読んでくださるすべての方に。

このものがたりは、運命と偶然と勇気と愛について、多くの作品がそうであるように、きわめてご都合主義的に、なりゆき次第に書き、描いたものです。
なお、物語はすべてフィクションで内容や言葉遣いに関しての文句や抗議は受け付けません。
著作権、著作者人格権、送信権などすべての権利は作者が保持してます。

線路は夜のかすかな光に白く輝き、過去と未来をつなぐ道のように、少女の前に横たわっていた。

 過去の方角には棄てたふるさとがあった。母の死も、父親との流浪の旅の記憶もあった。父親の死も、それをもたらした男たちへの報いさえも、すでにその厚く重い闇の中に沈んでいた。

 少女は鉄路の彼方、南のほうには別の世界があることを知っていた。もちろん、脱出するすべもなく、訊ねる所にも人にも、あてはなかった。

 しかし、あの男たちを撃ってしまった芙蓉には、もうこの国では生きる道はない。父親の最後の望みは、娘が生き抜くことだったから、芙蓉はそうしようと思った。






恵州市から深釧に向かって歩き続けた芙蓉は、この夜、線路際の煉瓦塀にもたれて眠った。芙蓉はこの日、十三才になった。

   朝一番の国際列車が通過してゆく。まだ暗い大気をその轟音で震わせて。
 不思議なことに列車がゆっくりと速度を落とし、やがてとまった。駅はまだまだ先のはずだ。
 少女は知らなかったが、列車は九龍駅の信号故障のために一時停車したのだった。

窓の外にはただ暗闇だけが静かに沈殿している。
夜明けにはまだ間があるが、ここからすぐ、深釧から九龍地区に入ればそこにはおびただしい明かりが明滅し、決して眠らない不夜城のような繁華街が広がっているのだが、それは今この闇の中で眠っている人民たちには行くことも見ることも出来ない自由の輝きだ。少なくともまだ当分の間は。

 ワイングラスを片手に、その男は目を外に向けた。夜の闇の中に小さな白いものが見えた。子供だ。子供の顔だ。線路のすぐそばに佇みじっとこちらを見ている。 グラスが男の口元で止まった。
「信じられないぞ。この臨境地区は一般人の立ち入り禁止のはずだ」 連れの女が外を見た。その白い顔肌にかすかに紅色が浮かんだ。

「子供ね、それも女の子よ」
「ちょっと耳を貸せ」と乗客の男が車掌に言った。
この列車を利用するときにはいつも信じられない額のチップをはずむ金持ちだ。車掌は男の耳打ちを聞くと、すぐに言われたとおりにした。車掌は列車から外に出た。その子を手招きして呼んだ。

「あのお方が聞いていらっしゃる。ひとことで答えるように」もったいをつけるように車掌が芙蓉に話しかけた。「おまえはこの列車で国境を越えたいのか」
 芙蓉はじっと車掌の目をみた。ちいさな頭をゆっくりと列車の窓に向ける。 自由の国に直行するその列車の窓は明るい光に満ちていて、なかの人物の顔は見えなかった。
 芙蓉はうなずいて言った。「うん、もうここにはいられないの」
 肩からかけた父のバッグのなかで芙蓉のちいさな手が、かすかないのちを確かめるように父の遺品の拳銃を握りしめていた。

車掌は素早くあたりを見回すと芙蓉に言った。

「乗れ。そしてこの上のコンパートメントにはいれ。静かにな」
「そのバッグを棚に置いて、洗面所で顔と手を洗ってきなさい。それからな・・・」男は車掌に向かって言った。「この子が洗面所から出るまでドアの外で待っていてくれ。それからなにか食い物を持ってきてくれないか。わしにはもう一杯酒をたのむ」

 車掌がうなづいた。なにもかも心得ておりますという顔だ。これで少なくとも百ドルは貰えると車掌にはわかっていた。それは、彼の二ヶ月分の給料に匹敵した。

「あの娘、どうするの?」ナターリャが聞いた。
「あんな時間に拳銃を持ってあそこにいたんだ。ただのわけ有りというだけじゃないだろうなあ」
「可哀想だけれど、香港に連れ出すのだって難しいし、私たちがかまってやれるとも思えないわ」ナターリャの透き通るような白い顔が曇った。
「連れ出すのはそう難しいことじゃないさ。それにあのチビ、ここでは生きてもゆけないだろうしな」「なぜ?」「あのコルトは何年もの長い間使われていなかった。たぶんあの子の生まれる前からな。だが、つい数日前に少なくとも1 発発射されている。そして、手入れした痕はない」
「誰かを撃ったというのね、あの子が」
「ふむ。酒はまだかな」
「可哀想だけれど放り出すしかないわね。そのまえに九龍に着いたらちゃんと食事させてあげましょう」

 列車が九龍地区に入った。窓の外が急に明るく変わった。車内にホッとした空気が流れるのを、コンパートメントにいても感じることができた。いつものことだ。共産圏から出るとかならずこの種の安堵感を人は持つらしい。ソ連のシェレメチボ空港から飛び立った西側のエアラインの機内でも、この共産中国から香港に出る列車の中でも同じだなと男は思った。だが、まだ列車は中国政府の主権下にあるのだ。通関が終わるまですべてを支配しているのは共産党だ。

列車が九龍駅のホームに入線した。 ドアが一斉に開いた。駅の係員が各ドアの左脇に立って乗客の下車を監視している。

 税関に向かって歩く人々とは逆に、三人はホームから直接乗務員服務中心(センター)のドアに吸い込まれていった。

 横目で見ていた女性駅員がかすかに口を歪めて笑った。無事に行ったようね。これで20 米ドルね。自由経済万歳だわ!


 スターフェリーが群青の海にゆっくりと白い航跡を描いている。

日本のエアラインが経営する高層ビルの最上階のレストラン。完全な四川料理を出すのは香港でもここだけだなと、男が老酒を満たした小振りの陶器製のグラスを口に運びながら言った。

 金髪の女は軽くうなずいて手慣れたそぶりでウエイターを呼び、菜単(メニュー)を持ってこさせた。何を

頼んでもいいのよと、驚く芙蓉にその写真付きのメニューを見せた。

 芙蓉は四川坦々麺の写真を指さした。女は給仕を呼び、芙蓉の注文のほかにスープや饅頭を言いつけた。芙蓉にとってはこんな豪華な食事は見たことも聞いたこともないものだった。



その事務所の壁には蒋介石と孫文の肖像が飾られていた。もっとも額を回転させるとそれは毛沢東と孫文の肖像に変わるのだが。

 窓のそばに立ったまま新聞を読んでいた男が言った。
「恵州市の人民警察処の自由市場分駐所が襲われて二人の警官が死んだらしい。犯人は逃走中と書いてある」
「ふうん」
「芙蓉か」新聞から目を上げ、男が振り向くと、芙蓉がうなづいた。そして、小さな声でしかしはっきりと「巴巴(パパ)の仇を討ったの」と言った。
「詳しい話しを聞かせてもらおうかな」
 男は芙蓉を椅子にすわらせた。「この子に茶を、それからビールだ」 そう女にいいつけて自分も椅子を引き寄せ腰をおろした。

「わしは決めた。あの子を連れて行く」
「ボス、ほんとにいいのね」ナターリャの顔がなぜか嬉しそうに輝いた。
「それからな、あの拳銃だが」男が隣の部屋の芙蓉を気にして言った。
「朝鮮戦争のときの米軍のものだ。なぜ芙蓉の父親が持っていたのかわからないが、ただの棄民ではないな」
「私たちと同業だったのかしら」「ふん」
「国民党の残置諜者とか・・・」
「ビールはもういいな。紹興酒をたのむ。熱くしてな」
「まったく、ボスはよく飲むわね。これじゃわたしはスパイマスターというより飲み屋のマスターに使われているみたいね」

「あの子にな、拳銃の手入れのしかたを教えてやってくれ。撃ち方よりそっちのほうが先だ。あすマカオに連れて行く。書類を本部に頼んでおいてくれよ。それから、な、はやく熱いのを持ってきてくれんか」
「あい」




香港が中国に返還されて一年と数ヶ月が過ぎた。


 熱い日だが、冷房の効いたホテルのプールサイドは快適だ。人影も少ない。

「小龍、ビールはどうした、早くしてくれんと暑さでしんじまう」
「撃たれて死ぬよりましでしょう、ボス」
 芙蓉はそういいながら脇のテーブルにおいていた右手を一振りして、拳銃をレッグホルスターから抜いた。流れるような動きだ。薬室には初弾が装填されている。

 拳銃を前につきだしながら、右手親指でセフティを解除、照門と照星、そして、いま植え込みの陰から姿を見せた哀れな敵の額が、ただ一線に貫かれた瞬間、短い銃声がふたつはじけるように響いた。

「どうした、小龍」ヘッドフォンでお気に入りの曲を聞いていた男は、雑誌から目をあげずに聞いた。声がでかい。
「ビールは、チンタオでいいのね。まったくよく飲むわね、腹が出るはずね」
 芙蓉はバーカウンターの中の若い男に手を振り、短くビールの銘柄を告げた。真っ青な顔でこちらを見ていた
ウエイターが小さくうなずいた。
 芙蓉は青島というこのビールは嫌いだった。

 この2 月に、芙蓉は21 才になった。5 年前に撃たれて死んだときのナターリャと同じ21 才だ。
「そういえば、ナターリャも、いつもおんなじように言っていたわね」

「今夜はスコールになりそうだな」男が言った。ヘッドフォンをはずし、デッキチェアから体を起こした。「撃ち合いになったら俺は逃げるからな、たのむぞ」
「あい」

 芙蓉はそう答えたが、でもボスにはあの帽子があるでしょと心の中でつぶやいた。あの帽子を被ってハゲ頭を隠すと、ボスは途端に人が変わる。何にかわるか、いや誰に変わるかといったほうがいい。それはハイで躁病のボギーだったり、テンション最高のモンティだったりするのだ。ジャッキー・チェンの時もあるし、キアヌ・リーブスの時もある。

   次号につづく    秘剣@

大きい絵は、絵物語実験作「小龍姐傳」でご覧ください。