映画『桐嶋、部活やめるってよ』(原作=朝井リョウ、監督=吉田大八、2012年)を観た。

映画『桐嶋、部活やめるってよ』をテアトル新宿で見たのは、ATypI(国際タイポグラフィ協会)の総会が開催された香港から帰京してから三日後の2012年10月18日だった。帰国便で機内上映されていたが、成田空港に着陸するため中止されてしまった。それで観ることができなかったのが気になった。そこで、テアトル新宿で上映中であることを知って、出かけた。

いわゆるノン・リニアな時系列の構成が導入されている。同一の事象を、異なる人間の視点から描く(つまり撮影する)複数の時間軸が、前後に構成される。つまり、事象Aの配役1の視点からの観察の後に、同じ事象Aの異なる配役2の視点からの観察が続く、という具合である。

ノン・リニアな時系列といっても、Christopher Nolan監督の作品にあるような(例えば、Inceptionのような)複雑さはない。

それによって、複数の人間の意識、人間の多様性が示されていると思う。それぞれの進行が、それぞれの人間の意識の流れを反映する。

これは、この映画のような若者たちで構成される映画、つまり「青春映画」が、しばしば一面的な描写、現実の一人一人の若者の意識の多様性を隠蔽する傾向、あるいは、特定の支配的な解釈を鑑賞者にも配役にも押しつける傾向に反対しているのだ。つまり,いわゆる典型的「青春映画」にはリアリティが存在しえないことを示す。そして、この映画の配役たちもまた、個人の(あるいは現実世界にある)多様性を認識するために、この映画すべての時間を費やしてしまう。

その意味で、この映画は「メタ青春映画」と言えるかもしれない。しかしこの「メタ青春映画」は、二つの個所で、メタであることをやめて、「青春映画」へと逆戻りしているように見える。最初は、次第に高まる高揚を演出する吹奏楽部によるリヒャルト・ワーグナー作曲の歌劇『ローエングリン』「エルザの大聖堂への入場」の演奏の個所。鑑賞者は意外にも偉大な19世紀末の天才音楽家の魔術の力で、大きな高揚へと導かれる。しかし、ここに一体どのようなリアリティの発見があるのか。実は、配役にとっても鑑賞者にとっても、すでにリアリティの発見は十分なされていた段階に達しつつあったのではないか。美しい音楽の力を借りずとも。この音楽のおかげで、多くの鑑賞者は、他のどんな「青春映画」でも味わえない心の高揚を感じ、あるいは安心するに違いない。しかし、『ローエングリン』は偉大に過ぎはしないか。ワーグナー自身が吹奏楽用アレンジに適していると語った名曲を、映画内の吹奏楽クラブに演奏させるとは。音楽マニアが喜びそうな方法ではあるが、非映像的要素に他ならず、その音楽の効果は絶大なのだが、そこから生まれる精神の高揚はどこまで純粋に映画内の状況に合致しているのか。効果としては、音楽の導入が完全に成功しているがために、むしろその上手過ぎる点が、単なる技術的な上手さになってはいないか。そこに、わずかながら「メタ青春映画」を「青春映画」にスリップさせてしまう錯覚(あるいは罠)が仕掛けられていたと言えないか。墓の下のワーグナーはどう思っているだろう。

もう一つの「青春映画」的要素といえば、題名にもある「桐島」の不在だ。「桐島」が不在なことには意味がある。しかし、それを最後まで不在にし続けることは、完了しない期待の継続が意図的・恣意的に導入されるわけで、そのことが「青春映画」によくある、未来への楽観的あるいは悲観的な、結局のところ安易で軽薄な想像をたくましくすることを鑑賞者に求めはしないか。その点が心配になる。「桐島」をゾンビとリンクさせる工夫は不可能だったのだろうか。などと思案するのだ。

8-mm映画を作る少年が現れる映画といえば、『SUPER8/スーパーエイト』(監督=J. .J. Abrams)がある。映画の好きな監督は、自分の子供の頃を思い出すのか、8-mmカメラをもつ少年たちを自分の映画に導入する。16-mm映画がプロの映画であったのに対して、8-mm映画は素人のための映画で、相対的に粒子は荒く、画面は暗く、発色は悪かった。そういう限定された本来は劣った道具で、ゾンビの世界を描く。そうすることで、少年たちにとっては、使えもしない16-mmカメラで撮影する以上に、映画の中に未だ見ぬリアリティを発見することができた。狭い映画クラブの部屋の小さなスクリーンに映し出される薄暗い8-mm映像、それが広い世界に開かれた窓であった。

桐島が不在なことよりも、ゾンビ映画を撮影する少年たちを導入したことの方が、はるかにこの映画にとっては重要だ。なぜなら、若い俳優たちすべての現実世界における可能性が、ゾンビ映画のシーンの中に最高度に示されているように見えるからだ。この映画に参加した若い俳優たちは、それぞれ何らかの理由で監督や製作者によって選考されたはずだ。しかし、鑑賞者の一人として感じることは、彼らが上手な若手俳優であったり、人気のある男優・女優であったりすることはどうでもよいのだ。最後のゾンビ映画のシーンの中で、ゾンビに噛み付かれ、血みどろになることで、他のシーンにおける以上に、それぞれの男優・女優としてのリアリティを感じさせることができていること。さらに、その流血シーンにおいてはじめて、超越的で奇跡的な映像美を出現させることが一瞬ではあっても不可能でないことを示してくれたこと。そのことの意味は大きく、感謝したい。

山本太郎

2012.10.20

追記 2012.10.21 少し加筆した。

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