「古の書を論じた人は兼ねてその人の平生を論じたものである。もしその人物がよくなければ、いかに上手でも貴ばないのである」 蘇軾(p. 197, 中田勇次郎著『中国書論集』二玄社より) |
このごろの議論 |
| いわゆる文字コードに関する議論は、一部の例外はあるが、全体的には低い認識のレベルにとどまっていて、発展する気配がない。
いまだに、コードを割り当てられる文字の数さえ増えればよい、という程度の議論が通用している(たとえば、ほら貝の『電脳社会の日本語』 読者アンケート結果http://www.horagai.com/www/moji/nihon/enqden.htm中のコメントがくりかえす「だから漢字は一万字あれば十分などという珍妙な『反論』」などの言葉に、その種の議論の典型を見ることができる)。 JIS X 0208:1997からJIS X 0213:2000までのJISコードと文字セットの開発の過程は、多様な字体と字形を利用可能とする方向での進展であったことは誰も否定できない。また、多くの人々に混乱と疑念をもたらした83JISの弊害をとりのぞこうとする過程でもあった。その間に、多くの人々が、文字コードは文字コードであって、それ以上でも以下でもないという当たり前の現実を再確認した(はずだった)。現実の漢字の世界は広く多様である。それは、事実だ。だからこそ、文字コードだけを工夫しても、どうにもできない事柄が数多くあるのだ。 仮に、6万字の字体を識別できる文字セットができたとしよう(矛盾無く字体の包摂を行えるかどうかは疑わしいが)。さて、異体字も含まれるのだろうか。「高」も「はしごだか」も包摂すべきでないと主張する人が作った文字セットなら、多分、異体字も多く含まれるはずだ。さて、1年も経たない間に、異体字の追加が必要になった。どうしよう。多分追加するのだろう。この調子でどんどん文字が追加されていくのだろう。ある意味で、このような「解決策」も結構なことなのかもしれない。文字が使えるようになるのだから。 いや、まて。はたして文字が使えるようになるのだろうか。使えるとして、どのような形で使えるようになるというのか。 現実に電子的な印字・表示装置上で文字を使えるようにするには、具体的な字形を用意しなければならない。また、単に文字数が多いからといって、それが即使いやすいということにはならない。字形の品質と多様性とを確保しなければ、現実には出版・印刷では使えないのだ。なぜか。本文用の明朝体一書体あれば十分な場合もあろうが、見出しに使う必要が出た時点で破綻する。その場合には、6万字の文字セットやコードを決めたからといって、結局見出しには外字を作る必要が生じる。本文用の明朝体だけで用が足りる場合でも、その文字の品質が低ければ使えないのだ。編集者や印刷人は低品質な字形の実装を容認しないだろう。 また作家・文藝家と呼ばれる人々は、さらに高雅な趣味の持ち主だろうから、印刷書体に対する要求も格別厳しいに違いない。はたして、6万字のすべての文字について、すべての書体について、古典や現代の偉大な文学作品を印字組版するにふさわしい品格を与えられる書体メーカーがどれだけあるだろうか。たとえ、技術的に可能でも、採算がとれなければ実現されない。 文字は観念的に思考可能な対象である以前に、物理的に存在する図形なのだ。そして、文字を扱う文化は、ただ作家の言語活動や思惟の中でだけにあるのではない(その段階では、まだ文字にすらなっていないはずだ)。それは、書写であれ印刷であれ、何千年にわたる書籍の制作・出版という人間の活動の中で育まれてきた文化なのだ。 その文字のもつ文化を守り、さらに発展させようと望む者であれば、誰もが、文字がどのような品質で目に見える形として実現されるかに無神経ではありえない。わが東洋世界が書において達成した偉大な精神的価値は誰もが知るところだ。出版物が大量の印刷物として流通する現代において、その伝統は文字と組版の品質に気を配るということにつながらなければならない。 コードの数と、それに割り振られた文字の数、それだけが増えればよいのではない。文字を数だけで論じて6万とか10万とかいうのは簡単だが、文字はネジやクギと同じではない、ただたくさん作れば使えるというものではないのだ(いや、ネジでもクギでも品質が悪ければ折れて役に立たない)。 物事の一面だけをとりあげて、問題を解決したつもりになっても、それだけで文化や伝統を守ったり、育てたりすることになると思ったら大きな間違いだ。文化と伝統は広く、深い。東洋と日本の文化を崇敬し、守ろうとするのであれば、その守ろうとする対象の大きさ、偉大さを計り間違えたり、矮小化してしまっては何にもならない。 異体字の再現やまだ使えない文字について課題があることは承知している。だからといって、何でもかでもコードを割り振れば解決するというものではない。さまざまな技術的・経済的要因間のバランスを考えながら、種々の解法を組み合わせて導き出すことが必要だ。 このサイトに収録した私のコメントでは、非合理で論理的に誤った言葉がいかに多く文字コードについて流通しているかを指摘してきた。そのような傾向は、最近さらに増幅しているように見える。最近の国語審議会の試案を支持する動きの背景には、戦後の一時期に盛んだった性急な国語国字改良運動の悪い影響をとり除こうとする考えがあろう。その考え自体には基本的に賛同できる。しかし、議論のしかたが、一面的で厳密さを欠いていては、逆の悪影響が必ず起こる。合理的で現実的な議論を進めることが肝要だ。 また、文字コードに関することがらを政治的にとりあつかうことで、意見の対立に決着をつけようとする傾向も見うけられるが、この種の事柄では、勝ち負けを問題にして争うことや、ご都合主義では解決などありえない。そんなやりかたでは、物事の本質的な理解から遠ざかるばかりだ。そういったわけで、現在の状況はかなり絶望的だ。 とにかく、来年になっても、同じような、くだらない話を聞かされるのまっぴらごめんだ。 (10/29/00) |
romaji.pdf (PDF)図版と組版例があるのでPDFしかありません。
trendtact.html (HTML)
trendtact.pdf (PDF)
(PDF版準備中)
horaint.html (HTML)短いので PDF 版は作りません。
1998年6月24日に発表された国語審議会の報告についての意見をまとめました。kokugo.html (HTML)
kokugo.pdf (PDF)1998年7月6日:コメント文中の「包摂基準」が誤りであり「包摂規準」に訂正。ご指摘に感謝。
また、それらの「批判」的議論の多くには、批判対象を取り違えているなど論理上の誤謬を露呈しているものもあるようです。
そこで、それらの「批判」的議論のいくつかについて、私の個人的なコメントを以下にまとめてみました。
また、下記の二つの記事:『文字コード論争(?)の行方』と『図解:文字情報の多様性と抽象化の階層性』も参考までご一読ください。
| 文字コード論争(?)の行方
最近の文字コードに関する新聞・雑誌記事や本のタイトルは『いま日本語が危ない』のようにかなり扇情的です。論点相違、性急な一般化、逸脱した話題による幻惑等々の修辞的トリックや論理的な誤りを効果的にタイトルやコピーライティングに利用しているのかもしれません。 語り手のこのような表現手法が、論点相違を伴う不毛の「論争」を拡大再生産することにつながっていることを危惧します。 既にそのような「論争」が出版物や新聞記事等のマスメディアからネットワーク上の議論にいたる広い範囲で進行中なのだとすると、困ったものです。 では、「批判」に対する反批判もまた、そのような扇情的な語り口で対抗しなければならないのでしょうか。
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もしそうなら、私は『いま表現の自由が危ない!』と叫ぶでしょう。個々の字体や具体的字形を文字コードに割り当てて定義しようとする主張に対する、最大の懸念がその点にあると考えるからです。
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文字コードの使用は、直接的で社会的に共有され認知されている最低限の意味の情報交換を可能にします。
字体や具体字形の情報の使用は、文字コードでは捨象された具体的な表現形態に託されている付随的情報、個別的、個人的な意図や暗示などの情報交換を可能にします。
人名などについて字体の細部の違いにこだわる人がいることなどは、個人的なアイデンティティをその字体に託そうとしていると考えられます。しかし、それは個人的であって必ずしもそのような意図が常に社会的に認識されうるものばかりとは限りません。
自明なことですが、この3つのレベルの文字情報をすべて文字コードだけで表現することはできません。すなわち、異体字や書体などの識別は文字コードとは異なるレベルでの付加的情報によって伝達する必要があるということです。これらの階層間には曖昧でグレーな領域が存在することも事実ですが(例えば書体によっては表現するのが不可能あるいは不適切な字体もある)、そのことは必ずしも文字の抽象レベルの階層性を全否定するものではありません。
ところで、字体や具体字形の相違を文字コードに割り当てて表現しようとする考え(この種の考え方が昨今のJISコード批判では流行っているようですが)は、この文字情報の抽象性とその階層性を否定するものです。文字コードの抽象性を否定することは、同時に具体的な文字の形態の多様性を許容する余地を失うことを意味します。それは、多様な表現形態をとりうる文字というものを、あらかじめ決められた字体の集合だけに限定してしまうことになるでしょう。そのようなことが、標準規格などで制定されることには、表現の自由という観点から重大な危険性があると考えます。そのような誤った考え方にJISコード規格が影響されることが無いよう切に望むものです。
(追記:抽象的な情報と具体的な情報という2つの対立的な側面がお互いに働きあって、文字の社会的な伝達機能と表現の多様性を形成しているのでしょう。どちらか一方だけ考えるのでは不十分ですし、両者の差異を認めずに十把一絡に論じたのでは問題が見えなくなってしまって、生産的・現実的な問題解決への道は閉ざされてしまうでしょう)。
異なる立場の執筆者の文章を載せることでバランスをとろうとする配慮も感じられます。ただし、異なる立場による侃侃諤諤の論争を記録しているわけではありません。そのため、そのようなバランス感覚は一種のポーズのように見えます。現在の文字コードに対する批判的主張(あるいは問題提起)を一般社会に訴えて「危機」意識を喚起する意図がはっきり読み取れる本です。
典型的なJISコード・Unicode批判がどのようなものか知ることができる点で一読の価値があります。執筆者・編者のこの問題に対する熱意やその背景は理解できます。ただ、そのエネルギーがコンピュータ上での文字コードと関連技術の本質的な理解に根ざしているか。妥当な解決へといたる方向を向いているのか。というと、はなはだ疑問です。このような主張にそってJIS等の規格が今後作られることを想像するだけで、逆に心配になってきます。同書の最初の記事『いま、何が、なぜ、問われているのか』に対する私のコメントが下記のファイルです。
『電脳文化と漢字のゆくえ』(平凡社編 平凡社)
『要望書』(社団法人 日本文藝家協会)
内容の最終更新は以下のとおり。一部のリンクを除いて以後更新されていません。
(c) 1998-2000 Taro Yamamoto (updated 29 October 2000)