短編ミステリー【8人の淑女】その8 

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恭 子 ◆ 釣った魚のあとしまつ

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 風呂場から夫の鼻歌が聞こえてくる。

「いい気なものね、こっちの身にもなってほしいわ」

恭子は魚をクーラーから取りだして、ボウルの中に入れた。魚をつかんだときに鋭いトゲで刺してしまった左手の小指をなめながら、

「釣ってくるのはいいけれど、後始末もちゃんとして欲しいわねっ」

 そう毒づいたが、風呂場で演歌をがなっている夫には聞こえちゃいない。

 夫が今の仕事場に移って3ヶ月。引っ越してきた都心のマンションの3階にある部屋もやっと片づき、落ち着いた。夫も新しい仕事場に馴染んできたらしい。同僚に誘われたのがきっかけで釣りを始め、この頃では休みになると、買ったばかりの道具を持って、出かけるようになった。

「釣り人って、自分で釣った魚は自分で料理するんじゃあなかったの」

 恭子は、釣り好きな旦那を持っている友達からそう聞きかじっていたから、釣ってきたのはいいけれど、クーラーを車から下ろしもせず、エサやコマセのこびりついたウエア類を玄関に放り出したまま、さっさと風呂に入り、あがったらビールを飲み始める夫に内心いらついていた。

「このトゲくらい、釣り場で切りとってきてくれりゃあいいのに」

 ぶつぶついいながら、恭子は魚の腹を出していた。鰓(えら)をかきだしたとき、包丁の先にコツンと何かが当たった。魚の骨ではない。恭子は、ゆっくりと指先で探り、取り出してみた。それは、小さな石のようだった。しかし、その石にはリングがついていた。

「指輪だわ」

 水で洗ってみると、それは細工のこまかいダイヤの指輪だった。

「どうせおもちゃだろうけど、きれいねえ」

 魚がビール瓶の栓や、ビニール片など、いろいろなものを呑み込んでしまうことがあるといつかテレビで見たことがある。これがそうなんだと、恭子は変に感心してしまった。

「お魚のおなかから出てきたと警察に届けるわけにもいかないしね」

恭子はそうつぶやいて、その指輪をペーパータオルで丁寧に拭き、エプロンのポケットにすべりこませた。

 マンションの1階にはいくつかのテナントが入っている。

 そのなかのひとつ、宝飾アクセサリー店「キメラ」の女主人とは自治会の会合で顔見知りになり、客のほとんどいない午前中など、毎日のように店のソファに座り込んでお茶を飲んだりする仲だった。

 翌朝、夫が仕事にでかけたあと、いつものように「キメラ」に行こうとして、恭子はあの指輪のことを思いだした。

「へえ、魚が指輪をねえ」

 女主人は恭子が笑いながら差し出した指>


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ゥりにかざして見た女主人の顔が、急に真剣な表情になった。急いで奥からルーペを持ち出して目に当て、指輪の石をじっくりと観察している。

「いやねえ、どうせ偽物でしょ」そういった恭子に、女主人は、

「あなた、ね、これをちょっと預からせてもらっていい?」

「・・・いいけど、どうしたの。まさかホントのダイヤじゃないよね」

 女主人が首を振った。

「これって、もしかすると大変な値打ちものかも知れないわよ」

恭子は、妙な予感がして、胸の動悸が激しくなったのを感じたが、女主人の真剣な顔に、ついうなずいていた。

 魚の腹から出てきた指輪を、宝飾アクセサリー店「キメラ」の女主人に預けた二日後、恭子は女主人から現金で20万円を受け取った。すこし手数料を戴いたけど、という女主人に、

「うちの人には内緒にしておいてね。今度ご馳走するから、お願い」

 思いもかけない金を手にして舞い上がってしまった恭子は、そう頼み込んだ。

 女主人があの指輪からはずしたダイヤを200万円で売りさばいたことを、恭子はしらない。

「なんだ今日はいやにご馳走だなあ、なにかあったのかい」とビールを飲みながら寿司をほおばる夫に、

「きょうパートのお金がはいったの。一生懸命働いてくれてるあなたに感謝の気持ちよ。たまには贅沢してもいいかなと思って」と恭子が言った。

「それより、この前はたくさん釣れたわね。カサゴのお刺身って始めてだったけれど、美味しかったわ」

「うん。あのポイントはボクが自分で見つけたんだ。誰にも教えてないマル秘の場所なんだ。あそこにはいい型のカサゴがうじゃうじゃいるよ。よっぽどエサが多いんだろうな。釣り人も入っていないようだし」

 しばらくは一人で良い釣りができそうだと夫は言い、また美味しそうにビールを飲んだ。

 次の日曜日も、朝早くいそいそと夫は釣りに出かけていった。そして、夕方にはクーラーを満タンにして帰ってきたのだ。前と同じく、口の大きな、トゲのある、カサゴという名の魚だった。

「まさかね、また指輪を呑んでいるなんてことはないわよねえ」

 ひとりつぶやきながら、恭子は魚に包丁をいれはじめた。

 何匹めかのカサゴをさばいたとき、また包丁の先がなにか固い小さなものに触れた。

 ドキドキしながら指先で取り出してみた。碁石のような石が二つ、魚の内蔵の中にはいっていた。

 夫は風呂につかりながら、あいかわらず時代遅れの演歌をご機嫌に唸っている。

 恭子はその二つの小さな石を取りだし、水で濯(すす)いだ。

 まっかな、血の色にも似た輝きがあらわれた。

 なんだろう、これ。

 ふたたびカサゴの腹から出た石のようなものを恭子は水で洗い、手のひらにのせてじっと見た。

 それは鮮やかな赤い色の宝石をはめこんだカフスボタンだった。しかも、一対そろっている。

 次の朝、親しくしている宝飾アクセサリー店「キメラ」の女主人が、首を振りながら言った。

「不思議なことがあるものね。これはルビー、それもいいものだわ。じゃ、また預からせてもらっていい? 」

 その週の木曜日にお茶を飲んだとき、女主人は今週末にまたお得意さんに呼ばれているのと言った。あのダイヤの指輪を買ってくれたお金持ちの屋敷に。

「このルビーの話しをしたら、すごく興味を持ったみたい。ふ、ふふ。きっとね、ダイヤほどじゃないけれど、いい値段がつくわよ」

 そして、日曜日。「キメラ」は定休日だが、女主人はあのルビーを持って、お客の屋敷に行っているはずだ。

 夜6時、恭子は、きょうも夫が秘密のポイントで釣ってきたカサゴに包丁をいれていた。まさか、ね。あんな事が三度もあったりしたら、それこそ気味がわるいわよ。そうおもいながらも、こころの片隅で、奇跡を期待していなかったといえば嘘になる。

 3匹目のカサゴに刃をいれたとき、包丁の先がなにかに当たった。

 え?まさか。

 左手の指先で慎重にとりだした。白い、ちいさな石のようなものだった。

 その時、電話が鳴った。そう大きくない音なのだが、恭子は心臓が止まったかと思うほど驚いた。包丁を置き、受話器を取った。電話の向こうで、おい出たぞという話し声がした。誰かが電話を替わっているらしい。

「もしもし、どなた様ですか」

 恭子が話しかけたが、しばらく無言のままだった。もしもし・・・とまた恭子が言ったとき、男の野太い声がした。

「どこで手に入れた。どうやって、あのダイヤとルビーを手に入れたんだ」

「どなたですか。なんのことか・・・」

恭子は背筋が凍り付くような恐怖を感じた。男の声には、そういう響きがあった。

恭子に、どこであのダイヤとルビーを手に入れたと聞いてきた男は、どなたですかという恭子の問いかけにかまわず、

「宝石屋の女がしゃべったよ。なにもかもな。おまえの亭主がおまえにあのブツをさばかせたってことはガキにだってわかる」

「ブツって、あのダイヤとルビーは、ほんとうにお魚のなかから出てきたんです」ほとんど叫ぶように恭子は言った。

 何をいっているんだろう、この男は。

「馬鹿言うなよ。キメラのおかみがうちに持ち込んできたからわかったんだ。おまえたち夫婦はきっとやつらの仲間だろうって言っている。ま、白状させるまではてこずったがな」

 冷え冷えとした声で男は言った。

「いつまでもとぼけているんじゃない。社長をどうした。どこに監禁した。隠さずに吐くんだ。今、若い者がそっちにいく。逃げられはしない」

 そう言って男は電話を切った。

「もしもし、もしもしもしっ」

 受話器をつかんだ手が白くなるほど握りしめたまま、恭子はたちすくんでいる。

 誰も知らなかったが、恭子の夫が釣っていたポイントは、暗黒埠頭の港側だった。廃港になって既に何年もたっている。一帯は立入禁止になっているし、ときどき得体の知れない連中が出入りしたり、死体が浮いたりするので、地元の釣り人は決して立ち入らないところだった。それだけに、魚が多い。とくにカサゴの魚影は濃かった。

 カサゴという魚は肉食の悪食魚だ。

 暗い海底にひそんで、エサになるものが近づくと敏捷に食らいつき、おおきな口で喰いちぎり、つつきまわし、呑み込むのだ。

 恭子が見つけた宝石は、抗争相手に拉致されて、行方がわからなくなった組長が身につけていたものだった。

 マンションの下の道路で車が急停車する音がした。

 恭子は息を呑んだ。階段を駆け上がってくる足音がどんどん近くなってくる。

 恭子の左手から白い石のようなものがゆっくりと落ちた。それは、電話の男が社長とよんだ「組長」の歯だったが、恭子には知る由もない。

 恭子の耳に、風呂場で演歌を唸っている、夫のご機嫌な歌声が聞こえてきた。