2013年を迎えた時点での社会の状況、あれこれ

2012年の衆議院議員選挙の結果には考えさせられる点が多々あった。そして2013年の正月、政府のありかた、あるいは国家と個人との関係について、Facebook上で興味深いやりとりをした。その議論の中で書いたことが、現時点の私の考え方をうまく要約していると思った。なので、それに加筆して以下に紹介する。

政府のありかたについて

「政府」という仕組み自体が、次のような問題点を持っていると思う。

                  1. 民主主義が機能している場合でも、政府からの成果は必ずしも常に人々のためになるわけではない。なぜなら、どんなに民主的な意思決定がなされようと、多数者を利する結果になることが避けられない。ロード・アクトン(1834-1902)の言葉で言えば、代議制民主主義は「多数者による独裁」なのである。ここに、自由意思による商品の交換を原則とする自由主義経済、個人の自律性、自己決定権を尊重する自由主義、これら二つと政府という制度との間には看過しえない根本的矛盾があることがわかる。
                  2. 政府は強制力をともなう権力を有するが、これは個人では持ち得ない特権だ。
                  3. 政府が人々の意思を代表している場合でも、政府の施策から実際に得られる便益よりも、それにかかるコストの方が大きい場合が多い。政府は税金を「消費」するが、政府それ自体は富を生みださないばかりか、非生産的で非効率になりがちだ。
                  4. 国民の富に全面的に依存しているにもかかわらず、どんな政府も、あたかも自動人形(オートマトン)のように自律的に動き、いつも自己防衛と自己膨脹に余念が無い。しかし、人々の生活、健康、福利に注意を払うかどうかは、自らの勝手次第でどうにでもなる。
                  5. その政府という自動人形は、人々の政府に対する依存心に寄生している。(つまり、国民と政府とは、相互依存関係にあるわけだ)。
                  6. 政府は、政府自らを保護し防衛しようとするだけではない。現在の体制を成立させている制度、仕組み、社会階層をも固定化させることに腐心し、そのための法制度や行政手続きの体系を確立しようとする傾向がある。例えば累進所得税などは、所得階層間の流動性を低下させ現状の所得階層を固定化する働きをするが、政府ははじめからきわめて重い所得税を課す必要性を作り出すことによって、フラットな所得税などの他の税制上の選択肢を「金持ち優遇」だと喧伝しやすくし、特に所得税については、累進課税以外の方法を採用することを事実上困難にさせている。これは、重税の恣意的な制度化と言えよう。本来は、政府自体のコストを削減することで、所得の多寡にかかわらず誰もが軽微な税負担で済むようにすべきなのである。政府は、消費税引き上げにおける議論においても明らかなように、基本的に増税を常に企図している。また、消費税における軽減税率の議論に見られるように、あたかも「弱者救済」であるかの施策を組み込むことで、税制の複雑化と徴税コストの増加を招く方向に誘導しようとする。そんなことをせずに、漸進的に政府支出を減少させていくことで、新たな課税の必要性自体をなくしていけばよいのである。

政府の施策によって解決することができる事柄と、政府の関与なしに処理すべき事柄とのバランスを、人々はよく見定め、そのバランスを常に維持するよう努めるべきと考える。そして、可能な範囲で漸進的に、政府権力を、社会における小さな範囲無内に制約していくのがよい。それ以外に財政破綻を回避する方策はない。

他方で、これまで人間は、代議制民主主義という形式上の民主主義を手に入れるのにさえ、数世紀の歳月と戦禍を含む苦難を経験しながら、国民と国家との関係を築いてきた。その意味で、今日の人間は、個人と国家との関係において何らかの権力の不均衡状態を維持することを強いられながらも、他方では、個々人の生活における少なからぬ部分を国家とその政府に依存していることもまた事実である。したがって、国家と政府との役割の重要性はなくならない。

代議制を含む今日の民主諸制度が限界をもつものであったとしても、それを通じて、よりよい国家と個人との新しい権力の均衡状態へと段階的に導いていくことが重要となる。そのためには、限定した国家と政府の関与によって自由な市場経済の発展の可能性が確保されるだけでなく、社会を構成する各個人が、自由を基礎とする新しい倫理観を形成していくことが必要になる。その新しい倫理観の一部または全部を共有することによってはじめて、各個人の自由と自己決定権を最大限に尊重しながらも、社会の安定と一体性を維持することが可能になる。

日本は、いまだ縁故資本主義と国家資本主義が支配的な社会である。また、20世紀における社会主義や社民主義などの集産主義的体制に対する傾倒もまた、「科学」や「理想」や「福祉」などの言葉でカモフラージュされた権威に対する依存心の表れだったとも言える。歴史家のエリック・ホブズボームが「極端の時代」と呼んだ20世紀の迷妄は、いまだ人々の心を惑わし続けているのかもしれない。これからは、何事についても懐疑的であらねばならないと思う。

 

山本太郎

2013.1.13

本記事の前半部分の多くは元々英文だったので、英語版も作成した。→ 英語版