223話 6.18
寿司屋の雨宿り

 K氏はイラストレーターだ。細密な動植物画やクラシックカメラ、ジープなどのメカを描かせるとピカイチの腕を持っている。先週のいつだったか、プライベートな研究会の会報を作る件で打ち合わせすることになった。いつもならメールでのやりとりで済んでいるのだが、レアもののポスターが入った、一枚やるから作業場兼用の自宅マンションに来てくれという。

 「根を詰めた作業だから外出するのは億劫だ、もう何年も釣りにもいっていないし、ジープにも乗っていない。今年は花粉症もひどかったからなあ、山にもとんとご無沙汰だ。やれやれオレも歳だよ、もう」とビールを飲みながら弱音を吐く。腹も以前より出ている。よくこれでアウトドアの絵なぞ描けるものだと思う。

 打ち合わせを終えて窓の外を見ると、もうすっかり暗くなっていた。かすかに雨が降っている。メシでもと誘ったのだが、Kは部屋で飲んでいるほうがいいという。別れを告げ、彼に貰ったクラシックジープのポスターを濡れないように抱えて、傘をさし歩道に出た。帰りを考えると、駅前の商店街を抜けて落合の駅に出たほうがいい。

 そう考えたのが間違いだった。じつは小生は自慢してもいいくらいの方向音痴だ。落合の駅ならすぐだ。5分くらいだよといったKを恨みながら雨の中を歩き回り、ついに自分がどこにいるかすらわからなくなってしまった。しみじみと兵隊にならずに良かったと思う。斥候などに出された日には味方の全滅間違いなしだ。

 濡れた歩道をとぼとぼ歩いていると、腹が減ってきた。
 そういえば今日は昼を抜いている。二週間ほどまえの健康診断で、
「あんたね、すこし節制しなくては。歳だし。ほら、この数値をみてごらんよ、もう、あんた、立派なデブだよ」そう医者に言われてショックのあまり拒食症になりかけていたのだ。この医者、自分こそデブで、とんでもない爺いなのだが、肌色や艶が異常にいい。健康診断で貧乏サラリーマンをイジメてたんまり儲かっているにちがいない。

 前に灯りが見えた。

 寿司屋だ。

 暖簾の間から中をのぞくと、狭い店内にはカウンターに二人連れの客がいるだけだ。もう一度店構えを見てからガラスの引き戸に手をかけた。むかし銀座でひどいめにあってからは、寿司屋に対する警戒心がトラウマになったのだ。小生が警戒心を持つのは、寿司屋のほかにはあまりない。怪しげなスナックや、宣伝だけは上手な酒のメーカーや、キンキラのクラブのばばあや、警察や、経理のイトウさんくらいのものだ。美人のイトウさんは、小生が経理に回す伝票や請求書の不備を絶対に見逃さないのだ。

 カウンターにすわり、ビールを頼んだ。カウンターの左手のテレビでは野球中継をやっている。

「お客さん、なににしましょう」つけ台のむこうから、はぎれのいい声が飛んだ。
 小生と同年輩くらいの職人さんだ。いや、この店の主人だろうか。
「一人前、握ってください」そういって、カロリーの少ないのを頼みますと付け加えたら、主人一瞬困った顔になったが、にこりとして「はい、わかりました」

 ビールを一気に飲んだら肩の力が抜けた。ちょっと腹ごしらえして帰るとしよう。
 丸顔でにこやかなおかみさんが、すっとビールのジョッキを膳から下げ、

「お茶をお持ちしましょうか」

「冷やで結構ですから、お酒をください」

「はい」

 けっして賑やかではないのだが、ゆっくりした明るい空気のなかで、落ち着いた時間が流れているような、そんな雰囲気の店だった。

「おまたせしました」

 主人がつけ台に出してくれた握りを見て得心した。お客を迎えるということは、実は不確定性に満ちた難しいことなのだと、ここで働く人たちはちゃんと知っている。そして、よく考え、努力することで自然体の応接をこなしている。

 主人が握ってくれたマグロのづけ、白身魚の昆布〆、赤身の巻物などを味わっていると、おかみさんが焼きたての卵焼きを皿に盛ってカウンターに出した。湯気を上げているそれをみた途端、あの爺い医者が指摘した尿酸値のことなど忘れてしまった。「少しでいいですから、それを」と叫んだのは当然だろう。いまどき寿司屋の自前の焼き立て卵焼きなど、そうお目にかかれるもんじゃない。

 堪能した。満足した。

 この店の名前がいい。名声が登り、利益が増すと書いて、「名登利寿司」

 落合の駅までの道を主人に聞いて店を出た。案内通りに小道を辿っていくと、すぐに駅の前に出た。

Kの道案内とはエライ違いだ。



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