生類(ニンゲンを除く)哀れみの令

平成15年6月15日


つりがレジャーとして定着したのは、わが国では江戸時代からである。

大名旗本から裏店の職人までせっせとおかっぱり、沖つり、前(たか)つりと海の釣りを楽しんでいた。アイザックウオルトンの釣魚大全にも匹敵する本を著した人もいる。

目の前には豊穣の海、江戸湾がある。
江戸は居職の繊細な技をもつ職人たちの街だ。
仕掛けや竿にも凝ってやがて釣りは文化的な色彩をも帯びてきた。

だが、貞享二年(1685)から約四半世紀のあいだは釣り人たちにとっての受難の時期だった。言わずと知れた将軍綱吉による「生類哀れみの令」である。

暗君なしといわれる薩摩藩に及びはしないが、徳川にもそれほど変な将軍は出現していない。
吉宗のような事跡をのこした将軍もいる。だが、この綱吉はいけない。
犬や魚の命を助けたかわりに、漁師や趣味の釣り人、犬にかまれてこれを蹴った職人などを獄門をはじめとする極刑に処している。

釣りを見つかって伊豆大島に流された歌舞伎役者、投網の実演をしただけで捕らえられた元漁師もいた。
まあ、この将軍はファナティックだけれど、自分と取り巻きの享楽のために国民を餓死においやっているどこぞの国の将軍サマよりはましかもしれない。
宝永6年(1709)綱吉が死去したとたんに、この悪法は実質的に終焉した。
次に将軍を継承したのは家宣。
新井白石らを登用しその治世は「正徳の治」と賞された。次が徳川吉宗である。いわずと知れた亨保の改革となる。
幕府は将軍に強大な権限を与えていても、その血脈を断つほどの存在をあきらかに排除した。将軍そのひとよりも、幕藩体制自体こそが守られるべきものだった。あるいみバランスのとれた政治体制であったことも事実である。
まあ、四半世紀も悪法と知ってなお諌言できなかった幕閣も封建の世と思えば情けないがわからぬでもない。

隣りの国は日本の300年前などとは較べものにならぬ強権独裁人さらい帝国だ。政治体制などというシステムなどない。たった一人の独裁者とその取り巻きに飢えた国民が奉仕するという図式がシステムといえるかもしれぬ。偉大なる将軍サマが死ねば、あっいうまにその王朝自体が崩壊すると思うがどうだろう。

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