168話 11.5.19
携帯男を怒鳴った「あの男」
 よく晴れた冬の午後だった。下りの新幹線に揺られていたのは大阪への出張のためだったが、ビッグコミックオリジナルを広げ、缶ビールを片手にしていたのは大阪での会議が次の日の朝9時からという都合のいい状況だったからだ。
 ご立派な外国のビジネスマンが見たら「アンビリーバブル!漫画を読みふけるジャプのビジネスマン!」と蔑まれたかもしれない。幸い外人さんの姿は車内になかったので国辱犯のそしりは免れた。小生は普通の給与生活者だが、面と向かって異人にジャップと言われたら斬ってしまうくらいのささやかな愛国心は持ち合わせている。
 ところで、あの、異人(異国船だっけ)打ち払い令っていう法律か布告かは、もう失効したのだろうか。小生は法学部出身ではないのでよくわからない。
 あ、話しがそれてしまった。このごろとみに集中心と骨密度が低下している。ま、これはしかたがない。年をとるとはそういうことだ。

割引券を手にいれて潜り込んだグリーン車には、タレントも乗っていないし、八九三関係のかたの姿も見えな かった。従ってタレント見物のために意味無く通路を歩き回るガキ、いや、お子さまや、そのお母さんがたもいなかった。
 や九ざ関係の方々は、まあまあ静かなことが多いのだが、かわりに不気味な風情が漂うので、これも姿が見えないと安心するものだ。

静謐に充ちた午後のひとときは、しかし新幹線が熱海にさしかかった時に、携帯電話の着信音で破られてしまった。それまで眠っていたらしい男が馬鹿でかい声でしゃべり始めた。はじめは起こされたことに腹を立てているようだったが、そのうち博多の天神の店がどうしたという話しになった。耳障りな笑い声をたてて愚にもつかないことをしゃべり続けている。うるさいぞ、ばかやろう。

話している相手が、別の車輌に乗っている、そいつの連れらしいと気が付いたときには、普段150と高めの小生の血圧は多分10000ぐらいにはなっていたかもしれない。

「こらあ、い〜かげんにしろよ!うるさいっ!」

 そう怒鳴りつけたのは、小生ではない。
 この迫力のあるどでかい声は素人のものではなかった。
 顔を上げると、一人の小太りの男がシートから腰を浮かせ、数列前の席の若い男を睨んで腕を振り上げていた。もちろんその声は若い男に聞こえたに違いない。声が小さくなり、やがて携帯を仕舞ったのが後ろ姿の動きでわかった。

 叫んだ男はスッと腰を下ろし、隣の紳士と話し始めた。よく見るとその男もダークグレーの渋いスーツ姿だ。

 落合信彦の実物を見たのはそのときが始めてだった。小生、この愛国的共和主義者を尊敬はするが、好きではない。考え方もゼンゼン違う。従って彼の本はよく読むがとってはおかない。しかし、あの短気さと気持ちの切り替えの早さには驚いた。う〜む、男はかくあるべし。

 携帯男はというと、あとで気が付いたら姿が消えていた。別車輌の友人のシートの近くで空席を見つけたのか、荷物も一緒に消えていた。

 怒鳴った男とその連れの紳士は名古屋で降りていった。小生は大阪で下車し、夕方5時には心斎橋の居酒屋に腰を落ちつけていた。

 福岡行きの新幹線のどこかの車輌の中では、あの携帯男がまた無神経な喧噪で周囲に迷惑をかけ続けていたのかもしれない。だが、そんなことはもうどうでも良かった。その時の小生の頭の中では、目の前のビールの泡のように一日の出来事は少しづつ消え去って、代わりに金色に輝く至福の夜がたそがれ始めていたのだから。



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