爺さんの夢


 横須賀走水の船宿、関津丸。

 常連の阿爺は三日にいつぺんはこの船で釣る。釣り座はいつも大艫だ。
別にズルしているのぢゃないよ。なんといつても阿爺の家は船宿から歩いて3分。
前の晩に船に来てクーラーを置いていくのだ。

阿爺は酒が好きだ。釣り座の支度を慣れた手つきで整える阿爺。
その目の前には透明の平たひガラス瓶が置かれている。

船が岸壁を離れた。
鴎が上空で騒ぐ。今日の釣り場は大津沖、猿島まわり。
船長はここで釣るときはアンカーを打つのだ。

スパンカがかすかな風に鳴って、朝の眩しひ光が舷側にはじける。
阿爺が例のガラス瓶の蓋を捻つて開けた。分厚い手のひらに数滴の酒を落とした。
天に、海に、指で酒をはじいた。ケチだなあ。
天津神、海津神への祈念の御神酒としてはね。
阿爺はつぎに紙コップをとりだした。
左の席、つまり大艫二番のロッドホールにコップを押し込み、酒を注いだ。
天と海に捧げた酒の100倍くらいの量だ。
たつぷりと注がれたその酒は阿爺が飲むためのものと誰もが思ふ。
だが、一通りの儀式が終わると、阿爺はガラス瓶から直接飲み始めた。
一口のんでうまさうに溜息をつく。阿爺の左手はリールを押さへ、仕掛けは船縁にちやんと並べてある。船長のアナウンスがあれば、まつさきに投入し、最初に海底を撃つのはいつも阿爺の100号の行灯ビシなのだ。

船長が合図した。
釣り人たちは一斉に仕掛けを投入した。

このポイントは30メートルだちだ。
底から1メートルでコマセを振り、2メートル上げて待つ。
まもなくアジ特有の小気味の良ひアタリが竿先にでた。
阿爺はゆつくりと巻き始めた。巻きながら、隣を見る。
大艫二番では日除けをかぶつた老人が阿爺とおなじやうにゆつくりとリールを巻いている。
つひ一年前にその席で釣りながら死んぢまつたともだちだ。
あひかわらず、阿爺は一緒に釣つている。これからもずつと一緒に釣る。

船はお昼ちやうどに沖あがりとなつた。
第5関津丸はゆつくりと、もとの港に接岸した。
老船頭の熟練の操船だ。ぴたりと横付けしてロープが飛んだ。

左の胴の間にいた若い男女の釣り客がクーラーを持つて船から下りた。
二人だけの客を見送った老船頭は、艫の方を見て優しい目になった。
「阿爺、佐婆、どうだったかな・・・楽しかったかの」

                         をはり