短編小説「フル・ムーン」
2001(c)hiken
...........Full Moon

【第一回】蔵を辞すの巻
【第四回】蒼天の満月の巻
【第二回】がんこ是園の巻
【第五回】蔵元と杜氏の巻
【第三回】是園紀宏の決意の巻

1.
片瀬一郎は58歳。鹿児島の焼酎杜氏である。いや、正確には杜氏であったと過去形で言わなくてはなるまい。たったいま片瀬は社長に辞表を出したのだから。
奥の社長室から出て、人影のない事務室で足をとめた片瀬は、壁際のロッカーから一本の四合瓶をとりだし、ロッカーのドアから自分の名札をはずした。右手に下げた四合瓶には真っ赤なラベルが鮮やかだ。この酒は昨年の仕込みの最後に造ったいも焼酎だ。結局片瀬が造った最後の酒になった。

事務所の引き戸を開けて、片瀬は外に出た。初秋とはいえ外ではまだまだ勢いを失わない南国の太陽が照りつけていて、ひろい駐車場いっぱいに明るい光が充ちていた。車のフロントガラスに反射した光がまぶしく片瀬の目を射た。駐車場の向かい側は原酒の貯蔵タンクがある棟だ。扉を開け放ったその中で、パートの女性がふたり、瓶詰め作業をしていた。和紙の袋に瓶を入れてクルクルまわし、手際よくビニール針金で留めて行く。薄暗い蔵のなかで、その白い一升瓶は、海を泳ぐ魚のように片瀬には見えた。
いまはまだ造りの時期ではない。
蔵は深い海の底にあるかのような静謐に充ちていた。

2.
片瀬が社長室に呼ばれたのは一週間前のことだった。
「これは内示だけどね、あなたにとって良い話しだと思うよ」
4月に赴任してきた社長は関西なまりの標準語を使った。
この蔵にそうとうの資本を入れた関西の会社で、長年総務課長をやっていた男だった。金の勘定はうまかったが、焼酎の造りについては何もしらなかった。たぶんなんの関心もなかったのだろう。
造りにはいる準備のために、片瀬が社長に相談しようとしていた矢先のことだった。

「片瀬さん、キミに本社出向の辞令だ。おめでとう」
片瀬は一瞬唖然とした。本社も支社もあるものか、彼はこの蔵の社員であり、杜氏なのだから。
怪訝な顔をした片瀬にかまわずに社長は続けた。
「本社の意向でね、もうこの工場での手作りは止める。もっと機械を増やして、合理化と増石を進めることになったんだ。キミには本社の総務付きで中国工場の準備をやってほしいのだ。むろん、中国に工場が出来たら現地に行って貰うよ」
わが社のバイオテクノロジーも活かしてすごい焼酎をつくる。大々的に売り出す戦略商品だ、中国の工場がその基地になる。キミにもやりがいのある仕事になるよ・・・・・・
「なんといっても、このとおりの焼酎ブームだ。本社も気がはいっているんだよ」

片瀬には社長の言葉はもう聞こえていなかった。

3.
片瀬は18歳でこの蔵に入った。それから40年が過ぎた。
黒瀬から来る杜氏について焼酎造りを学び、造りを任されるようになったのは35歳になった年からだった。
職人として焼酎を造り続け、蔵を支えてきたのは自分だと言う誇りもあった。
いも焼酎の仕込み時期以外は麦焼酎も造った。名前のないその酒はタンクローリーで大分にはこばれる。そこで初めて誰もが知っている製品として出荷されるのだ。自分の蔵で出稼ぎしているようなもんぢゃっどなあと思いながらも、片瀬は蔵のために造り続けたのだ。

「もう、やっせんかもしれんがよ(もうダメかも知れないなぁ)」
前の社長が溜息をついて片瀬に言ったのは、去年の仕込みが終わる前のことだ。
朝まだ早い時間だった。芋を蒸しあげる蒸気が真っ白な湯気となって立ち昇っている。
発酵を始めた二次もろみを舐め、強い酸味に頷いた片瀬に、社長が声をかけた。
「きのう大分に行ってきたたっどん・・・」
社長が大分のメーカーに呼ばれて出張したのは、あまりよい話しではなかったようだと片瀬は思った。クレームか?値段のことか?
「H酒類からきびしかこっを言われやったとな?未納税ぢゃってん、きちんと造ってきたがねぇ」
片瀬の言葉にすこし強い調子がこもった。

たしかに大手に桶売りする麦焼酎は、自分の酒ではない。
決められた規格を厳密に守り、大型の減圧蒸留機で蒸留、そしてタンクへ。移出された先で色々な原酒とブレンドされて、イオン交換樹脂による濾過、そして糖を加えて製品になる。その未納税原酒に、蔵や杜氏の個性といったものはむしろ介在してはならない。普遍化した酒質が一定のレギュレーションによって産み出されなくてはならないのだ。
だが大分の「メーカー」からのリモート「工場」であっても、片瀬は造りに手を抜くなどということを自分に許さなかったのだ。きちんと注文に応えてきたという自負がある。

「んにゃ、そうじゃなか。おまんさあはよくやってくれちょっど。ぢゃっどん、来年の未納税はいらんち言ってきたとを。H酒類が・・・」
片瀬は目を剥いた。
「ないごて?そげなバカなこっがあっもんね」
工場も二年前に建て増しし、大型の蒸留機も導入したばかりだ。製麹機も思い切って増設したというのに。
「ローンも終わっちょらんがね」
「なんとか、こん蔵を潰さんごっせんななぁ」
社長の声にはちからがなかった。

芋処理場ではパートの女性たちが、包丁片手に届いたばかりのコガネセンガンを下処理している。季節になるとこの蔵で働いてくれる人たちだ。何年も続けている年輩の女性が多い。サツマイモの傷を見つけだしヘタとともに切除してゆく。鮮やかな手つきだ。彼女たちの前では、ベルトコンベアーがカタカタと音をたてて処理を終えた芋を蒸し器に運び上げている。蔵は静かな喧噪にみちており、まるで呼吸しているようだった。

「きょう鹿児島にいってくっで。銀行にいろいろ頼んぢょっ事があっで」
なんとか生き延びる道をみつけるから、という社長の背中を目で追って、片瀬はしばらく立ち尽くしていた。

4.
はなしはとんとん拍子に進んだらしい。
本格焼酎の分野まで事業ドメインを拡大しようとしていた関西のメーカーが銀行の仲介で乗り出してきた。銀行とそのメーカーの出資歩合を加算すれば社長がそのまま居残るわけにはゆかなかった。そういうプランが提示されたということだった。

新任社長が蔵にやってきたとき、歓迎会で社長が言ったことばを片瀬はよく覚えている。
「酒はないのんか」
盃を口に近づけたとたん、新社長は口を歪めてそう言ったのだ。

4月以来、蔵の看板にも、焼酎銘柄にももちろん変化はない。カタチは薩摩の焼酎蔵のままである。だが、次の造りがどうなるか、片瀬は確信が持てなかったのだ。新社長が「本社」のマーケティング部からのプランだと言って片瀬に示すのは、ブームに乗って関東市場に受ける「いも焼酎」のスペックだった。

次の仕込みの時期に向けての新製品プラン。
関東、関西市場で大規模なリサーチを行った結果、市場が必ずアクセプトするいも焼酎のスペックをプランナーたちがはじき出したと言うのだ。
差別化可能ポイントは黒麹、かめ仕込み、小型蒸留機での丁寧な蒸留・・・。
なあに、それは片瀬が工場内の手作り蔵で造っている焼酎そのものだった。ただし、今の雑味をもっと抑えて飲みやすくと言う要求には片瀬はがんとして抵抗していた。
いも焼酎の旨みは、そして杜氏の魂は、まさにそこに残留するのだから。片瀬のこの原酒は濾過機を通さない。櫂を入れ、油分を丁寧に除くだけなのだ。そうやって何年ものあいだ造り続けてきた。ファンも多い。
片瀬には自分が杜氏であるかぎり譲れない一点だったのだ。

だが、「本社」から出される企画もネコの目のように変わっていた。
こだわりの手作り焼酎ではなく、こだわり風のいも焼酎を、大量に本社の系列業務店チェーンに流す方が得策ということに方針が転換したのだ。
造りよりプロモーションにコストをかけるべきだと「本社」の企画担当と営業担当の意見は一致した。
片瀬はそんなことは知らない。このままではいったい今年の造りにはいれるのだろうかと懸念していた矢先の「転勤内示」だった。

5.
「中国に行って、何をしゃあっとな、おまんさあ」
妻が聞いた。
「よくわからん。ぢゃっどん、冷凍芋か乾燥芋を大量に作って、ここの工場に送り出す仕事ぢゃなかどかい」
「焼酎は造らんの?」
「わからんど。バイオ技術がどうのち社長は言うちょっどん、杜氏が必要な仕事ぢゃなかよな気がすっど」
「そいで、いけんしゃっと(どうするの)?」
妻が白身魚の刺身を運んできた。ツマは「といもがら」だ。片瀬は魚で焼酎を飲むのが好きなのだ。
お湯割りは自分で作る。
焼酎3にお湯7の、やや薄目のお湯割りが片瀬の流儀だ。
「わい(お前)も飲んね」
「はい、もろもそかいね(いただきましょうか)」
にこにこしながら、妻が自分用にもうひとつのコップを持ってきた。
「蔵を辞めようかち、思っちょっと。オイは」そう言いながら、片瀬はお湯割りを作り、妻の前に置いた。
「よかどかい(いいかい)?」

そのとき、思いがけず涼しい夜風が、縁側に下げた簾を揺らして吹き抜けた。
妻は美味しそうにコップから一口飲んで言った。

「おまんさあの焼酎は、まこち美味しかどなぁ。こいをおまんさあから取り上げるちなぁ」
妻が微笑んで言った。
「よかよ〜、やめやんせ。暮らしはなんとでんなっで」
片瀬は立ち上がり、縁側に出た。

今年はうっかた(カミさん)と紅葉見物にでもいこうかな、片瀬はそう思った。
杜氏には縁のない、秋の行楽だ。
片瀬はゆっくりと簾を巻き上げた。
山の端から夜空を青く輝かせて、満月が昇った。

つづく



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