「きばっど!網界本格焼酎党」

暖流色の居酒屋で

 先客はひとりのお爺さんだけだった。
 ここはまだ武蔵野の面影をのこす東京郊外。駅前商店街のはずれにある居酒屋だ。
 初めての店だった。意外と人見知りする性格のKクンは引き戸をそっと開けて店の中をのぞき込んだ。Kクンの足元にまとわりついていた宵闇を、戸の間からこぼれた暖かい灯りが流し去った。魚を焼く香ばしいにおいがKクンの胃袋を刺激する。7人も座るといっぱいになるようなカウンターだけの狭い店だ。
 女将さんが小さな、しかし明るい声で「あ、どうぞ」と言ってくれたのでKクンはほっとした。カウンターの奥の隅にちんまりと座って店の中を見渡す。壁一杯に貼られた酒のラベル。女将さんの後ろの棚には一升瓶ではなく大振りのカメ壺が並んでいる。ここにある全部がJ氏が教えてくれたとおり、本格焼酎だ。
 女将さんの直ぐ前に座っているお爺さんは、もうすでに半睡状態。肘をつき、ガラスコップを前において首を垂れている。

「小鹿本にごりをお湯割でください」Kクンがそう言った声で目覚めたのだろう、お爺さんがゆっくりと顔をあげた。コップに残った焼酎をゆっくりと飲む。女将さんはちょっとだけ驚いたような表情を浮かべてKクンを見た。そして小さくうなずいてお爺さんのコップをまた満たしてやり、それから棚の高いところにあった一升瓶に手を伸ばした。
「こちらはよくお出でになるの?」
「仕事で近くまできたものですから」
 そう答えてKクンはまた店内をゆっくりと見渡した。天井近くまで棚が立ち上がり、本格焼酎の一升瓶が並んでいる。いろいろな酒器もさりげなく飾られていて、はっきりいって絵になる!
 Kクンが居酒屋探検隊的な番組企画をアタマの中に描いたのも無理もなかった。
 女将さんがお湯割のグラスをKクンに手渡した。突き出しは小皿に盛られた小魚の焼き物。さっきの一言だけで女将さんはまた無口になった。半睡状態のお爺さんに、女将さんのさりげない気遣いの眼差しが配られているのにKクンは気づいた。静かな店だ。とても静かだが明るく、暖かい南の海の、海流のように、ゆっくりとした時間が流れている店だった。

 戸が開いて、ちょっと太った中年のサラリーマンがひとり店に入ってきた。
 Kクンとお爺さんの間に座り、ビールを頼んだ。黙ってビールを飲み、中瓶を一本空けて勘定するまで20分ほどだっただろうか。立ち上がって戸に手を掛けて振り返り、女将さんに「お爺さん、大丈夫かね」と声をかけて出ていった。返事はなかったが、Kクンには女将さんの横顔に笑みが浮かんだのが見えた。

「おとうさんが生きているときは、ビールもなかったのよ」
 Kクンが、この店の焼酎の品揃えは凄いですねと言うと、女将さんがそう答えた。
「いつもいつも通ってくれるお客さんが、ビールも飲みたいねと言えば、無いと気の毒でしょう」
 うちのおとうさんは頑固だったからねえ、と女将さんは付け加えた。
 Kクンの質問に女将さんは思いがけず丁寧に答えてくれた。夫婦揃って焼酎が好きで、この店を始めたのだそうだ。薩摩の人ではないことはJ氏に聞いていたが、ここまで焼酎に入れ込んでいる人がいるとはKクンには驚くばかりだった。

 女将さんが「これを試してみて」と棚のカメから汲んで、ちょこで出してくれたのは鮮烈ながらまろやかな口当たりの焼酎だった。青酎の熟成なのだという。

「取材とかが結構あるんでしょう?」Kクンがそういうと、女将さんの顔が曇った。
「ここでもう30年もお店をやっているの。長くお世話になっているお客さんたちが大切なのよ」
 女将さんはそう言って、すでに熟睡しているお爺さんに目を遣った。
「千円貰って、この店に来て、ゆっくり焼酎をのんで、このばあさんの顔をみて、それで幸せなお客さんたちがいるのだから、わたしはもうそれでいいの。有名な店なんかにはなりたくないの」
 店の外を写真に撮られるのは仕方がなかったのだろうけれどね、と、女将さんが溜息をついた。
「店内の写真を撮られたことがあったわねえ。ダメといったのに聞いてくれなくて・・・」
「・・・・・・」
 お爺さんがゆっくりと体を起こした。
 女将さんが「焼酎、もうすこし飲む?」と聞いた。
「ん」とうなずいたお爺さんの目蓋が、またゆっくりと閉じていった。

 Kクンは、この店のことは誰にも話さないぞとこころに決めた。
 勘定を払って戸を開けた。外は明るい月夜になっていた。
 そのときKクンに、J氏の笑い声が聞こえたような気がしたのはそら耳だったのだろうか。
酒亭表紙へ  夜話目次へ