短編ミステリー【8人の淑女】その5

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奈々子 ◆ ありふれた通勤の風景

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 けさも、駅に向かう歩道には通勤客があふれている。

 私鉄沿線のごくありふれた朝の風景だ。

 奈々子の前を二人の女が歩いている。二人とも毎朝きまってこの辺で見る顔だ。

 背の高いほうは、一週間ほど前に突然左足を引きずるようになった。それ以来パンツスタイルだったが、日毎に回復し、きょうはまたスカートに戻った。

 どうせスキーかなにかで痛めたんだろうけど、自業自得よ。奈々子はぶつぶつとつぶやきながら歩いている。

 もう一人の日焼けした娘はいつもは彼氏といちゃつきながら歩いているのに、きょうはひとりだ。

「別れちゃったかな、いい気味だわ」

奈々子は7時17分の準急に乗る。始発ではないが、4つ先の駅で急行に乗り換える客が数人いるため、うまくするとそこからは座っていける。

 3日前の朝、奈々子は電車のドアのガラス越しにだったが、妙な男に出会った。

 その朝、奈々子は座ることが出来なかった。いつもその駅で降りる老人の前に立っていたのだが、奈々子の脇にいた中年の太った女にすばやく席をとられてしまったのだ。

「だから、オバタリアンっていやなのよ」

 そう舌打ちして奈々子はドア脇に移動した。このポイントがシートに座れなかったときの次善の選択なのだ。ぐずぐずしていると、ドアが開いて客が洪水のように乗り込んでくる。奈々子はバッグを網棚に載せ、ポールにもたれて、芸能週刊誌をひろげた。

「このカップル、もって半年ね。お笑いの旦那にモデル出身の女優なんて合うわけがないわよ」

 ページをめくりながら独り言をつぶやく奈々子をときどき怪訝な顔で見つめる乗客もいるが、奈々子は気づかない。

 電車は次の駅には止まらないのだが、すぐ先にポイントがあるため、駅を通過中は徐行する。

 電車が減速した。奈々子がふと読んでいた本から目を上げたとき、ホームに立っていた男と目があった。普通列車をまっている乗客だろうか。いや、違った。男が奈々子を見た瞬間、男の目に光が走った。そして突然、走りよってきて、ドアガラスに顔を押しつけ、両手でばんばんと叩いたのだ。

 徐行する電車がホームの端を離れるまで、男は電車と並んで走り、奈々子を指さして叫んでいた。淀んだ沼のように暗い色の、だが、危険な目だった。じつは奈々子はその男を知っていた。

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 3日前、突然出会った男。

 その男は、徐行する電車を追ってホームを走りながら、奈々子を指さし、怒鳴りつづけた。そして、電車が見えなくなった後もホームの端に立ち尽くし、意味の分からない叫びをあげていたのだった。

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 じつは奈々子はその男を知っている。もうずいぶん長い間、隣町の古い寺の境内に住み着いている浮浪者だった。いつも涎をたらして歩き回っていたが、おとなしい性格のようで町の商店街で食べ物をもらったりしていた。

 奈々子は中学時代に、仲間と一緒に、食べ物を取り上げたり、石を投げつけていじめたことがあったのだ。

 奈々子に言わせれば、「ただ面白がってやってただけ」だった。

 男が姿を消してからもう5年たっていた。 

 

「そうとう、あぶない奴になっちゃったかんじね、あれじゃ」

 停車しないのだから、ドアが開くはずもない。それはわかっていても、奈々子は男と顔をあわせたくなかったのだ。だが、なぜか気にもなって、視野の片隅で男の姿をさがしたのだった。

昨日はホームに男の姿はなかった。

「あんなあぶない奴なんて、さっさとのたれ死んじゃえばいいのよ」

奈々子はそうつぶやいて、読みかけの雑誌に目をおとした。

 4つめの駅に近づいた。奈々子は目を付けた乗客の前に割り込んで吊り輪をつかんだ。この老人客はいつもその駅で急行に乗り換えるのだ。

 バッグを老人の頭上の網棚に押し込み、奈々子はその席の次の使用権を主張するかのように、両足を踏ん張って立った。

 だが、駅が近づいても老人が立ち上がる気配はない。

 なにしてんのよ、この爺い!まごまごしてると降り損ねるわよ!奈々子は心の中でで毒づいた。

 とうとう駅のホームに電車はすべりこんだ。奈々子の背後で数人の乗客が立ち上がり、代わりに幸せな誰かが座った気配がした。

「なんなのよ!」

 奈々子が短く舌を鳴らして老人の顔を見た。よく似てはいたが、その老人はいつもの乗客ではなかった。

「ちぇっ、しかたないわねえ」

 奈々子が毒づいて見ている前で、その老人は、ひざに乗せた紙袋からなにかをとりだして、食べ始めた。

「なんなのよ、通勤電車でものを食べるなんて。これだから年寄りって嫌いなのよ」

 そのとき、電車のドアが開いて、どっと客がなだれこんできた

「しまった、ドア脇に移り損なったわ!」

 乗り込んできた客の洪水に背中を押され、奈々子はあやうく倒されそうになったが、足をふんばり、吊革にしがみついて耐えた。

 だが、老人の禿げた頭のてっぺんが、奈々子の鼻先に密着するのをかろうじて避けられただけで、全く身動きできない。

「まったく、こんなラッシュの電車の中で食うんじゃあないわよッ」怒りにまかせて奈々子が言った。だが、老人は耳が遠いらしく、もくもくと口を動かしている。

 奈々子は老人が食べているモノを見た。

 老人は食べているのではなく、舐(な)めているのだった。

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 ラッシュの電車の中で、奈々子の鼻先に座っている老人が何かを食べ始めた。

「こんなところで食うんじゃないわよッ」奈々子が叫んだが老人には聞こえていない。

 だが、老人は食べているのではなかった。舐(な)めているのだった。

 老人が両手に持って一心に舐めているものを見て、奈々子は驚愕して目を見開いた。

 奈々子は知らなかったが、それは、老人が駅の売店で牛乳とパンの食事を終えたあと、はずして紙袋にいれた総入れ歯だった。

 ひざに置いた紙袋から、食べ滓のついた総入れ歯を取り出し、丹念に舐めているのだ。そして、満足そうにげっぷをした。

 牛乳の発酵したような濃圧な臭いが奈々子の鼻腔をついた。

 奈々子が吐き気をこらえて、

「わたし、おります!」

 と叫んだとき、ドアが閉じ、電車はしずかに動き始めた。

 次は通過駅だ。その先で降りよう。奈々子がそう思ったとき、電車が大きくカーブし、奈々子の背中にものすごい圧力がかかった。

 たまらず、奈々子は吊り輪から手をすべらせ、両手で老人の頭をかかえる格好になった。

 奈々子の顔は、老人のピンク色の頭に密着している。老人がゆっくりと顔をあげた。奈々子の目の先で老人の歯のない口が笑った

 神様、助けて!次の駅で電車が止まるのなら、あの男がいても降りちゃうわよ!

 3日前に、徐行する電車の窓越しにだったが、奈々子に指を突きつけて怒鳴っていた男。危険な目でにらんでいたあの男がいても、電車が止まるのなら降りるわ。でも次は通過駅なのだ。

 背中には激痛が走る。鼻先ではまた老人が音をさせながら、はずした入れ歯を舐め始めた。

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 奈々子の願いはかなった。

 この朝からのダイヤ変更を奈々子は知らなかったのだ。

 電車は次の駅に静かにすべり込み、ゆっくりと停車した。

 しかし、こんな駅で降りる乗客はいない。数人の客が乗り込んできただけで、奈々子は身動きすらできなかった。

「おります!おりますったら!おりるのよっ!」

 からだをよじって叫ぶ奈々子は、背後のドアからあの男が乗ってきたことを知らない。コートのポケットの中で男の手が卵大の石を堅く握りしめていることも。

 ドアが閉まった。電車がまたゆっくりと動き出した。