「酒と火の出会い」資料準備室

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蒸留機アウトラインメモ


「ガンダーラ型」紀元前150〜紀元350年あたりに出現

インド亜大陸を中心に広範に分布する蒸留機だという。石毛氏は下図の「チッタゴン丘陵」で、このガンダーラ型の蒸留機を用いて蒸留酒を密造(というより家庭内製造)している現場を観察している(1984.12)。
同書の画像によると鍋と素焼きの瓶、竹の管、バケツなど一般家庭用具を用いて作った蒸留装置だ。
このエリアは政治的に(少数民族を巡る)問題があった土地だから取材には気を遣った様子だがそんな緊張下にあっても人々は酒を造って飲んでいる、日本の昔とかわるところはないのだなと思った。


「東ユーラシアの蒸留酒」(「焼酎東回り西回り」所収)で、石毛直道氏が転載掲載されたものをベースとして新規アウトラインを描画したもの


「蒸留」はかなり複雑な科学であって高度に学術的構築のなされた実学ともいえる。だが同時に、家庭でも簡単に行える技術でもある。蒸留するものが液体ならそのまま鍋に入れればよいし、半固体や固体ならば、鍋の上に簀の子でものせればいい。その鍋を火に掛けて、立ち上る湯気を自然にあるいは強制的に冷却すれば再び液化する。それをバケツにでも流し込むことで、蒸留は完成する。言ってみれば、それだけのことなのだが、冷却効率の工夫、コンパクト性の追求、蒸留するものと得るものを沸点設定の違いで仕分ける工夫、なんといっても、酒質の向上への工夫などさまざまの改良が加えられてきた。



「第三の酒」(菅間誠之助/朝日ソノラマ・昭和50年)所収の「アレクサンドリア時代の銅製蒸留機」(パリ博物館蔵)の写真から描写。

アリストテレス(BC384~322)は4元素論によりワインの蒸留について記している。アレクサンドリア建設(BC331)以降7世紀のアラビア人による侵攻までエジプトのこの地で錬金術が隆盛だった。アラビア人によるサラセン帝国の拡大により蒸留技術と機械がひろく伝搬したことは確かだろう。アラビア語の冠詞をつけて、蒸留機を「al-anbic~アランビック~」と呼ぶようになった。ただし、錬金術師時代からサラセン帝国を通して、酒を蒸留したということは確認できないという。
だが、細々と生息していた錬金術師たちが、もしかして、アラビア人の目を盗んで、東洋の黄金国からもたらされた酒からなにかレアメタルを取り出そうとしたかもしれない(焼酎がとりだされた?)


(上)「モンゴル型」内取り式のいわゆる「かぶと釜」だ

(右)蒸留された酒が外だしされる。中国型というスタイルに発展している。

わが国で「焼酎」の二文字が国史に登場するのは、1559年薩摩大口の郡山八幡神社。だが、「李朝実録」などの記録にみると、1400年代には国内での蒸留が行われていたと考えるのが自然かもしれない。
左の図は、モバイル性にすぐれたモンゴル型の蒸留機。これの発展型がいわゆる中国式という外だし型だ。(下図)


ただ、元の時代(1279〜1368年)にはほとんどヘレニズム型の外部冷却システムによる蒸留機、及びその製法により「焼酒」があらわれたと、「居家必要事類全集」からみることができる(「第三の酒」による)。

ここで、現代の蒸留機を見てみよう。この絵は「木桶蒸留機」だけれど、ステンレスの機械も構造的には同じ。冷却システムは水冷式に改良された「ヘレニズム式」に近いことがわかる。

日本で使用されてきた蒸留機はどういうものであったのだろう。江戸時代の文献※1から、上記の「中国式」カブト釜が長い期間にわたり変わることなく使用されてきたと考えられる。



※1
「本朝食鑑」平野必大
「和漢三才図会」寺島良安

江戸時代からの焼酎の名産地、阿久根の「大石酒造」がこのカブト釜式蒸留機を復刻した。その釜で造る芋焼酎は「がんこ焼酎屋35度」、濃醇な味わいの焼酎だ。



木桶蒸留機の魅力」から。
しかし、ここで鹿児島独特と思われる「蒸留方式」が出てくる。「ツブロ式蒸留機」による方式がそれだ。円蓋状の天井で蒸気が冷却されて、釜内部の周囲の溝に液化してたまり、取り出し口から焼酎が出てくる。「らんびき」であり、「ちんたらり」とも称される。朝鮮型蒸留機の「古里」とほぼ同じ構造である。このあたりに、朝鮮と薩摩の接点が伺える。



陶器製の「古里」。(取材協力:TaKaRa酒生活文化研究所)

  


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