10月1日 晴れ

  早くも10月である。昨日から「フットルース」が開幕した訳だが、いまだ掲示板などに
も情報があがっていないので、舞台のようす、裕ちゃんの状況がよくわからない。ジャニ
系板のとこへいけばあったかもしれないが、どうせ坂本のことしか書いてないだろうし、
そこまでするのはさすがに憚られるので、もう少し様子をみることに。

  古今亭志ん朝師匠が亡くなった。最近、体調が優れないとの噂は聴いていたが、まさか
肝臓癌だとは。本当にことばもない。
  マスコミ報道では、曰く「落語界の至宝逝く」とか、「次代の東京落語を背負うだろ
うに」などの悼む声を伝えていた。実際そのとおりだと思う。
  私にとって志ん朝さんは数ある噺家さんのなかで、ある意味特別な存在だ。というのも
実際に生の落語をきいたのがこの志ん朝師匠だったからに他ならない。

  初めて落語というものに接したのは小学 2年生のころ。21世紀の今も延々と放送の続く
怪物番組「笑点」を見てからである。今から考えてみると10分かそこらの短い時間で落語
のおもしろい所が本当に判ろうはずはないのだが、逆に「面白さ」のエッセンスが詰め込
まれた形で演じられることになり、小学生にもとっつき易かったのではないかとも思う。
そういう意味で「笑点」という番組は寄席芸能への入り口として今も必要にして、欠くべ
からざる存在とはいえないか。
  閑話休題。初めて「笑点」で聴いた噺が何だったかはさすがに記憶にはない。しかし、
その後、正月に放送される寄席番組は欠かさず見て、図書館では小学生向けにまとめた
落語の本なども読むようになった。そのうち自分自身でも学校の「お楽しみ会」友達の誕
生会等で一席見よう見まねでぶつようにもなった。終いには将来は「落語家になる」とま
で思うようになってもいた。
  そんな私ではあったが、生の落語というものには、志ん朝師匠の噺をみるまで接するこ
とはなかった。というのも、父親がなぜだか落語という演芸が嫌いであったことに原因す
る。それはなぜだかは未だに知らないが、ともかく、小学生が一人で寄席通いをするだけ
のお金があるわけもなく、仕方なくテレビ、ラジオで渇を癒すのみであった。
  その後も、それが当たり前のようになってしまい、寄席にいってまで噺をきこう、とい
う気にもならず、噺家になろう、という気持ちも次第になくなっていた。それでも、高校
のときは落語研究会に所属し文化祭でも、拙いながらも、一席設けてはいた。普通の人よ
り少し落語が好きといったレベルではあったのだ。

  社会人になっても落語番組は相も変わらず視聴していたが、寄席で生の落語に接する事
は未だになかった。ところが、バブル全盛のころの私の会社の創立記念日のこと。記念行
事として「寄席」をよみうりホールでやるとのこと。まったく今からは考えられないこと
だが、当時はなんでもありだった。私は当然ただで待望の「寄席」を経験できるわけで、
大歓迎。その時のトリを務めたのが、志ん朝師匠だったというわけだ。他の出演者は堺す
すむとマジックの松旭斎すみえさんだったと記憶している。
  演目はたしか「野ざらし」だった。その一挙一動が初めて生でみる落語ということを差
し引いても、その感動は一言では言い表せなかった。とにかく、志ん朝師匠の噺をじっく
り(しかもロハ(^^;; )聞いている間は本当に至福の時間であった。長年の夢がかなった、
というとかなり大袈裟であるが、当時はそのように思ったものである。

  その後、寄席を見る機会は残念ながら、なかったというか、自分で積極的に作ってこな
かった。特に理由があるわけではないが、テレビ等でみる癖がついているためなのかもし
れない。トンデモ落語の会など通常の定席でない寄席の会には時折いくことはあるものの
志ん朝師匠を再度寄席でみることはないままになってしまった。まったくしようがない私
である…。

心から、ご冥福をお祈りします。

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