「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

と村上春樹がこの世の第一声で述べてるように、完璧な批評も存在しないもんです。

答えがカンタンなのは、夕日のあとに朝日が来るよーなもの。
待てるかどーかが問題だって、来るものは来るもんだ。



プロフェッショナルというものがどれくらいのものか、それぞれの作品についてこれまでの読みの水準を「抜いて」いるか、と自ら述べる『イエローページ』も例外ではないんだから、というのはリンゴが落ちるようなもん。

『イエローページ』は春樹ワールドを形づくる8つの代表作に、31名の20代のメンバーと加藤典洋氏が正面から挑んだ批評本。加藤氏はアンカーとしてまとめるだけでも1年の時間をかけた、「これまで村上春樹について考えてきたすべての知見をそそぎこんでいる」力作。詳細な分析から物語のプロットそれぞれの照応、連関、そしてそれだけでも読み応えのある24コのコラム、時系列関係のタイムテーブルや概念図。

村上春樹批評・分析の最高峰であることは間違いないです。

しかし、出来上がりのよさのホントの理由は井戸のように深い批評力でも、たっぷりかけた時間でもない、というのが羊的理解かな。間違いなく全員が村上ファンで、自分で膨れるパンのように、熱をだして膨れて、香りをたてたってな感じがするものね。

対象を肯定しなければ、何もわからないんだから。

死でさえ、生のなかにあるのは、春樹ワールドだけのことじゃない。それは現実なの。

批評なんて、それに気がついていない読者のスキにつけ込んだマフィアのセリフみたいなもん。

でも、マフィアにだって世界があるんですよね。マフィア的世界。
ゴッドファーザーだってパスタを食べるし、モカのコーヒーが好きだったり、愛人はマスカロポーネチーズでティラミスをつくるのが得意だったりするかもしれない。ボスは、きっと、娘の結婚が気になったりするんだよ。



「オ、オレたちがもとめるのは、へ、平和だ」
「マシンガンじゃない。ご、誤解しないでくれ」



そんなわけで『さようなら、ギャングたち』は出来すぎた名作なのだというウワサはホントではないのかは、決定不能。ついでに意味不明でも可。糸ミミズ的意味論。

もちろん、出来すぎると理解されない、支持されない、友だちができないというリアリズムは現実です。当たり前かあ。

そーいったものは、この世に2つ。ただし日本だけ。
それは天皇とドーナツの穴だっていうのが羊的宇宙にもある意見
の一つです。

コホン

アンタは天皇の友だちや、ドーナツの親友に会ったことがありますかあ?

で、春樹ワールドの人気は、リアルなとこ、読み応えのあるリアルなレポートであること。価値観にとってのリアルとはそーゆー問題であって、これはカントにおけるリアルでもあるよね。現実そのものには触れ得ない時空構造は、感性(時空構造の受容システム)をとおしてリアルな認識として頭脳と身体のなかに再構築され、その反映の仕様を左右するのが価値観そのものであることは、すでに明らかだし。



そして、水準以上というゴールにトライしようとした『イエローページ』にも、やすやすとオフサイドをかけてあげるのがドーナツ的宇宙の常識なんだよ。知ってたあ?

ボクらの役目はただ一つ。『イエローページ』が語れなかったことを探すこと。
ポイントは、それが“語らない”ではなく“語れない”ことである、とゆーことが、春樹ワールドの掟なんだ、と羊は思ってるらしい。

どうして“語れない”かの理由は、宮台真司氏の加藤典洋氏への批評がいちばんわかりやすいかもしれないなあ。
すくなくとも、理解へのキッカケにはなるでしょー。
ニキビにとってのピーナツや、鼻血にとってのチョコレートみたいなもんで。

グフッ



もとい

ではでは・・・

何年ぶりかで、『1973年のピンボール』を読んでみます。

はじめて読んだ時に、はじめてチューイングガムを膨らませて、ぷしゅんっと自分の顔に貼りつけたよーにギミックだったのは、トロツキーとトナカイのエピソード。

しかも、誰もこのことに関してコメントできないことのリアル。
まるで、トナカイは雪原じゃなくて砂漠にいるみたいで。
砂漠からの脱出を手伝うのも羊の役目なんだ、って羊はいうよ。

きっと

で、でも。
ひ、ひ、羊とラクダは、と、友だちさ。

だって