手控え255話より
ヒョーショージョー 焼酎鑑評会の結果発表の日に思う
 有名な人だったらしい。大相撲の千秋楽で流れていたガイジンの甲高い声。優勝力士にトロフィーを授けるパンナムのプレゼンテーターの羽織袴姿を、ある年代以上の方ならよくご記憶だろう。
 このオジさんの伊達姿の記憶もパンナムの撤退とともに微かな夕闇の中に溶けて、消えた。
 優勝力士には及びもつかないが、表彰されるということがとりわけ嬉しい人も多い。他人から表彰、顕彰されないので、自分で銅像を造り母校に寄付したり、自宅の庭に安置したりする人もいる。足元もアタマもおぼつかない高齢の議員が、胸像だか額入りの肖像だかが欲しい一心で議席にしがみつき、新人の座を阻み、老醜をさらしている例も多い。こうなると国民の選良どころか、妄執、我執のとらわれびとに過ぎない。国家のために百害あって利は寸毫もない。
  賞取りレースというものがある。例えば日本レコード大賞。年が明けると、すぐに年末に向けてレースが始まる。様々な思惑、票まとめ、接待から付け届け、義理人情がらみの様々の人間模様もそのレースの裏側にはあるに違いない。まあ、結果があきらかに納得出来ないものだったりすると視聴者・ファンが許さないから、あまりアコギなことはできない。まあ妥当な結果で終わることが通常である。
 総理大臣特別顕彰なんてモノもあった。これはまあ、場当たりな政治に対すると同様に笑ってすませばいい。
 ノーベル賞でも、平和賞なんてものには呆れてしまう。「わが友ヒットラー」を書いた為に、三島由紀夫氏は文学賞の候補から削除されてしまったが、テロリストの親分の政治的パフォーマンスに対しては平和賞が授与されたのもおかしな話しだった。

 表彰は、する方とされる方が二つながらにあって、初めて成立する。
 意地悪くみると、二つの権威のバランスシートのような気がしないでもない。だが、他人に認められたいというのは人としての自然の気持ちではある。自己実現への真っ当なベクトルなのだから、実は一概に否定することではないと思う。自分の努力の結果としての表彰や他人の評判が、自分への励みになるのであれば、それはそれで良い。以前に書いたことがあるが、自衛隊のレンジャー徽章は地位や俸給とは関わりのないものだ。自分自身の(そして家族の)満足と名誉以外の何物でもない。静かな誇りを制服の左胸に輝かせるだけのもの。「議員の肖像」的なただのスノッブとは品位が違う。

 にわとりタマゴの例えになるかもしれないが、本来、「賞が作品を求める」のが本筋なのかなとふと思った。多くは「作品が賞を求め、賞のために作品が作られる」ことが多い。おなじじゃん、というひとも多いだろうが、その志において違う。厳然とした違いがある。賞が作品を求め、探索し、見つけだし掘り起こして顕彰することが始まりだったはずだ。作品が賞のために蠢動しはじめるのは様々な思惑が作用するその後だ。
 自ら励みを作る助けにと賞が位置づけられるなら、しょうしょうの難点は許容されるのかも知れない。(え?オヤジぎゃぐで締めるなって?)

 昨日は、鹿児島県の焼酎鑑評会の結果発表会だった。結果は「大海酒造」さんの銘柄。この蔵元さんの作品にも、かっての受賞銘柄同様に注目が集まることだろう。それはそれでいい。  焼酎ファンが納得すればよいし、納得しなければ忘れられる。関東市場はいざ知らず、薩摩100万の焼酎のみにはそれだけの力がある。
 我が家のダイヤメ銘柄鑑評会の審査は、絶大な権限を保持するカミさんだ。だが、まあ、どれも美味しいというので、鑑評会向きではない。
「酒亭」入り口に帰る
ひとりごと表紙に帰る 「ひるね蔵」ホームへ帰る  掲示板に行く