四月二十六日(月曜日)
約10年前に北京にきたとき、夕闇の底から湧くように立ち上がってくる自転車の人々の波には目が点になったものだったが、きょうは車の多さ、渋滞の凄さに驚いた。モータリゼーションは急速に進んでいるが交通マナーはまったく以前と変わらない。事故現場をみっつ目撃した。コンテナトラックの横にグシャグシャになって横転しているワンボックスの横で、アタマから血を流して座り込んでいる運転手がいた。公安車(パトカー)は来ていなかった。信号機の点滅が役目をなしていない街路には自転車や人や車が勝手に走っている。
四月二十七日(火曜日) 新華社近くにはメディアが集まっている。いわば中国の大手町といったところか。 光明日報の巨大なビルの裏側の茶店で打ち合わせ。終わって「北京そごう」の食堂で昼飯にした。熱気と喧噪。ひるどきなのでかなりのラッシュだった。
終わって、夜のアポイントまでの時間を宿のある王府井駅ちかくの胡同をうろついて過ごす。 「胡同(フートン)」は言ってみれば江戸の棟割り長屋だ。たとえば与兵衛店というのと同じように、○○胡同などと名前が付いている。それもオリンピックを前に取り壊しがすすんで市内では見ることも少なくなったようだ。 夕食時に、「東京オリンピックのときの日本と同じかもしれませんね」と同席いただいた某女史に言ったら、 「それでもね、政府は胡同の保存活動もやってますよ」と美麗才媛は流ちょうな日本語で答えてくれた。
四月二十八日(水曜日) この日、午前中は北京西部にある研究施設で結構長いミーティング。 終わって昼食を会議のメンバーと一緒にとってから宿へ帰った。「王府井(ワンフーチン)」近くの宿である。古い宿なので部屋には今は北京でも常識になったはずのLANケーブルがきていない。日本との連絡は国際携帯。いまこれを書いているマックはネットには繋がっていない。なんとも心許なさが漂う。粒子の荒れたテレビ画面で見るNHKの衛星放送だけが情報の入り口である。
宿のロビーで打ち合わせ。終わったのが23時。 トイレが詰まっている。洗面台が壊れている。ルームサービスは来ない。五つ星でこれである。中国である。 Gクンの部屋で麦酒。持参した焼酎は最初の夜にからっぽになっている。 四月二十九日(木曜日)
面白いので二階のレストランに行ってみた。警備員がふたり(ひとりは女性)部屋の前に立っていた。「早(ツァオ)」と手を挙げて挨拶。なんなく入室。警備になっていない。 会議のメンバーさんたちに混じってお粥をすする。着いたテーブルには少壮の教授か外交官とも見える男が珈琲を飲んでいた。中国語はわからないようで、英語ですこし話した。アジア系の顔だったがなんとも不思議。そのあと再び一階の食堂に移り、同行のGクンやS嬢と二回目の朝食。六カ国協議の話題。外務省の藪中局長が北京滞在中とか来るとか聞いた。次の会議の予定を決めることだけが目的(としか思えない)こんな会議を続けていても、拉致被害者は帰ってこないし、被害者のご家族の苦しみは延々と続くだけではないか。 霞がかかったどんよりした大気の中を、北京空港へ。来るときと違い飛行機はDC10だった。ジャンボに較べるとビジネスクラスでも座席の幅も前後の感覚も狭い。だが、お釣りを投げてよこす店員のいる国から離れて、機内をこまめに動いて客に気をくばる笑顔のスッチーたちを見ると、「労働」ではなく、「サービス」のある国の国民でよかったとしみじみ思う。 深夜所沢に帰宅。昭和天皇の御誕生記念日がいつしか過ぎて30日になっていた。
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