手控え(14.9.29)より
てげてげに、ということ(マスとワンtoワン改題)

コミュニケーションを直訳すると「通信」に近い意味になるが、実のところ「交流」といったインタラクティブ(相互)的な用法であることが多い。
一方的な交流、というのは言葉として矛盾だし、それはただの伝達でしかない。北朝鮮のコメントを鵜呑みにして、ただ垂れ流すだけの官僚たちの振る舞いを、拉致被害者の家族とのコミュニケーションと言わないのがよい例だ。
マスコミはマス・コミュニケーションの略だ。この場合は、マス(大衆)に対してのワンウエイの情報伝達というしかない。それでもマーケティングビジネスならば、他のスタイルのコミュニケーションとミックスすることで大衆の心理にヒットするコミュニケーションに構築することができる(場合がおおい)。
これが、メディアとくに特権的知識階級意識の強い「大新聞」になると、コミュニケーション学の進歩という時計の針を逆に回さなくてはならない人々(あるいは会社)がいまだに存在する。

拉致がなかった(というに等しい姿勢をとっていた)新聞社が、その取り巻き文化人や政治屋と同様に、完全に口をぬぐって変なことを囀りはじめている。決して己の誤りを認知しないのも彼らの特性だ。

どちらかといえば「釣り」のファンが多いひるね蔵本隊の読者には印象が薄いかもしれないが、ある全国紙が夕刊の一面で、鹿児島のある焼酎蔵元に(経緯は別途とするが)、決定的なダメージを与える意図を持ってディスインフォメーションを掲載した。
そのカウンターパートあるいは第三者からの論評が出る前に、その記事によって、蔵元を非難する業界関係者が全国に発生した。
彼らは市場のことを思う正義感から感想を述べたというのだろう。だが、その前提になっていたのは(私が知る限り)その全国紙の非常勤記者が意図的に書いた「煽りと悪意」にみちた記事だった。
それから数ヶ月過ぎた現在、その記事が、すくなくとも真摯な取材によったものであると信じる人はだれもいない。問題の大きさから考えると信じられないことだが、執筆した記者の追記事もない。そして蛇足ながらその記事に乗って発言した人でいささかでも自分の姿勢を修正したひとがいたとは、いまだに聞かない。

ことほどさように、マス・コミュニケーションは強烈に大衆に作用する。
一元化された反応を引き出し、ある方向に流れを誘導する。そして大衆がそれに乗ることを、発信者は知悉している。これではまるで、我が国もどこかのテロ国家と同じではないかと疑ってしまう。

ワン ツー ワン、というのは、マスの反対語だ。お互いの考えと希望とが見える関係でコミュニケーションすること。相互に顔が見えればさらにいい。その顔がはじめはひきつっていてもやがてほころび、笑顔に変わる、これがワンtoワン・コミュニケーションの最高のスタイルだと、嫌な事件が多い今日このごろ、痛切にそう思う。


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