195話     老夫婦の時間(パリにて)


 セーヌ川左岸、オルセー美術館近くのカフェのテーブルに、この老人は座っていた。

 そのとき、小生は仕事が終わって宿に向かう途中。コーヒーを飲もうとこの店に入ったのだった。

 仕事も今日は終わりだし、さて・・・そうつぶやいて、0.5秒間くらい迷った末、コーヒーではなく、ビールを注文し席に着いた。

 

 小生の右前のテーブルに、この老人が座っていた。虚空を凝視するような灰色の目は、揺れも瞬きすらもしない。テーブルの上には、まだ六分目ほどビールが残っているジョッキがひとつ。
 古びてはいるが、決して汚れてはいない服装。靴は皮ではなくスニーカーだった。

 小生が一杯目のビールを片づけて、ふたたび老人に目をやったとき、彼の顔がゆっくり店の入り口のほうへと動いたのが見えた。

 一人のおばあさんが店に入ってきて、老人のテーブルに近づき、彼の手を取った。  老人がおぼつかない腰つきでたちあがった。

 やがて、お互いを支えるように、ゆっくりとした足どりで、ふたりは店をでていったのだ。ただそれだけの出来事だった。

 店の外とは別の時間が流れているのかと思えるほどの緩慢な空気の動き。老人の顔色のように、色彩を希釈した風景。

 店を出るとき、老婦人が振り向いてウエイターにちょっと笑みを送った。笑顔を返したラテン系らしい若い男も、間違いなくその時間の中にいた。小生は二杯目のビールを頼んで、時間の残滓を楽しむことにした。


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