手控え274話(13.10.7)より
普遍と個性あるいは帆船と汽船
足の踏み場もないような(ホントに無かった^^;)自室に、自分のガサツな性格が反映しているようで、これではいかんと突然反省したのが三週間前。典型的なB型である小生は、カミさんが驚くほどの集中力を注入して部屋の整理に没入した。
「普段から整理整頓すればいいのに」とカミさんが呆れたが、小生の単式蒸留アタマにはそんな声はもう聞こえない。先週の日曜日、いつものように部屋の片づけをしていたら、本棚の下(これまでは焼酎のP箱が置いてあって見えなかった部分)から古いムックが出てきた。「世界の大帆船」(講談社・1976年)だった。

小生はガキのころから帆船や複葉機のようなアナクロなものが大好きだった。しばらく掃除の手をやすめて古ぼけたムックに見入っているうちに、自然に酒造りのことに思いが飛んだ。それが、この稿のタイトルとなった。まあ、何を見ても聞いても、焼酎に関連して考えてしまうのが飲兵衛としての「業」だろうと、つい嬉しくなるのだが・・・(え?悲しむべきだろうって?)。

日本には「日本丸」と「海王丸」の2隻の帆船がある。どちらも2500トンを越える大型帆船で、海技免許をとるための航海訓練に使用されている。
海外でも同様に、若き船乗りたちを教育するために帆船が活躍しているのだという。だがコンピュータ制御の汽船を操縦するのになぜ帆船なのか、と誰しもが思うにちがいない。小生はこう愚考している。いかなるコンピュータシステムを備えた大型船といえども、海が時として見せる猛威の前では無力に等しいし、船乗りたちが「人智の限界」と「自然への敬意あるいは畏怖」を持っている限り、自然への接し方を誤っていないことの表れだろうと。

そういえば、自動製麹機を作り出した河内源一郎商店の山元社長がこう仰っている。
「(焼酎を造るとき)機械任せで造っていると、全体が見られない。機械の目盛りばかり見ていたんじゃだめなんです。機械を使っても人間がきちんと結果を見ていかないと品質が落ちる・・・(「いも焼酎の人びと/世界文化社」より)」
つまり麹と酵母という生物、すなわち自然と向き合うのは結局人間だということだ。その姿勢には、帆船を訓練に使う船乗りと同じ本質があると思うのだが。

機械化すれば「普遍化」が実現し、「質的均一性」が確保されてマーケティング的にはよい条件となる。この原理は「本格焼酎」というプロダクトにはあてはまらない。原料、麹、酵母、水、造り・・・そして杜氏の魂という、決して普遍化できないものの集積が焼酎に昇華するのだから。まあ、例外はあるけれど。たとえば、銘柄としての「球磨焼酎」は、「普遍化」で市場での差別優位性を獲得した。減圧米焼酎をブレンドしてまさに普遍化、いいかえれば個性を消滅させた結実だ。(球磨の皆様へ。異論があっても議論は苦手なので見逃してください ^^;)

薩摩でも、圏外市場からアクセプトされやすいソフトな芋焼酎が、このごろ増加しているという。それはそれで意義のあることだろうと思う。反面、消費者の受け入れ安さ(これが結構いい加減で変わりやすい)だけを考えていると、個性の喪失につながるということもまた事実ではないだろうか。
昨日「本格焼酎寸言」に、「さつま寿」を掲載した。鹿児島県川辺郡の小さな蔵で造られる芋焼酎だ。地元だけでその殆どが消費される、まさに地の焼酎、ダイヤメの酒だ。この焼酎の濃醇さについては記事に書いた通りだ。「さつま寿」が県外の市場をにらんで、「個性」に変化を加えることがないようにとホントにそう思う。中味も外側も、ありのままでいい。そのままが素晴らしい。小賢しいマーケティングなどなんの意味もない。変わらないことの貴重さ、大切さをしっかりと考え続けて欲しい。

「酒亭」入り口に帰る  「ひるね蔵」ホームへ帰る  掲示板に行く