2012年の次の年が始まってしまった。

2013年が始まった。2013年は、当然のことだが2012年の次の年である。だから、2012年の多くを引き継いでいる。ここでは我々が引き継いでしまったいくつかの事柄について述べることにする。

1. 衆議院議員選挙で勝利した自民党の公約について

2012年末の衆議院議員選挙において自由民主党が圧勝した。自民党の政策集には数多くの「政策」が列挙されている。例えば次の冊子を参照(http://jimin.ncss.nifty.com/pdf/jimin_hanten1204.pdf )。これには、看過できない点が何カ所かある。以下に気付いた点を列挙した。

1.1. 「『国土強靱化基本法』の制定による事前防災の制度化を実現します」とあるが、ここに列挙されている内容だけを見ても、過大な政府支出を招くおそれがある。税収と均衡した支出にどのようにして抑えることが可能なのか、不明である。公共事業への過大な投資になれば、債務のさらなる増加を招来するだけでなく、税金の偏った恣意的な運用につながり、産業の健全な自発的成長を阻害してしまう可能性がある。また、財政破綻につながればより深刻な経済状況を招く可能性がある。

1.2.「『 物価目標(2 %)』を設定」とあるが、この物価上昇率の目標が安定的に達成され、その上昇率に安定させる方法が存在するのか? どのようにして「大胆な金融緩和」を景気循環のサイクルにおいて最適なタイミングで、最適な規模で行うことができるのか? これらの点が不明である。むしろ恣意的な金融緩和が経済を乱調させ、さらに財政を悪化させ、あるいはインフレや財政破綻等の深刻な弊害を引き起こす可能性があるのではないか。

1.3. 一方では、「大胆な規制緩和」といい、他方で「戦略分野ごとに企業の活動のしやすさを世界最先端にする」というが、それが恣意的な規制緩和の選別に終わるなら、自由市場と自由貿易にとってむしろ有害とはならないか。戦略分野に選ばれない産業分野、特に伝統的な産業分野における非効率や「企業の活動の」しにくさを温存する事態を招かないか。

1.4. 「『聖域なき関税撤廃』を前提にする限り、TPP交渉参加に反対します」とある。たしかに、個別通商交渉の細目については国益を守る観点から慎重に進める必要があるが、一般論としては、関税撤廃を目指す以上、できる限り「聖域」などという例外分野を設けない方が、参加国全体にとって貿易から得られる効果と経済効率は増大するはずではないか。自民党は関税撤廃の必要性とその期待される経済効果を理解しているのか、はなはだ疑問だ。同様に、自民党が本当に自由貿易と自由市場を尊重しようとしているのかについても、疑念が生じる。

また「聖域」を設けなくても、別の「補助金」などの手段で特定産業分野に税金を恣意的に分配したりすれば、同じく自由市場に対する重大な介入となる。そのような不合理な政策は、日本企業の外国市場への参入にあたって同様の参入障壁や現地企業への優遇策を相手国が行う根拠を与え、日本企業の国際的な活動に悪影響を与えはしないか。また、それが外国からの参入障壁とみなされ、外国からの投資に悪影響を与えはしないか。 だから、交渉参加国全体で「聖域」を増やしてしまうような交渉は無意味であり、何ら経済的な利点がないだろう。

1.5. 原子力発電所については「『安全第一』の原則のもと」とあるが、民主党政権以前より自民党が推進してきた原子力発電所もまた、『安全第一』を原則としていたのではなかったのか。しかしながら、今回の地震と津波により、原子力発電所の一つが損壊し、放射性物質が日本列島全域を含む広大な範囲に飛散し、地元の住宅や宅地、山林や農地には重大な汚染をもたらし、作業員や住民の一部は被爆して、今後健康に対する不安は増大するばかりである。また、農業、漁業、林業その他産業分野も大きな損害を被った。海外からの観光客の減少にもつながった。このような状況のなかで、日本の国土と日本人の健康を最優先で考えるならば、研究用途以外の原子力発電所の新規設置や既存発電所の再稼働については、従来の不完全な『安全第一』の原則に依拠することなく、いつどこで大地震が発生しても不思議ではない日本の立地条件を考慮して、原子力発電からの段階的な撤退を決断すべきであろう。

「日本を取り戻す」というスローガンを掲げる自民党は、日本を代表する保守政党 の一つのはずだ。稲作を行えなくしてしまう土壌汚染を引き起こした原子力発電を継続することが、日本の古来よりの文化と相容れないということが、なぜ理解できないのか。不思議でならない。

1.6. 自民党は憲法改正を公約に掲げている。また、既に『日本国憲法改正草案』 を発表している。しかし、この憲法改正草案については、日本国民の個人の自由を制約してしまう可能性があることが危惧される。自民党は保守政党として、憲法改正草案を、徹底的に自由主義と民主主義の原則に立ち帰って書き直すべきと考える。以下に、自民党の憲法改正草案の主な問題点について述べる。

1.6.1. 前文で、現憲法が「政府の行為によって再び戦争の惨禍がおこることのないやうにすることを決意し」として、平和主義の原則に歴史的な裏付けを与えている。それに対して自民党の憲法改正草案は「先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し」と書くだけで、平和主義の原則の歴史的な背景を述べていない。これでは、あたかも戦争の惨禍は「政府の行為」によって起こされたものではなく、あたかも天災と同様に自然発生的であったことになってしまう。先の大戦の責任の所在がどこにあるか、という別の重要な課題とは独立に、それについての考え方の違いを超えて、「政府の行為」による戦争を起こさないという 決意は、第二次世界大戦において歴史上例を見ない惨禍を体験した日本国民にとっては、なしでは済まされなかったはずだ。その原因となった戦争の大惨禍を、あたかも天災と同様に扱えば、日本国民の歴史的な意思を軽視し欺くことになろう。また、憲法改正草案が「日本国は長い歴史と固有の文化を持ち」と書くのは正しいが、国民主権が確立されたのはようやく戦後になってからである。国民主権もまた、戦後の国民の意思であることはいうまでもない。

1.6.2. 自民党の憲法改正草案の前文で、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」とある。ここには、国家と国民との関係を曖昧にし、同一化しようとする意図が読み取れるが、それは問題だ。憲法改正草案がいうように「日本国民が、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って」いけるためには、日本国民がそのように行動するだけでなく、代表者によって運営される国家もまた、それが可能となるべく行動しなければならないはずである。国家は自衛権、徴税権や警察権力を行使できるなどの強制力を国民に対して有しているが、それら権力もまた、基本的人権と憲法から派生する諸規範を尊重することが求められる。このことは現憲法の前文が「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者が行使し、その福利は国民がこれを享受する」ことが「人類普遍の原理」であるとしていることから説明される。現憲法前文のいう「自由のもたらす恵沢を確保」するのは、日本国民であるが、それは国会における代表者を通じて行われる。現憲法はそのことを「人類普遍の原理」とする考え方を基盤に書かれている。

自民党の憲法改正草案が列挙する種々の目的や効果、例えば「自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる」や「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため」等々、これらが重要な目的でないわけではない。しかし、これらすべては、「人類普遍の原理」を尊重する社会においてはじめて達成できると、少なくとも現憲法は考えている。なぜ、現憲法はそんな考えに依拠できるのか? それは、現憲法制定までの人間の社会の歴史において、現実社会の多大な困難や障壁を経て、その 「人類普遍の原理」を人類が共通に必要とする倫理的な価値であることを 発見、認識してきたからであり、そのことは例えば合衆国憲法その他の歴史上の憲法においても示されてきた知見である。そして、「人類普遍の原理」である以上、それは現憲法とは独立して存在しているのであり、従って現憲法の変更によっては何ら影響されない。

「人類普遍の原理」について憲法が述べなければ、憲法で書かれている事柄は、憲法を変更することによって、容易に変更されたり削除されてしまう。現憲法は、「人類普遍の原理」を外部に参照することによって、その危険を防いでいる。自民党の憲法改正草案の前文は、上に述べた現憲法前文の重要な内容を完全に無視している。

自民党の憲法改正草案に従えば、国民の代表者が「自由のもたらす恵沢」を国民に対して確保する責務を負うことなど、何ら顧慮するに値しなくなるのではないか。また、憲法を改正することで国家が何でも行えるようにできる危険がある。自民党の憲法改正草案では、国家と政府の行為を抑止する内容は周到に削除されている。これは、国民と国家との関係において、国家の優越、つまり国家主義=個人の全体への服従を是認する立場を明確にしたものと言える。自民党員が自由主義者ならば、なぜこのような全体主義的、集産主義的な傾向を憲法改正草案に盛り込もうとするのか。理解できないし、言語道断の改悪である。

(現憲法前文にある、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」について、安倍首相は、「自分たちが、専制と隷従、圧迫と偏狭をなくそうと考えているんじゃないんですよ。国際社会がそう思っているから、そうほめてもらおうと、いじましいんですよ、みっともない憲法ですよ。はっきり言って。日本人が作った憲法じゃないんですから」http://www.google.co.jp/landing/senkyo2012/hanasou.html と痛烈に批判している。自主憲法制定を目指す自民党が現憲法を「日本人が作った憲法じゃない」と批判すること自体は至極当然のことだろう。しかし、ここで安倍首相が述べている前文に対する批判は妥当であろうか。残念ながら、この安倍首相の声高な非難を聞くと、歴史的な視点で文章を正確に読み解く彼の能力に疑問を抱かさせるのである。まず、現憲法の前文の該当部分を引用する。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」

最初の文の「決意した」とあるのは、敗戦後の時点での日本国民の決意以外の何物でもない。この効力を現在にまで引き延ばして解釈できるためには、「保持しようと努める」と書く必要がある。しかし、そうは書かれていない。だから、決意は一度だけなされたのだ。敗戦時にだ。

これは敗戦後、旧敵国を含む諸外国に対して、その中には「平和を愛する諸国民」が少なからず存在するであろうことを確信し、その「公正と信義」を得ることによって、日本国民は、解体させられたり、分断させられたり、自滅したりするのではなく、やはり日本国民として生きていく道を選択した、と読める。

敗戦後のこの決意のどこが、「いじましい」のか。どこが「みっともない」のか。安倍首相の非難は誤った解釈に基づいていると言わざるをえない。

「決意した」という言葉の意味を完全に無視するから、歴史的な意味が理解できないのだ。また、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」になぜ日本が含まれないと解釈できるのか。そうではなかろう。最初の文の決意に基づけば、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」の中の一国として働くことで、その結果として名誉ある地位を占められるよう希望しているのである。国際社会からの孤立を決意したのではないのだから。

現憲法の文章は前文も含め、安倍首相の罵倒とはまったく正反対に、極めて慎重に言葉が選ばれていると私は考える。先の文章でも「決意した」としなければ、歴史的な意味が伝わらず誤解をさらに生むことになっただろう。「日本人が作った憲法じゃない」と安倍氏は言うが、現憲法案策定にあたっては当時の幣原政権と内閣法制局官僚の貢献があったことを忘れるべきではない。しかし、GHQ草案を基本としている点で、安倍氏が「日本人が作った憲法じゃない」と言うこと自体は間違いではない。同時に、敗戦という歴史的事実を受け容れ、その上に新しい日本の憲法を構想したこと自体は必ずしも否定されるべきことではない。そのことを肯定的に解釈する立場もありうるはずだ。

もし、GHQがただ敗戦国を政治的に貶め、抑圧し続け、敗戦国民を「いじましい」状況に置くことだけを企図したのであれば、そもそも現憲法草案のプロセスは決裂していたであろうし、現憲法が戦後永く受け容れられることもなかったに違いない。たしかに敗戦国日本は武装解除され、新憲法で武力行使を禁じられたが、日本の再軍備と軍事同盟の強化を一貫して主張してきたのは、歴代自民党政権よりはむしろ米国なのであった。また、自民党の歴代政権の多くもまた、自主憲法制定を主張しながら、必ずしも憲法改正に動こうとはしなかった。そのことは、現実世界の政治の複雑さの一断片に過ぎないが、そのことが従来、憲法についての考察を政党や国民に躊躇させ、安易に「改憲」か「護憲」かのプロパガンダの応酬に終始することで、時間をただ無駄に費やしてきた、と保守政治家が自戒とともに批判するのであれば、そのことはおそらく正しいに違いない。その意味で、冷戦後二十年近く経った現在、改憲の是非を議論すること自体は、間違いではないと考える。

他方で、自民党が、現憲法はGHQが作ったから改憲すべきだというのであれば、なぜ自民党の改正草案は、現憲法の構成と内容と対照するようになって示されているのか。なぜ、文章の修正や改廃ではなく、まったく新しく起草したもので置き換えようとしないのか。自主憲法制定を主張するのであれば、当然そうあるべきである。その場合には、新しい憲法案は、世界史における日本国民の現時点における立場を示しその意思を提示するだけでなく、自由や基本的人権という普遍的な倫理的価値と、自民党が重視する日本固有の伝統や文化とを結びつけ、その独自性と普遍性とを統一的に理解できる内容を日本国民と国際社会に示すものでなければならない。

「公益及び公の秩序に反してはならない 」などという国家と政府に都合の良い文句を現憲法の文章に付け加えるなどをしただけで は、きわめて杜撰であり、真面目に新しい憲法の在り方を考えようとする国民を馬鹿にしている。もっと内容を真剣に深く考えてから憲法改正草案を公表すべきだったのではないか。

また、改憲が必要と考える政治家が特に自民党などの保守政党に多いことは周知のことである。しかし、憲法を擁護する義務を負う公務員である国会議員、それも首相自らが、憲法制定の際の先達の努力をも無視するように現憲法を罵倒する光景を、主権者である国民はただ唖然として黙って見ているしかないのであろうか? 現憲法は、GHQによって草案が作られたとはいえ、ある意味では敗戦時の日本の政権との合作でもある。そして敗戦から今日にいたるまで、日本の憲法として維持されてきた。その憲法を一方で侮辱し罵倒しつつ、自らが提示する憲法改正草案は、現憲法の文章に手を加えた改竄で良しとするのか? 自国の最高法規である憲法について述べる場合には、最低限の礼節と品位を保って語るべきであろう。そのことは、現憲法に対して批判的な考えを持つこと、改憲を主張することとは別次元であって、独立して公務員に要求されているはずだ。国民の自己決定権の侵害の可能性に踏み込んでまで、自民党は従来「国旗や国歌を敬え」と主張してきたのではなかったか。自国の憲法に同様の敬意を払わないとは、一体どういうことか。

1.6.3. 自民党の憲法改正草案では、第十二条で、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」とある。この文章は単独では意味不明である。一般的に、自由及び権利に対して、ではどんな責任や義務が伴うというのか。一般的には記述不能だ。そもそも、自由及び権利という概念に対して、責任や義務を対立物あるいは補完物として認識することに合理性があるのだろうか? はなはだ疑問である。もし、一般的に、個人に対して自由も権利も与えられていなければ、どんな責任や義務に意味がありうるというのか? そこにおける責任や義務というのは、奴隷的従属を甘受することと同じではないか。「公益や公の秩序」が何らかの責任や義務を要求する場合でも、その前提として各個人に自由と基本的な権利が与えられていなければ、そのような 「公益や公の秩序」 への奉仕もまた、専制が求める命令に対する服従と同じにしかならない。専制が要求する「公益や公の秩序」にまで服従しなければならないとすれば、専制的な社会を許容してしまうだけでなく、それを温存、強化することにつながる。むしろ、たとえ「公益や公の秩序」 に反してでも、専制的命令に対しては不服従でなければならず、万一そのような命令を発する政体が出現した場合には、そのような政体を国民は打倒する義務と権利を有すると理解すべきである(歴史的にこの考え方は、米国の独立宣言にはっきりと示されている)。

もちろんそのような専制と国民の対峙という最悪の事態は避けなければならない。しかし、自民党の憲法改正草案は、そのような専制を許容し生み出す土壌を形成しかねない。自民党の憲法改正草案に欠落しているのは、自由と基本的人権の優越性の認識である。現憲法がいうように「公共の福祉」のために権利の利用が求められ、しばしば権利と「公共の福祉」との均衡が議論となる場合があるのは自然なことかもしれない。しかし、だからといって「公益や公の秩序」が、自由と基本的人権と対等の倫理的な価値を持ってはじめから要求されるべきではないのである。なぜなら、現憲法が指向する民主的な社会においては、自由と基本的人権のないところでは「公益」も「公の秩序」も意味をなさないからである。 個別特殊の要件を無視した一般論としては、自由を制約することができるのは、他者の自由を制約するために自由が行使される場合だけである。そして、この考え方が自由主義である。自民党は本当に自由主義政党なのか?

1.6.4. 自民党の憲法改正草案では、憲法の改正には、「両議員のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決し」とある。現憲法の「三分の二以上」から引き下げることで、憲法改正を容易にする意図が見える。自民党政権は、この第九十六条を先に改正し、必要議員数を過半数にした上で、憲法の他の条項の変更を企図しているらしい。しかし、上で述べた点を考慮すると、個人の自由と基本的人権という重要な点で危惧がある現時点では、現時点以上に憲法改正を容易にすることには反対せざるをえない。

1.6.5. 自民党の憲法改正草案では、現憲法の第十章「最高法規」中の第九十七条が削除されている。これは、暴挙と言わざるをえまい。第九十七条の「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」という文章がすべて削除されている。自民党の憲法改正草案起草者による第九十七条の削除は何を意味しているか。それは、最高法規としての憲法が、憲法外の独立して不可侵の倫理的価値として尊重すべき基本的人権を参照しているという事実の記述を、憲法から抹消したのである。このように外部の不可侵的価値から切断された「最高法規」としての憲法は、その「改正」を容易にする変更と相互に作用して、時の政府が何でも行うことを可能にするだろう。基本的人権をも重要な価値として必ずしも尊重しなくても良い、つまり「公益や公の秩序」との均衡においてのみ、その程度においてのみ尊重すれば足りる、そのように現憲法の本質が歪曲され、改竄され、あるいは完全に骨抜きにされてしまいかねない。憲法が憲法の外側の倫理的な価値の体系から切り離されて、その内に閉じて自己完結するとき、国民の権利と自由は危険にさらされる。よって、断固として憲法改正草案による第九十七条の削除には反対せざるをえない。

備考 この点に関連して、いわゆる「天賦人権説」についてネットワーク上で、池田信夫氏や自民党議員(あるいは支持者?)が「生まれながらに権利なんかもってるわけがないだろ」とか「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう」(http://togetter.com/li/419114#c862333 | http://togetter.com/li/420062)などと議論をしているようだが、笑止千万、馬鹿げた議論としか言えない。歴史的に、不条理に自由と権利が蹂躙される状況が存在してきたことを誰も否定しないし、否定できるわけがない。現在でも多くの人々が専制的な体制下で隷従を強いられ、あるいは不当な弾圧や徴発を受けている。それが現実であることは誰も否定できない。「天賦人権説」あるいは自然権思想は、そのような現実から始めるのではなく、概念的な仮想世界から始める。政治的な特権の存在しない場合には、人間が合理的な判断をする限り、他者の権利を蹂躙する必然性はない、と考える。現実社会において、どの程度権利の蹂躙を避けることができるかは、時代や社会環境によっても異なる。しかし、近代的な民主主義国家が成立してから以後、国家は、他者の権利の暴力的な蹂躙をできるだけ回避できる諸条件を整備してきた。つまり、国家は国民に権利を完全な形で与えられるわけではないが、個人がその権利の獲得と保持に必要とする諸条件を整備する役割を果たしてきた。もちろん、国家がどれだけこの環境整備に成功するかもまた、時代や環境に左右されて千差万別である。他方で、国家が逆に専制的に国民の権利を抑圧する方向で動く場合も多い。したがって、「天賦人権説」も自然権思想も、国家から国民が権利を与えられることを意味しているわけではまったくない。「天賦」が宗教的に見えるなら、天は、人間の観念が作りだしたものと言い替えることもできる。人間の権利に関する最も単純で合理的な最適化モデルを想定するにすぎないのである。したがって、「天賦人権説」と書いてあるのを読んで嬉々として「生まれながらに権利なんかもってるわけがないだろ」などと反論してしまう池田信夫氏は論点相違の誤謬を犯している。論点が違う。的外れ。ナンセンスである。また、1.6.5.で述べたように、自由や権利と義務や責任は対立概念ではない。「義務は果たさなくていいと思ってしまうような 天賦人権説 」などはじめから存在しないだけでなく、「義務」の概念と天賦人権説や自然権思想とはほとんど無関係に近い。あえて、1.6.5.で述べたことを繰り返すなら、個人の自由がなければ、義務も責任も存在しえないのだ。そのように考えるのが自由主義である。このことは、義務や責任の重要性を否定しているわけではない。順番が間違っていると言っているのだ。

2. さて一体これはどうしたものか。2013年以後は、どうなるのか。

現憲法に時代と不適合の部分があれば修正も必要かもしれない。自民党が主張するように、自主憲法によって置き換えるべきなのであれば、抜本的に新しい憲法を起草することも必要かもしれない。

しかし、現憲法の内容が世界史的にどのような独自性と普遍性をもっていて、それが人間社会の在り方についてどのような考え方をもっているのか、そのことを良く理解した上で、もし批判が必要な点があればそれは何か、それを何によって置き換えるべきか、そして新しい憲法草案は、現代の国際社会における価値尺度に照らしてどのような位置に日本と日本国民を位置づけるべきか、それは日本の歴史と伝統とどのように関係づけられるべきか。また、新しい憲法は、日本国民の自由と民主主義の発展にとってどのような役割を果たすか。これらの点について、論理的、合理的で分かりやすい説明を行った上で、具体的な修正案を起草すべきだろう。

さらに、改正の内容は、国民の個人の自由、基本的人権、自己決定権をより尊重し、増進する内容でなければならない。後退はありえない。自民党などの「保守政党」を自認する政党が、愛国主義や郷土愛や伝統文化の尊重を掲げて、それらの倫理的な価値を憲法と結びつけようとすることは、自然なことであろう。そのこと自体を批判するつもりはまったくない。しかし、どのような改憲を行うにせよ、それは、全体に対する個人の服従や国家に対する無批判な忠誠を個人に強いることを許容するものであってはならない。なぜなら、あくまで主権は国民に有ることが「人類普遍の原理」なのであって、それを転倒させることは絶対に許されないからである。そのように考えるのが民主主義の考え方だからである。

また、個人の自己決定権は最大限に尊重されるべきであろう。なぜなら、現在の自由主義経済もまた、個人の自由意思に基づく自由市場における交換を基礎としているからである。その意味で、保守政党は、自由主義をより日本において発展させ、成熟させる役割を担っているはずではないか。自民党を含む保守政党には、現時点の自民党の憲法改正草案よりもはるかに重厚で意味深い憲法改正草案を起草することが期待されている。しかし、残念ながら、現段階の自民党の憲法改正草案は、 上述のように深刻な問題をかかえている。

自民党の選挙公約の中の多くも、膨大な政府債務を抱えている状況から考えると信じられないような内容である。いまだに恣意的に特定産業に税金をばらまき、特定産業を保護すれば、それで経済が好転すると考えているように見える。しかし、政府にとって今必要なことは、政府が自由主義経済を制御できると考えるのは間違いであることを過去の経験から学ぶことだ。そして、政府が経済に介入すればするほど、経済に悪影響を及ぼし、経済の悪化がさらなる政府支出と債務の膨脹を繰り返す悪循環へと導くリスクを意識することだ。失敗すれば、増税も一度だけでは済まなくなり、いわば自転車操業に陥る危険性が高い。万一インフレが起これば、国民の富は一瞬にして消失してしまう。政府の恣意的な施策がそのような事態を招かないという保証はどこにもない 。財政破綻を引き起こす前に、国民の富を費やしたギャンブル癖から政府は早急に立ち直るべきだ。

2013年はこのように、何かひやりとした空気に包まれて始まってしまった。

山本太郎

2013.1.3