「酒と火の出会い」資料準備室

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ただいま、準備酎です

両方とも小型モバイル式の蒸留機ですが、アルコールの取り出しかたが違いますね。
左は内取り式(いわゆるモンゴル型)、右は外だし式。内取り式は蒸留の状況を経験と勘で推測するしかないのに対し、外だし式は垂れてくるアルコールの様子で経過を知ることができます(ハナタレも取れます^^;)。もちろん、構造は内取り式が簡単。

<取材協力:TaKaRa酒生活文化研究所>

年代 「南方伝来 説」 「中国・朝鮮伝来説」 TOPICS
南方の海路を使って、ヨーロッパの蒸留技術が東南アジアの土着の酒と融合しながら琉球王国に伝わって、「泡盛」を造りだした。(泡盛は、東南アジアのお酒に類似する点が非常に多い)この「泡盛」が、琉球貿易などの手段で、南九州に伝来し「焼酎」に姿を変えていったと思われる。

遣唐使がザビエルが、この地に上陸した。琉球から中国からそして遠く南方から数多くの海外文化が渡来した。 さつまいもと蒸留 技術の伝来もその一つである。ここに、従来の伝統的技法による日本の醸造酒は、伝来の醸造技術と組み合わさり、ひとつの極めて個性的かつ日本的な蒸留酒“本格焼酎”が生まれた。 華道・茶道・能・狂言・水墨画など、多くの伝統文化が輩出した室町時代後期のことである。紀元前3000年の昔、不老長寿への浪漫がメソポタミアで蒸留技術を生み、長い歳月を経て、世界の各地で蒸留酒として花ひらいた。

かまどによる加熱は、現在では薪からボイラーの蒸気にとってかわりました。泡盛が単式蒸留機を使っている理由は、蒸留機が古代ギリシャで生まれ、欧州はもとより、東アジア各地に蒸留酒を育てた由緒ある蒸留機であり、泡盛麹と酵母が作り出す香りをあますことなく蒸留で引き出してくれるからで
す。

もう一つは、ヨーロッパの酒造技術(蒸留技術)がシルクロードを伝わって中国に伝来し、遣隋使や遣唐使などで他の文化・技術と共に長崎の「壱岐」に伝わり麦焼酎の基礎を造って行った。これが「中国・朝鮮伝来説」。

焼酒は穀類、芋類を材料に醸造した酒を蒸留したものだ。
 酒を蒸留する技術はペルシャ地方で考案されたといわれ、それが同地方を席巻したモンゴルのジンギス汗によってアジアにもたらされた。朝鮮半島には14世紀後半に伝わり、そして15世紀頃から盛んに作られるようになった。焼酎は一般家庭でも、釜、蒸籠(せいろ)、そして鉄製の山なりになって先端につまみのついた釜のふたがあれば簡単に造られたが、主には古里(コリ)という専門の装置で製造された。
 この装置は上下、2つの部分に分けられ、下の部分のものは底が広く上にいくと狭まり、上の部分はその反対で底が狭く上で広がる。土、鉄、銅の3種類があり、焼酎の普及度が早く大量に生産された朝鮮半島北部の黄海道、平安道、咸鏡道、江原道などでは鉄、銅古里が、南部地方では土古里が多く使われた。

 作業は、釜戸で火を焚く人、冷水を汲んで運ぶ人、そして水を取り替える人の3人1組で行われた。
蒸留したものを再蒸留するとアルコール度数が上がる。3回蒸留した強い酒に「酎」という字をあて、つまり焼酒ではなく「焼酎」と呼んだ。

618白楽天(唐代)が「焼酒初めて聞き、琥珀香ばし」とうたう。ただしこの焼酒が蒸留酒であるかは定説無し。
9世紀に、中国大陸にアラビアの寄港地が存在した。また唐の勢力圏は朝鮮から中央アジアに至った。
北宋中期(1000年ごろ)、田錫「麹本草」で、シャム(タイ)の蒸留酒を紹介。

7世紀(641)アラビア人によるサラセン帝国の拡大。「アムビクス」にアラビア語の冠詞「aI」をつけて蒸留機を「al-anbic~アランビック~」と呼ぶようになった。東西にまたがる蒸留機の名称のルーツ。しかし、アラブ・イスラムは酒はむかしも今も御法度。蒸留機と酒の「蒸留」は別々の道にあった。

1271 元朝成立
アラビア伝来の蒸留機をモデルとしてカメと竹で組んだ蒸留機が登場。「飲膳正要」に「阿刺吉(あらき)という焼酒」が登場し、「居家必要事類全集」に製法の詳細がある。
1274マルコポーロ開平府到着
この時期とほぼ同時に朝鮮では「焼酒」の蒸留が知られるようになった。蒸留機「古里」によったかどうかは?である。

1404、1407 朝鮮から対馬に「朝鮮焼酒」が届く。1461 琉球王から朝鮮に「天竺酒」が届く。ココヤシの樹液を蒸留したもの。
この時代、中国との交易盛んなれど、輸入品目に「焼酒」なし

1477 漂流民による「李朝実録」により琉球諸島の「酒」に関する記述。沖縄本島には、「焼酒」ににた強い酒あり。

1612〜島津氏、琉球「焼酎」を徳川将軍へ
1672 琉球焼酎を「泡盛酒」と書くようになる



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