手控え247話  より
家族ということ
 先週の手控えで、薩摩で焼酎を造っている高良さんの話しを書いた。父親が仕事に打ち込む姿をみて育った子供が、その父親の仕事を理解し母親を励ますのに何の教育もいらない。親のありかたが子への教えだということを、あらためて感じながら書いた。
子供のひとことで決断して父の(その子にとっての祖父の)遺髪を継ぎ、さらに高めていくために努力を重ねている人もいる。この人も薩摩のひと。焼酎を造るひとだ。
「萬膳さん」・・・この人の名というより、同名の蔵の話題をしきりに耳にするようになったのは、この夏のころからだったと思う。
 名匠といわれる杜氏さんと、まだ若いこの蔵元さんが去年霧島の山奥に蔵を建てた。その蔵がなかなか半端なものではなかった。霧島レッカ水という極上質の軟水を求めて山林を切り開いた僅かな敷地に、総べて木造りの蔵。ひるね蔵酒亭で紹介した「自動製麹機」などの近代化を拒否し、すべて手作り。仕込みも先代まで伝わった180年前のカメで仕込む。蒸留は木製で、蒸気を冷却する蛇管も酒質を柔らかくする錫を使用している。
 思えば、ちょうど1999年の仕込みの酒、蔵を作って初めての焼酎が世間に出て、毛細管を浸潤するように萬膳の蔵の情報が走り始めたころだったのだろう。
 たったの150石しか造れないほんとうに小さな蔵だ。しかしどこよりも強固なこだわりを持った蔵、志操の強靭な蔵元と杜氏の仕事場だ。この蔵、「山小舎の蔵 萬膳酒造」は先代の死による廃業から30年の時間を経て、国分から霧島山中へと時空をこえて甦ったのだ。そしてすべての始まりは、当時小学二年生だった子息のことばからだったという。

 1999年12月、地元の南日本新聞は二回にわたり国分支局発として「萬膳利弘氏」について報じた。概要をまとめてみた。 
 霧島町の山中で昔ながらの製法による焼酎づくりに挑む、万膳酒造代表の万膳利弘さん(39)。手づくり麹を用いたカメつぼ仕込みで、蒸留機も木製のたるを特別に仕立てた。霧島山系の軟らかな水が味をひきたてる。同酒造は1922(大正11)年創業。万膳さんの父が三十年前に急死して焼酎製造は途絶え、販売だけを行ってきた。造りの復活については「息子の代にでも…」と漠然と考える程度だった。
 その思いを息子の素朴な一言が揺るがした。六年前の豪雨災害後、甲突川五石橋が解体される様子をテレビで見ていた当時小学二年の息子がつぶやいた。「お父さん、歴史って守るものじゃないのかなあ」
 万膳さんは、おじで川辺郡笠沙町の黒瀬杜氏、宿里利幸さん(67)に相談。宿里さんも「杜氏の技術を後世に伝えたい」と技術指導を喜んで引き受けた。
「どうせなら昔ながらの製法で」
 自然通気による手作りこうじに始まり、一次・二次もろみはカメつぼで仕込む。蒸留機も木だると錫(すず)製の冷却蛇管に。木だるや錫製蛇管の技術者も数えるほどしかいないが、こうした匠の技も杜氏の腕と同様、焼酎文化を支えてきたとの思いからだ。万膳さんは「厳しい焼酎業界を生き残るには、造り手と売り手が信頼関係で結ばれる付加価値の高い焼酎づくりが不可欠だ。焼酎文化の継承も担っていきたい」と話している。「機械製法を否定する気は毛頭ないが、こんなバカがいてもいいのでは」そういう萬膳さんを、利き酒師の資格を取った妻のひろみさん(39)がバックアップする。「家族の支えが何よりの力」と氏は照れながら語った。

 萬膳氏は、蔵から出した黒麹仕込み「萬膳」と黄麹仕込み「萬膳庵」を、国分市で経営する自分の酒屋に置いていない。全国からの要請に応えるにはあまりに少ない石高だ。販売店も厳選して流通の狂奔による市場の混乱を防止するのに努めている。自分の店に置かないという一点にも、氏の潔い決意・作品へのこだわりを見たように思う。
 (「山小舎 萬膳」については、「本格焼酎寸言」に掲載しました。)

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