大石酒造訪問記
2006年9月はじめ、造りを始めるという大石さんに伺ってきた。
雑誌『dancyu11月号』の取材だった。雑誌に書いたレポートでは紙数の制限もあったが、こちらでは好きに書いてみたいと思います。なお、写真は雑誌では浜村女史でしたが、ここに掲載した写真はすべて「ひるね蔵」の撮影です。念のため「コピー禁止」です。

「なごぶいごわしたぁ(久しぶりでした)」「きばいやんせな(頑張ってね)」
空港のロビーのあちこちで交わされるお国言葉が耳に飛び込んでくる。言葉こそが祖国だと叫んだロシアの作家がいたなぁと、ふと思う。この土地を離れてもう30年以上にもなるけれど、いささか高ぶる気持ちの底で、「やっぱい、俺(お)いは薩摩人じゃらいよ」とつぶやいてみる。

空港からバスで二時間。宮之城の山を越え出水を経て阿久根へ。バスの客はいつしか私ひとりになっていた。阿久根駅前で降り、漁港の倉庫脇を抜けて船着き場まで歩いた。眼前に海がひろがっていた。空と海の群青が純白の波と交じり合い、まばゆいほどに目を射る。麦わら帽子をかぶったバアちゃんがひとり、岸壁に座って竿をだしている。
「釣るっね?」
「うんにゃ、やっせんがよぅ(ダメだよ)」

港を後に、国道を南に歩く。道は高松橋で二つに分かれる。左手に曲がり、波留(はる)地区へと歩む。時計台が見えてきた。大石酒造のランドマーク。昔ながらの煉瓦の煙突を切りつめて時計台にしたものだ。鹿児島県阿久根市波留、真夏の名残を留める日差しの中に、かすかに秋を感じさせる香りがあった。そして風の中に、あの薫りが確かに含まれていた。
焼酎の蔵が呼吸を始めている。米が、そして芋が蒸され、発酵している。そう、芋焼酎の新酒の季節を迎えている。

大石酒造で初蒸留があると聞き、お訪ねしたのだった。
しかも、「カブト釜」での蒸留だという。カブト釜は、蒸留という化学の原型だ。アジアの広いエリアで長い時間にわたって使われた道具である。「南島雑話」に登場する奄美大島の酒造りにもその絵がでてくる。モンゴルの遊牧民はモバイル式のカブト釜をいまなお愛用している。
「昔の焼酎を再現してみたくて」工夫を重ねて完成したというカブト釜式蒸留器。仕組みは簡単だが、安定した酒質を継続的に確保してゆくまでには並々ならない試行錯誤があったという。
蔵を案内して戴いたのは杜氏で社長の大石啓元(ひろもと)さん。東京で何度かお会いしたことはあるけれど、蔵をお訪ねするのは始めてだ。

「水と火の具合が難しかと」そう言う大石社長は「そこが工夫のしどころじゃったっどん」と笑う。あん人は技術者だから、と後で久美代夫人が解説してくださったのだが、困難に対して絶対に妥協せず「がんこ」に研究を重ねて完成したのが「カブト釜式蒸留機」だ。

その姿かたちはモンゴルや昔の奄美のものと変わらないが様々な創意工夫が詰め込まれている。約束なので詳細は書けないけれど、「昔ながら」だけでは自分の目指す焼酎のレベルにも、そして今の市場の要求にも応えることは出来ないのですよと大石さんが静かに語ってくれた。焼酎用の芋として開発されたジョイホワイトを原料芋として使用する「がんこ焼酎屋」には25度と35度のふたつの製品がある。35度の方がこのカブト釜で蒸留されたものだ。はじめてこの酒を飲んだのは六年前の夏。その時のショックは今でもはっきりと覚えている。
鹿児島弁で言えば、「まこち、品のよか」香味。トロリとした口当たりと度数を感じさせないスムーズなのどごし。それでいて骨格に剛性があり福々しい余韻が長く残響する。こんな酒は初めてだと驚いたのだった。

大石酒造の焼酎としては創業以来の銘柄であり白麹で仕込む「鶴見」と、黒麹仕込みの「莫祢氏」がよく知られている。「鶴見」の名は、かつて阿久根に飛来していた鶴にちなんだもの。初代長次郎が庭の松越しに大空を飛ぶ鶴の姿を見て名付けたものだろうか。また、「莫祢氏」はこの地を長く支配した豪族、あくね氏に因む。始め「英祢」であり、のち「莫祢」と変わり、薩州島津家臣(家老)の時代に至り「阿久根」となった。「莫祢氏」のラベルに「薩州島津」という朱印がレイアウトされている理由である。ほかにも社長の研究熱心とお人柄からか、多くの「プライベートブランド」がある。そのどれをとっても「同じ酒に違うラベルは貼りません」と事務所の女性従業員が熱く語ってくれたとおり、それぞれの酒に造りのこだわりがある。そして、その焼酎をプロデュースする人たちの「物語」がある。戊辰戦争での「荘内での戦い」と薩摩の古流「薬丸自顕流」に由来した「私領五番隊」などはその代表的なものといえようか。

「たんこどんも少なくなって」と大石さん。
たんこどん、というのは「樽(たる)」造りの職人のこと。むかしは村のあちこちで杉板を削ったり竹のタガを編んで樽に打ち込む音が響いていたものだが、いまやあの地方にひとり、こっちの地方にひとりと、指を折って数える必要もないほど少なくなってしまった。しかも高齢者だから体調を崩すともういけない。というわけで、大石さんのカブト釜式蒸留機の樽のタガは竹から金属製に変わった。

芋切り場でオバちゃんたちと語る。

手際よく芋のヘタを落とし、傷を切り取ってゆく。この下処理が酒質に影響する。芋焼酎の味がよくなったという最大の理由かもしれない。この瓶詰め場では数人の女性スタッフが手作業を続けていた。道向こうの工場で産まれた焼酎原酒は市道の下をくぐってパイプで瓶詰め場のタンクに移送されるという。道の下を焼酎が流れているわけだ。「市には道路の使用料も払っちょっとですよ」と事務員さん。阿久根市、しっかりしている。

午後五時、蔵の扉を閉めて灯りを落とす。
ふつうの仕事場ならこれで終わりというところだが、焼酎造りはそうはいかない。「午後八時、十時、それから午前二時ごろと、様子を見に来んとならんと」仕込んだ直後ではなく、発酵が進む頃合いに注意して見なくてはならないということである。焼酎造りには夜も昼もない、というのが実際なのだろう。

「そろそろ始めもんど」と声が掛かった。闇に沈んだ市道を横切り芋切り場に歩く。作業場に灯りが点っていた。蔵人たちが火を熾し肉を焼いている。さっきまで芋切りに汗を流していたオバちゃんたちがその連れ合いと一緒に座に着いている。ジイちゃんたちはもう焼酎のお湯割りを啜っている。毎年、焼酎造りが始まる時分に行われる「こしきあげ」という催事である。芋や米の蒸し器にちなんだ名だ。祭事というべきかも知れない。秋が過ぎ冬となり、やがて造りを終えるときがくると「こしきだおし」ということになる。大石社長の開宴の挨拶を聞くジイちゃんたちの目元はもうほんのりと赤い。「一番若い人で、76歳よ」と大石さんの奥さんが教えてくれた。蔵とともに長い時間を過ごしてきた人々だ。大石さんの幼い頃のおぼろな記憶の中に「蔵が動いている」様子が刻まれている。ジイちゃんたちは、ずっとずっと昔、その動きの中にいた人々である。

その輪の中で「鶴見」のお湯割りをいただいていたら、若い蔵人が飛び込んできて、「どうですか、うまいっすよ」焼き串をひとさら手渡してくれた。笑顔のいい青年だ。熟練した蔵人や研究熱心で(あまり商売熱心ではない)杜氏兼社長、そして若い世代。この蔵は明治32年の創業だ。蔵が歩んできた長い時間は確実に次の時代へと受け継がれてゆく。
「あす、がんこの蒸留をしもんで」「何時くらいからですか」「朝6時半くらいに蒸気をいれもす」「…わかりもした」

この夜、いい魚を出す店があるので行こうと大石さんがご案内くださったのは魚料理の「しらゆき」。カウンターには大石さんのご友人が「鶴見」のボトルを前にご機嫌だった。連れは奥様と娘さんだとおっしゃる。家族でのダイヤメ(晩酌)、よいものである。小上がりで大石さんと語りながら「鶴見」「莫祢氏」をお湯割りでいただいた。造った人の笑顔を見ながら飲みかつ語る。まことに幸せな時間。店主の花木さんも加わってくれた。「料理の基本は何ごわんそ?」そう聞くと即座に「こん、しょちゅん、しょけ(焼酎の肴)ごわす」と「鶴見」のコップを差し上げて花木さんが笑った。大石さんの造る「鶴見」はまさしく土地の酒。愛され続けている阿久根の地焼酎なのである。

翌早朝、蔵への道すがら阿久根漁港の競り市を見た。さすがに海の町である。トロ箱に並ぶ大鯛、指5本分はある幅広の太刀魚。デカい”まごち”。江戸の昔から銘酒を生んできた阿久根は、豊かな海の幸を誇る町でもある。


蔵ではすでにカブト釜での蒸留が始まっていた。およそどのような蒸留機でも原理は同じである。モロミを熱し、蒸気を冷却して液体とする。火と水のせめぎあいだ。ボイラーから送り込まれる蒸気が勢いよくモロミを攪拌するとき、蒸留機は鳴動する。
このカブト釜式蒸留器にはその鳴動がない。静かにゆっくりと酒を産み続ける。時間がかかる。造りを「商売」だけで考えるとその効率の悪さには耐えられないはずだ。もの造りの根底には効率では計れない何物かがあるということだろう。設置された二基のカブトの取り出し口から透明な液体が垂れ始めた。ハナタレだ。手で呷るように薫りを引き寄せてみる。70度ちかい蒸留原酒である。微かなガス香が先に立ち、続いて濃醇そのものの香りが鼻腔を圧倒する。「ほら、こいで」と大石さんがグラスを渡してくれた。舌先で利く。口内で広げ、すこし喉を通してみる。まだ垂れ始めたばかりの原酒。小さなグラスの中にはすでに「歓喜の秋」が立ち上がっていた。
ふと蔵のそとを見たら見覚えのある顔。

池袋の風俗もとい焼酎居酒屋「BETTAKO」の金本ちゃんだった。大石さんとなにやら密談酎。彼とこの蔵のなれそめは長い。いつも勉強させて貰っているその源泉はやはりフィールド、現場にあると思わせていただいたのだった。


「焼酎造りは、掃除じゃっど」「へ?」
大石酒造の工場は狭い。もちろん、大石さんの工場に限ったことではない。中小規模の焼酎工場は製造工程に沿った工夫が狭い空間に凝縮されているものである。この空間と、そこに詰め込まれ、組み上げられた器械や道具類で焼酎を造り出してゆく。焼酎も「造りにこだわる」そのこだわりの数だけ工程が複雑になる。麹、麹米、芋の種類そして仕込みの違いなどを取り違えたら大変だ。14個の和甕が埋め込まれたコーナーの壁面に「工程表」が貼ってあった。いくつもの異なった種類の焼酎を間違いなく造り上げてゆくには、この過密な工程表どおりに進行してゆかなくてはならない。従って一つの工程を終えた器具機材はただちにキレイにして次に備える。掃除を徹底しなくては酒質にも影響するからである。掃除の時間ももったいない、ということで三角棚から甕壺に麹米を移送するのはすべて人力である。


「がんこ焼酎屋」の一次仕込みが始まった。棒に渡したデカいポリバケツに麹米を入れ、二人で担いで甕に運ぶ。ベルトコンベアは掃除が大変だが、これならバケツを洗うだけですむ。大石式効率論の実践だ。甕二個分の一次仕込みが終わった途端、頭上で轟々とモーターが回り始めた。蒸し上がり、冷却された芋が、粉砕されタンクに投入されてゆく。「莫祢氏」の二次仕込みである。蔵人がタンクの底から芋を掻き上げるように櫂を使う。芋の塊をほぐすようにその動きはゆっくりとしているが力強い。
芋蒸し機を見上げるとその向こうに黒ずんだ梁や桟が縦横に組まれているのが見えた。それらの組木も屋根の裏も深い闇の色に沈んでいる。その闇の中からおびただしい生き物たちがこの蔵一杯に降り、広がり、舞う。大石さんの焼酎は、人の汗と水と火と、そしてこの生き物たちが造り出しているのだと感じたのだった。

「若け衆(し)達が芋の共同生産に取り組んじょいもんで、そこを見け行っもそ」と大石さんに案内されたのは蔵から車で十分ほどのところにある芋畑だった。掘り出された芋を見ると、今朝、蔵に搬入されたコガネセンガンより色白だ。「やっぱい、土次第で色合いは変わいもす」とニューヨークヤンキースのキャップをかぶった青年が言った。みな日焼けした顔がほころんでいる。「掘ってみらんと解らん」という、その掘った芋を両手に持って、写真に応じてくれた笑顔たちが眩しかった。

蔵を辞去して空港に向かった。蔵の門前で丁寧なご挨拶をいただいた大石社長ご夫妻。その温顔が空港までの車中で繰り返し思い出されて嬉しいそして感謝の気持ちで一杯になったのだった。
阿久根は薩摩国の北西部に位置し、黒潮洗う東シナ海に面した土地である。
古くは倭寇の出撃基地であり、薩摩藩時代を通して密貿易の基地でもあった。大石社長の穏やかな表情のすぐ下には、荒ぶる薩摩士魂が秘められているとお会いするたびに感じるのはそのせいかもしれない。

温顔という表現がピッタリの大石さん。だが、この笑顔のなかに激烈な薩摩士魂が秘められている。




「酒亭」入 り口に帰る

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