222話 6.10
旬の味、グルメばか

 「母親の手抜きが娘で増幅され、遂には日本の味が滅ぶ」ってなことを言ったのは、高橋治さんだ。もしかすると正確ではないかもしれないが、なにかのエッセイで確かにそう書いていた。高橋さんはもともと映画監督だ。かなり年輩になってから作家に転身して直木賞を受賞した人だ。受賞作は「秘伝」という。かなり昔に読んだのでこれまた正確には覚えていないが、たしか頑固な爺いふたりが、怪物のような魚を釣るために奮闘する話だったと思う。

 なんだか曖昧な記憶ばかりですまんのだが、ま、こっちも爺いだから許して貰う。その作品は、作者同様に、たとえば颱風の去った後の、九州の青空のような明朗なそして剛直な文章だった。

 この高橋さんが、同じエッセイ集のなかで鮎のことに触れて概意こんなことを書いていた。「(鮎は)釣って良し食って良し、更に姿無類の美形だ。だから、豚みたいに太らせた養殖鮎を作る奴は、どう考えても許せん・・・はまち、鰻(うなぎ)、ブロイラー、鮎、この養殖4悪はなんとかならぬものか・・・」

 う〜ん、戦友!といいたくなる。人生と映像と文章の大先達である高橋治さんに、長幼の序を弁えた小生にして「戦友」といいたくなる。そうなるほどに、この国と人々の「食と味」についての感覚は救いがたいほど麻痺し衰退してしまった。

 いまあらためて思う、小生のガキのころの経験は、もう今の子供らには神話か伝説と同じく得難いことなのだなと。

 天気のいい朝、近所の悪ガキ仲間で近くの川に行く。薩摩の夏だ。空は広く、風は青い。ちょっと違反なのだが、自転車のモーターにつないだ針金の先を土手の石の間に差し込むと、たちまち強い電流にウナギがしびれて浮かびあがる。スタンドをたてた自転車を一生懸命に漕ぐのはいちばん小さい子だ。細い竹の棒のさきにミミズを通したハリをひっかけ、水面の下の穴を探るのもいる。獲物はバケツで持ち帰り、庭先でさばく。取り出した鰻の心臓はちいさな電池のようだった。まな板のうえでいつまでもうごき続け、われわれガキどもに野生の生命の驚異を見せつけていた。

 客があると、庭を駆け回っていた地鶏をつぶして歓迎するのが薩摩の風習だ。父親を手伝って鳥をひねり羽をむしりハラ(内蔵)を出し、自家製の味噌を使った鍋で調理する。ときには祖父が撃ってきた兎の皮むきも手伝った。カワハギのようにべろりと剥ける兎の皮の下からは、おびただしい散弾がこぼれ落ちるのだった。  

 天然の鰻や地鶏の味は言葉には尽くせないほどの滋味に満ちていたし、兎の肉は刺身が最高だった。

 はまちと鮎については、小生のガキ時分には接点がなかったから、いう言葉もない。関西で言う「はまち」は関東では「イナダ」だろう。ブリの子供、ワラサの末弟。関東でハマチといえば養殖のイナダを指す。

 イナダと鮎については天然と養殖の違いは明解だ。小生、この両者には、警官と極道、詐欺師と教師、政治屋と泥棒くらいの違いはあると思う。(え?全部おんなじじゃん、だって?失礼)

 鮎を釣り、イナダを釣り、それぞれに天然の恵みの味をいただいていると、高橋さんではないが店頭に並ぶデブ鮎が情けなく見えるものだ。情けないといえば、合成飼料で養殖されるハマチも同じだろう。だが、もっと情けないのは、グルメ文化人とかいう連中だ。したり顔で「まったり」とか「いい仕事だ」とか「ワインがどうした」とかほざいている連中だ。

 面接のノウハウや、恋や愛について書いている博報堂出身の饒舌な男は食材についての蘊蓄を誇示するが、その中身はせいぜい四十男のフケくらいの重さしかない。余計なことだが、この男のセクハラ談義は凄い。二回ばかり会ったが、食傷した。

 Yという料理評論家はその能書きに反比例し、その顔つきに比例して下品な男だ。とりわけ寿司についてよく喋るのだが、とても自費では出入りできないような超高級寿司屋を職人の技とほめあげること常である。彼は近年肝臓を痛めたらしい。「まったり」と表現するのが得意技なのだが、自分の内蔵がフォアグラになっては仕方ない。

 ほんとうに美味いものは彼らの指さすところにはない。

 美味なるものは旬にある。野にあり海にあり川にあり、四季の大気の中にあり、親しき友との間にある。

 たぎつ瀬に黄金の鮎蒼き風   秘剣




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