自己の恐怖を知れ。


 冷戦後の世界は、自由民主主義という普遍的原理の勝利とされているが、自由民主主義というものについて、改めて問い直すという行為がなければ、結局、なんとなく「現状」を受け入れていく、というムード以外のなにものをももたらさないだろう。そして、その「現状」というものが、冷戦という歴史の一つの特殊な状況下における、日本のあり方であったことを考えれば、歴史的現実の変化と「現状」の食い違いは徐々に拡大して、いずれはのっぴきならぬ「現実」が「現状」という観念を打ち砕くことになるのが、歴史の必然というものであろう。


 人間にとって、世界とはまず観念である。観念が打ち砕かれるのは、予期せぬ現実との遭遇であり、その「打破経験」を通じて人間は、観念を空想するのではなくて、世界について真に考え、認識するようになることは、別にホッブズの言葉を借りるまでもないであろう。小林秀雄は、同じことを「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点を施しては、このよを理解してこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた」と書いている。言葉は無反省に繰り返されることにより、現実を創造する力を失い、むしろ、現実を覆い隠す観念を創造する道具になる。
 自由民主主義と言うが、自由主義と民主主義は相対立する観念でもある。何故ならば、自由主義は、自由という「個人」の「権利」にこだわる価値観であるが、民主主義は、字義通り、民主という「全体」で決したこと(広く「法」と言っても良い)に従う、共同体的価値観だからである。そこには大きな開きがある。その間をうまくつなごうとして、「自由は必然性の認識である」とか、「権利」と「法」の優越関係について哲学者は考えてきたのだ。ただ、自由民主主義と言っても両者は対置されるものではなくて、自由主義の精神がなければ、民主主義は死んでしまう。自由主義の前提とする、この世に生まれた、ただ一回限りの個性的な私という自己認識がなければ、どのような観念も思想も不可能なのである。現代において、観念や思想の力が弱くなっているとすれば、それは、観念や思想が古くて役に立たない、ということではなくて、私達が、一回限りの生と死、というものから目をそむけているが故に創造的な感受性を失っているからである。私達は、大量なモノに取り囲まれて、死から守られていると思い、物神化した人間関係の中で、不死を得たように錯覚していないか。そこでは、死は失敗であり、生の不安は間違いであってはならないものである。死は病と同一視されていて、人間の権利として意識されないから医師の告知問題と言うような、およそ現代的すぎる問題が生じるのである。死について個人は知る権利を持つのである。
 自由の観念は、本来、宗教的異端の意識として生まれた。それは、「自己」への疑いである。今、ここにある、こう信じている「自己」の再生の始源的力を得ようとする、始原の精神とも言うべき力である。そして、そういう精神は、「自己」の消滅という「死」によって区切られているからこそ、個性的な時空における「自己」という個体の認識が可能なのである。


 比叡山の、千日回峰行という修行を行った僧が、深夜の比叡山で一番恐ろしいものは、野獣や幽霊などではなくて、生きた人間であると告白していたが、生きた人間だけが唯一の人間的現実であり、自己への究極の恐怖であることを認識することこそ、政治意識の始まりなのである。
 人間と人間のかかわり合い方は様々であろう、商業上の利害、愛情、尊敬・・・・しかし、その根本的なものは、他者への恐怖と、自己自身の裡なる自然への恐怖であることを指摘したことによって、ホッブズは永遠に近代政治学の祖である。いま、私達は、こうした恐怖的存在としての自己という、自己への深い疑いを捨ててしまっている。私達は、社会に飼い慣らされ、社会の枠にはめられてその場その場での役割を果たす、バラバラに分裂した機能の寄せ集めとなっている。自分が主人であること、自己の死と世界の死は対置すべきものであること、自分は世界に対して挑戦する一個の野獣であること、を忘れている。恋人と深夜別途で寝ているときに、一瞬、この人となぜこんなにも無防備なままでいられるのか、という恐怖におそわれたことはないだろうか。また、セックスの最中に、自分が狂暴な支配者たりうるという恐怖にとらわれたことはないか。こうした恐怖を知らなければ、全ての観念・思想はただの道具に過ぎない。道具をいくらうまく使いこなしても、全体としての世界は啓示されない。


 まず、自己を疑い、自己の信じるものを疑い、考えている自分などというものを疑い、朝日と共に、見知らぬ他者と遭遇する恐怖から出発しなければ、自由民主主義などというものは、ただの便宜的言葉にすぎないのだ。命と引き換えであるからこそ、言葉は思想たりうるのである。


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