暫くは泊まりがけの遠征は難しそうです。
2週間前の週末土曜は、午後に京橋へ。 ユネスコ「世界視聴覚遺産の日」記念特別イベントとして国立映画アーカイブが企画した 『発掘された映画たち2022』の Aプログラムを観ました。
『発掘された映画たち』は国立映画アーカイブが新たに発掘・復元した映画を紹介する企画ですが、 今回の企画は1991年の企画『発掘された映画たち―小宮登美次郎コレクション』のPart 2で、 2021年にイタリア・ボローニャの Il Cinema Ritrovato (チネマ・リトロバート映画祭) と共催した In un labirinto di immagini. La Tomijiro Komiya Collection「映像の迷宮:小宮登美次郎コレクション」の調査結果を踏まえて企画されたものです。 世界初公開のものを集めたAプログラム、Il Cinema Ritrovato 2011で上映した映画から選んだBプログラムのうち、Aプログラムを観ました。 (1991年の上映は観ていません。今回も、都合が合わず、Bプログラムは観られませんでした。)
全て20世紀初頭、第一次世界大戦ほぼ前の劇映画で、構図にしても場面の繋ぎにしても素朴で、ストーリーもシンプルです。 当時のフランス、イタリア、ドイツの映画がどういうものだったのかという映画史的な興味はもちろん、 中世を舞台とした作品、現代 (映画制作と同時代の1900年前後) を舞台にした作品などから、当時のヨーロッパの時代劇、現代劇の雰囲気を想像しながら観ました。
そんな中では、やはり、 La Leçon du gouffre [The Intriguers] 『密計者』 (Pathé Frères, 1913) での川を行く船上や登山中などの野外ロケやメロドラマチックな展開、 Das Teufelsauge [The Devil’s Eye] 『悪魔の眼』 (Vag & Hubert, 1914) での塔から伸びるワイヤーを渡るアクションや塔の崩壊を捉えたスペクタクルの迫力に、後の戦間期のモダンな表現に繋がる所を感じました。 いずれも半分以下の断片での上映だったことが惜しまれますが、断片でも優れていることが伺える作品なので、上映プログラムに含めたのでしょうか。
2週間前の週末土曜、竹橋の後、晩に三軒茶屋へ。この公演を観てきました。
シュールなナラティブ・ダンスを作風とするベルギーのカンパニー Peeping Tom の来日公演です。 ストリーミングで Moeder を観 [鑑賞メモ]、 NDT (Nederlands Dans Theater) に振り付けた La Ruta を観ている [鑑賞メモ] のであまり間が空いた気がしていなかったのですが、 カンパニーの公演として観るのは、 前回2023年2月の Moeder を見逃しているので、 コロナ禍前2017年2月の Vader 以来 [鑑賞メモ]、実に8年半ぶりです。
今回上演した Triptych は、NDTへ振付た The Missing Door (2013), The Lost Room (2015), The Hidden Floor (2027) の三部作を、 独立した3作を上演するトリプルビルではなく、 その間の舞台セットの転換も観客に見せる形で制作順に繋いで、三幕物の1作品として構成した作品です。 三幕とも時折激しく揺れる豪華客船の客室という設定は共通していますが、 最初の The Missing Door は煤けて薄暗い簡素な下等の客室、 続く The Lost Room は対照的に豪華な上等の客室、 最後の The Hidden Floor は水浸しの食堂が舞台で、 同じダンサーが踊るのでキャラクターとしての共通性は感じられるものの、同じ登場人物というほどには繋がりは感じられませんでした。
第一幕の The Hidden Door は、椅子に倒れかかった男性の変死体から始まり、 殺人事件の再現というより、そこで何があったのかその想像というか妄想をダンス化していきます。 男女の痴情のもつれからの殺人のようであり、それをサイコスリラー的なダンスとしていくのですが、 時折、嵐で激しく船が揺れたか風が激しく吹き込んだかを表現するように (舞台を揺らしたり風を送り込んだりはしない)、扉から人が転がり込んできたり、床で人が転がり回ったりで、シリアスな展開が一気にドタバタになります。 明かり明滅と扉の開閉を細かく行うのに合わせて床のダンサーが細かく動きを反復させることで映画フィルムを細かく前後させたものを表現したり、 マジック的な技を使って床を転げ回るオブジェをダンサーに負わせたり。 死後硬直したかのように脱力しているがピンと体がのびた状態の女性ダンサーを背中側から支えて振り回すようなリフトは、 どうやっているのだと思うような身体能力の凄さだけでなく、死体が浮遊しているかのようなホラーなイメージにもなっていました。
第二幕の The Lost Room は、豪華客室に泊まっている夫婦もしくはカップルの、互いの不義 (という想像・妄想) を描いたダンスで、 その目撃者となる部屋付きのメイドの存在もあって、メロドラマのパロディのよう。 疑念や嫉妬を動機とするかのような不穏な展開が繰り広げられるのですが、 The Hidden Door 同様の船が激しく揺れているかのような動きがそれを揺り動かしてあらぬ方向へ展開させます。 奈落抜けの仕組みを仕込んだベッドから姿を消したり、コートを使って生首を抱えているかのような演出をしたり、とマジック的な演出も印象に残りました。
第三幕の The Hidden Floor は、 幾筋か天井から細く水を落とし、フロアに薄く水を張った薄暗い舞台上で中での上演です。 嵐の中、酷く水漏れしている食堂に集まった客船の乗客たちが座り込み、水の溜まった床をほぼ全裸 (男性ダンサーは全裸) で転げ回ります。 第一、二幕で (ダンスとして表現された) 船の揺れは少々メロドラマチックなサイコスリラー的展開をドタバタで異化するかのようでしたが、 第三幕には殺人や不倫のようなわかりやすいフックが無かったこともあり、 むしろ大厄災 (自然災害や戦争) でそれらになす術なく翻弄される人々のメタファーのようで、 静かな終わりは厄災の被害者たち救済を祈るような厳かさでした。
いかにも Peeping Tom らしいシュールレアリスティックでサイコスリラー的な作品でしたが、 今まで彼らの作品を観たときとは違い、David Lunch 的と想起させられることがあまり無く、 むしろ、話の展開とは独立に差し込まれるかのようなドタバタに不条理なユーモアも感じられました。 水飛沫の上げながらのダンスの迫力はもちろんラストは厳粛さすら感じた第三幕も良かったですが、 ユーモラスな場面が多めの第一幕が最も好みでした。 そんなユーモアの塩梅も良く、今まで観た Peeping Tom の作品と比べても最も楽しめた作品でした。
2週間前になってしまいましたが、その土曜は午後遅めに竹橋へ。この展覧会を観てきました。
1930年代から1970年代の美術が十五年戦争 (満州事変、日中戦争、太平洋戦争) をどう描いてきたかを振り返る展覧会です。
全8章構成で5章までが終戦以前、いわゆる戦争画を中心に構成されていました。
戦線の光景だけでなく銃後の光景、大陸・南洋の風景、歴史・仏教主題、象徴的な表現なども含めて戦時の美術/戦争画と定義し、
その中で軍の委嘱の有無に関わらず前線 (戦闘場面) を記録したものを戦争記録画、
中でも軍に委嘱された公式なものを作戦記録画と整理していました。
戦争画は普段のコレクション展示でも4階展示室で数点は常にかかっているので見たことあるものも少なからずでしたが、
特に戦争記録画がずらっと並べて展示されると、その迫力に圧倒されます。
しかし、興味を引かれたのは、戦場を描いたものより、むしろ大陸・満州を題材したものや、銃後を題材としたものでした。
図らずしも両義的になることが多いというだけでなく、そちらの方が同時代の劇映画との共通点が多かったからでしょうか。
約一ヶ月前に国立映画アーカイブの
『返還映画コレクション (3) ――第二次・劇映画篇』で
戦中のプロパガンダ色濃い劇映画 [鑑賞メモ 1, 2] を観ていたこともあり、それらとの相違が意識されました。
自分の観ている映画に偏りはありますし、
確かに『上海陸戦隊』 (東宝, 1939) や『ハワイ・マレー沖海戦』 (東宝, 1942) のような戦争映画はありますが、
劇映画ではむしろ銃後を舞台としたものが主のように思います。
それも、映画では戦場の再現が難しく、また、戦争記録についてはニュース映画があったということが大きいのかもしれません。
今回展示された戦争画の多くは戦後GHQに没収され接収され1966-1967年に返還された「返還絵画」でもあり、
作品主題の重点に相違はあれど、企画としては国立映画アーカイブの上映企画『返還映画コレクション』と響きあうものを感じました。
戦争画の網羅的かつ体系的な構成もあってか戦後の3章は若干蛇足にも感じられてしまったのですが、
そんな中で目を引いたのは、河原 温『死仮面』(1956)。
1950年代の『浴室』シリーズ (1953-1954) のような作風は知っていましたが、
ここまで風刺色が強い作品もあったことを知ることができました。
コレクション展示4階の通常は戦争画もかかっているギャラリーは1940年の小特集でした。 もちろん戦争画は無く、企画展とは対照的な時局と距離を置いた 松本 竣介 などの作品の小特集のよう。 また、日本画ギャラリーにも戦前・戦中の戦争を主題とした作品が展示されていました。
コレクションによる小企画を展示をする2Fギャラリー4は 『新収蔵&特別公開|コレクションにみる日韓』。 今年収集した2作品と合わせて、韓国・朝鮮に関する主題の作品や、韓国の作家の作品の小特集をしていました。
秋の彼岸入りした週末土曜9月20日は墓参や実家方面の野暮用の合間に京橋へ。 会期末が迫ってしまったこの展覧会を観てきました。
『彼女たちのアボリジナル・アート オーストラリア現代美術』 @ アーティゾン美術館 (美術展)
大航海時代以降の植民以前のオーストラリアの先住民アボリジナル・ピープル (Aboriginal people) をバックグラウンドに持つ女性作家7名、1グループを集めての展覧会です。
アボリジナル・ピープル自体の多様性もありますが、
植民地化以降の先住民が置かれた問題をコンセプチャルなインスタレーションや作品として仕上げる現代美術本流の作風の作家 (Judy Watson, Yhonnie Scarce, Julie Gough, Maree Clarke) はもちろん、
むしろ、伝統的な工芸の技法をベースに現代的な表現にアプローチする現代工芸的な作家 (Noŋgirrŋa MARAWILI [Nonggirnga MARAWILI])や、
アウトサイダー・アートやコミュニティ・アートの文脈に近いもの (Tjanpi Desert Weaver, Emily Kame Kngwarreye, Mirdidingkingathi Juwarnda Sally Gabori) など、
様々な制作の背景があるという点を、興味深く観ました。
蛍光するウランガラスの吹きガラスを使った Yhonnie Scarce の洗練されたインスタレーションなど楽しみましたが、
最も印象に残ったのは、オーストラリア中西部の砂漠のアボリジナル・ピープルのコミュニティに属するアーティスト・コレクティブ Tjanpi Desert Weavers による一連のパペットアニメーション。
砂漠の草から作った糸を編んで作った人形の造形はもちろん、
神話や説話に至らないような先住民の間に残されているエピソードの語りとそれに合わせての映像の、
教訓もしくはオチが抜け落ちたかのような力の抜け具合を楽しみました。
9月中旬は沖縄へ3泊の出張。琉球大学へ行ったので、合間に琉球大学博物館 風樹館へ。 琉球・沖縄の文化というと芸能 (音楽、舞踊)、工芸 (染織物、焼物など) や料理などに目が行きがちですが、 藁算というものもあったのか、と。
帰りはフライトまでの合間の時間を使って、久しぶりに 沖縄県立博物館・美術館 (おきみゅー)。 博物館は貸館展覧会だったのでパス。 美術館もコレクション展だけでしたが、小一時間程度しかなかったので、さっと観るにはちょうど良かったでしょうか。 沖縄の美術における現代美術的な表現の契機が、戦後 (1945年) でも本土復帰 (1972年) でもなく、沖縄県立芸術大学の開学 (1986年) にあったということが、興味深くありました。