◆五. 文 恵 誰が助ける午前四時

 たましいを売ってもいいわ。

 文恵は瞼(まぶた)がくっつきそうになるのをこらえながら、そうつぶやいた。

「悪魔でもいい。この仕事、明日の朝までに仕上げてくれるんなら・・・」

 一般職から総合職への抜てきをかけた企画作業なのだ。文恵は二十六才。短大を卒業し、中堅どころの広告代理店に勤務して六年たつ。経理部から営業部のアシスタントに移ったのが二年前だ。希望して外回りの仕事にも出して貰っている。ある新規スポンサーへのプレゼンテーションに向けて、社内会議で文恵が出したアイデアが営業部長に受けた。

 社内昇格試験を受けるまでもないぞ、このプレゼンがうまくいったら、オレから局長に話して総合職に「抜てき」してやる。そう力強く言った部長の声がまだ文恵の耳に残っている。

 いつの間に眠ってしまったのだろうか。はっ、と顔をあげた文恵の目に、窓の外の光りが眩しかった。

「え、もう朝なの。自宅に持ち帰ってきた、徹夜しても仕上げなくてはならない資料。きょうの打ち合わせには、絶対必要な資料なのに」

 文恵はパソコンデスクから顔を上げた。窓の外に目をやる。確かに外は明るい光りで満ちているようだ。しかし、朝の陽の光とは違う。異常に赤い、血の色のような輝きだった。

「ワシを呼んだのは、あんたか」

 ドアが開いて、赤い光りが流れ込むように部屋を満たした。その光りの中に、ひとりの老人が立っていた。

「あんたの代わりに仕事をやってあげてもいい。ワシは年だから、代わりの者を寄こしてあげよう。約束してもらいたいが、その者の顔を見てはならぬ。それから、代償だが、たましいなんか要らないよ。そんなもので商売ができたのは何百年も昔のことだ。今の世の中、悪魔でなくても、ひとの魂なぞ信用できるものかね。ワシが欲しいのはじゃな・・・」

 そのあと、その老悪魔がなんといったかは、文恵には聞こえなかった。遂に眠気に打ちまかされてしまったのだ。

 翌朝、文恵が目を覚ますと、仕事部屋の机の上にプリントアウトしたものが置いてあり、その上に、新しいデータをいれたMOもあった。昨晩老悪魔が約束した通り書類は完成していた。文恵には一目で完璧な内容だとわかった。

 次の夜も同じだった。文恵が書類やデータを持ち帰ってパソコンの前に置いておくと、夜の間に誰かの気配がして、最後はプリンターがかすかに音をたて、翌朝には新しいデータとプリントアウトされた書類が整理されて置いてあるのだ。

「君の仕事は、まったく見事というほかはないね」

 部長の賛辞の声はますます高くなってきた。

 数日後、プレゼンの準備はほぼ終わりに近づいた。

「君、相当に疲れているようだなあ。休んでいないのではないのか。無理するなよ」

 文恵を見る部長や仲間たちの目が不思議そうな表情になってきていることに、じつは文恵も気づいていた。自宅に持ち帰った仕事は、夜の間に老悪魔が寄こした「誰か」がやってくれる。文恵はぐっすりとやすんでいる、はずなのに、体調が崩れつつある感じがしてならないのだ。

 鏡を見ると、頬が削げている。髪には幾筋かの白髪まで出ている始末だ。

 その夜が、最後の作業になるはずだった。文恵はいつものようにデータをパソコンの前に置き、寝室のベッドにもぐりこんだ。

 その夜半、仕事部屋につかっている、隣の洋室で小さな音がした。「誰か」が仕事をしているのだ。この夜が最後かとおもうと、文恵はついその「誰か」を見たくなったのだ。老悪魔は「見てはいけない」とはいったが、見たら罰を与えるとはいわなかった。好奇心に負けて、文恵は隣室へのドアを静かにゆっくりと細目に開け、のぞいた。

 パソコンの前にすわり、一心にキーボードをたたいていた「誰か」の手が止まった。それはゆっくりと顔を回し、うしろを振り返った。

 文恵が見た、その顔は・・・。

「誰か」が文恵を振り返って見たとき、すこし不思議な気がしたのは確かだった。あそこにいるのが自分で、のぞき込んでいる自分は実体のない空気のように文恵には感じられたから。

 その顔は、文恵の顔だった。目は白く、口は半開きで無表情だが、間違いなく自分の顔だ。

 仕事をしているのは、文恵自身だった。自分で仕事をしていたのだ。

 あの老悪魔は、魂を抜いた文恵の頭と体を使って、仕事をさせていたのだ。

 これで文恵の疲れがとれるわけがない。

「これってインチキじゃない。あの爺い悪魔ったら」文恵が叫んだとき、

「さあ、約束だよ。これで仕事は終わったはずだ」あの老人の声が後ろで聞こえた。自分が磁力に吸い寄せられるように仕事を終えた体と合体したのを感じながら、文恵は振り返った。そこには黒いケープを羽織った老人の皺顔があった。歯のない口を開けて、笑っている。

「後継者が少なくてね、ワシの世界でも。困ってるんだ。約束だからうちの息子の嫁に来て貰うよ」そういう老悪魔の手には、鈍く光る大鎌が握られていた。

「ぎゃー」と叫んで、自分のその叫び声で目が覚めた。

 文恵はベッドに起きあがった。額に汗が浮かんでいる。

 夢、夢だったのね・・・長い夢だった。疲れがたまると妙な夢を見ると言うけれど、確かにそのとおりね。 あすの最初の打ち合わせ用の資料ができていないので、プレッシャーがかかってるんだわ、と文恵はまだドキドキと脈打っている胸を押さえた。

 窓の外が明るい。カーテンを通して差し込むまばゆいほどの光が部屋中を満たしている。

 今日のミーティングから、すべてが始まるんだわ、しっかりしなきゃ。文恵は洗面所にいこうとベッドから降りた。

 仕事部屋のパソコンの上の時計を見ると、なんとまだ午前四時だ。

 机の上にふと目をやった。プリントアウトした書類の上にMOがきちんと置いてある。

 え、誰が・・・

 その時、カギをかけていたはずの玄関のドアが音もなく静かに開いて、赤い血の色のような光りが一筋、差し込んできた。

 誰かが、はいってくる・・・。 

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