電話の向こうは


 玄関脇の夫の部屋で、携帯電話が鳴っている。
「今朝、慌てていたから、忘れていったのね。仕方ないわねえ」
 綾子は簡単にすませた昼食の後かたづけを終わって、コーヒーをいれていた。しばらく鳴れば、自動的に留守電に切り替わるはずだ。綾子は放っておくことにした。
 築13年と古いマンションだがやっと持てた我が家。1階の真ん中で、狭いながらも、専用庭付きだ。入居して5日目。ダイニングの片隅には、まだ引っ越しの荷物を詰めた段ボールが積み上げてある。
 午後の静かなひととき、ちょっと苦めの薄いコーヒーをゆっくり味わうのが綾子の楽しみだった。
 ささやかだが大切な自分の時間。綾子はカップについだコーヒーに少しミルクをいれた。砂糖は入れない。30才を過ぎて、すこし脂肪の付いたおなかが気になりはじめている。
 夫の部屋で鳴っている携帯電話は、一向に鳴り止まない。
 そういえば、と綾子は夫が言っていたことを思いだした。
「携帯をどこに置いたか忘れたとき、自分でかけて呼び出し音で探すんだ。するとね、机の中とか、鞄のなかで鳴り出してね、ホッとすることもけっこうあるんだよ」
 主人かもしれないし、やっぱり出てみようと、綾子は書斎のドアを開けた。 
 夫の整然と片づいた机の上で携帯電話が鳴っていた。
 受信のボタンを押し、携帯を耳にあてた。
 電話の向こうから聞こえてきたのは、知らない男の声だった。

「よく聞きなさい。時間がないからね」

 すこし訛のある年輩の男の声には、静かな緊張感が漲っていた。

「どなたでしょうか。主人なら会社のほうに電話していただけないでしょうか。ご面倒を・・・」

 綾子の言葉をさえぎって、その声が言った。

「時間がない。奥さんは玄関にカギをかけていないね」

 驚く綾子に口を差し挟ませずにその声が続いた。

「すぐカギをかけなさい。2、3分後に誰かがやってきてドアを叩くはずだ。でも、どんなことがあっても、ドアを開けてはいけないよ」
「あ、あなたは誰、誰なんですか」

 そう綾子が聞き返したが、その声は、早くカギを、時間がない、と言って突然に消えた。電話が冷たく綾子の手の中で濡れていた。


 携帯電話のその声が言ったとおりだ。綾子はドアにカギをかけない。この古いマンションはまだ農村の面影を強く残した郊外にあった。空き巣事件すら聞いたこともないほど穏やかな町なのだ。
「時間がない、早く、ですって」
 急な不安感に襲われた綾子は、携帯電話を持ったまま玄関に走った。
 玄関のドアはカギをかけていないどころか、風通しを良くするために少し開けてある。綾子は大急ぎでドアを閉め、ロックした。チェーンキーもかけた。 
 やはりすこし開けてあったドア横の小窓も締めて、ロックした。
 コンクリートの通路を激しく走る音がして、誰かがドアにぶつかったのは、その直後だった。ドアノブをガチャガチャと回し、カギがかかっていると知ったそれは、ドアを激しく叩いた。
 綾子はたちすくんだまま、声もでなかった。
 その時、何人もの男たちが叫ぶ声が起こり、ドアの外に殺到してきた。人の体がぶつかりあい、絶叫が聞こえ、やがて急に静かになった。
 チャイムが鳴り、ドアフォンから男の声がした。
「警察です」


 朝刊を読んでいた夫が、昨日の事件のことがでている、と言った。
 金を強奪しようと、近くのコンビニを襲い、店員を刃物で傷つけ逃走した犯人が逮捕されたという記事だった。覚醒剤中毒だったらしい。人質をとってたてこもろうと逃げ込んだマンションで、追跡してきた警官に捕まったと書いてある。
 このあたりも物騒なんだね、カギをかけていて本当に良かった。おっと、今日は携帯電話を忘れないようにしなきゃ、いや昨日は不便で参ったよ、そういって夫は出かけていった。
 綾子は夫に「あの声」のことを話していない。夫にだけではない、警察にも言わなかった。携帯電話から聞こえてきた、得体の知れない男の声に救われたなどといっても、もちろん誰も信じてはくれないだろうから。
 午前中の家事を終え、綾子はコーヒーを煎れた。新聞に折り込まれていたチラシの束を広げる。このマンションを買ったばかりだというのに、不動産のチラシについ目が行ってしまう。リフォームの業者のチラシもあった。
 古いマンションだし、とくにこの物件は、ここ8年も空いていたという。管理会社が手を入れてはいたが、人が住まないと家は荒れる。綾子にも、あちこちに気になるところがあった。近いうちにリフォームが必要かもね、そう思って綾子はそのチラシを取り分け、残りのチラシをちり紙交換用の回収袋に入れた。
 コーヒーを飲み終えて外を見る。晴れ上がった青い空が目にまぶしい。
「洗濯ものが良く乾きそうね、助かるわ」
 洗濯機のモーターがカタカタッと鳴って、停まった。短い電子音がして、脱水が終わったことを知らせた。
 綾子が、洗濯物を干そうと立ち上がったとき、すぐ脇の棚に置いてある電話が鳴った。
 受話器に手をのばして、綾子は思わずドキリとした。あの声だったら、どうしよう。


 電話の向こうからかすかに聞こえてきたのは、あの声だった。
 すこし訛のある年輩の男の声。遠いところからゆっくりと響いてくるように綾子の耳には聞こえた。

「庭に出てはいけない。いま庭に出てはいけないよ」

 その声はそう綾子に言った。

「あなた、誰なんです。なぜ・・・」

 綾子に最後までいわせずに、電話が切れた。
「いま庭に出るな」そう言って消えた声が、耳に残った。
 受話器を置き、綾子は庭のほうをふりむいた。
 高い植栽で囲まれた小さな専用庭には午後の陽の光りがあふれている。訳もわからないままに、綾子はテーブルに戻った。フラスコには、コーヒーの残りがある。暖めてもう一杯飲むことにしよう。

 最上階のベランダの外側に吊ってあったプランターが、その時静かに動いた。腐食していたS字フックが、大型のプランターの重さを支えきれずに、とうとう引力に屈したのだ。ゆっくりと傾き、片方のフックから滑り落ちたプランターは、すぐ下の階のベランダに同じように吊ってあった小鉢と白いプランターにぶつかり、もつれ合うように落ちていった。次々と階下のベランダの縁に激突し、はじけ飛び、縁に置いて合った花鉢を巻き込んで落下し、綾子の物干し竿の上に降り注いだ。
 庭を見ていた綾子の目は、大きく見開いている。あの声がいったとおりだ。外に出ていたら、あれはわたしの頭の上に落っこちていたんだわ、そう思ってコーヒーカップを持つ手が凍った。

 最後のプランターが土くれと共に落下した。やがて静かになり、狭い庭にもうもうと沸いた土煙も次第におさまってきた。綾子はまだコーヒーカップを手にしたまま立ちすくんでいた。「あの声」が教えてくれなかったら、今ごろわたしは・・・そう思うと綾子は鳥肌が立つ思いだった。
 その時、電話が鳴った。
 綾子は、コーヒーカップをテーブルに置いて、受話器を取り上げた。
 訛のある静かな声が聞こえてきた。明るい、優しい声だった。

「大丈夫だったね。よかった」

 綾子は、なぜか心が穏やかになるのを感じながら、

「これで、2度も助けていただいたのね。ありがとう。でも、あなたは一体どなたなの」

 電話の向こうで、誰かがすこし笑ったように綾子には聞こえた。

「こんどは、こちらの頼みをきいてくれないかな」
「・・・はい、どんなことですか。頼みって」

 その声が、静かに言った。
「マンションの機械室を知ってるかな。うちの、いや、お宅の直ぐ下の地下室だ。そこの排水溝に落ちてしまってね、首の骨を折ってしまったし、手も動かない。もうここに8年もいるんだ。それに、ここは暗くて・・・」

おわり