平成14年1月〜6月の手控えです。
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手控え欧州篇

289話 14.6.16
塞翁が馬
・愛用していたマック「Power Macintosh 7500/G4」の内蔵ハードディスクが崩壊した。
・「北と南の杜氏を囲む会」で楽しい時間をいただいた。
・日本サッカーチームがベルギーと善戦し引き分けた。
・マックの外付けハードディスク(ひるね蔵のコンテンツが全部はいっている)が沈黙し、立ち上がらなくなった。
・鹿児島出身の大先輩から拝領した1斗5升の甕を木枠を加工してサーバーとして部屋に鎮座。このサーバーはソフト的にはまず壊れない。
・甕に5升分くらい25度の芋焼酎を注いだ。いずれは原酒を1斗5升入れて貯蔵する予定。楽しさも一緒に詰め込みます。
・マックの内蔵CDが動かなくなり、CDからの起動すら不可能となった。
・日露戦に見事な勝利。露西亜では暴動すら起きたらしい。久々に快哉を叫ぶ。
・マックを分解し、フラットケーブルをチェック。まだメモリが高価だったころ爪火で少しづつ購入して挿したDIMMの列をみると哀感そぞろ。
・日本がチュニジアに快勝。ベスト16に!まだ、負け試合がない!すばらしい!
・マックが完全に崩落。借りてきた古いマックにプロバイダーのサーバーからダウンロードして直近のファイルを確保した。(外付けが突然沈黙したので)
・鹿児島の友人からマック支援物資調達の嬉しい知らせが。これでハードを修復できたら蘇生が可能となるかも。ありがたい。
・借り物マックにスカ爺変換アダプタ(4千円もした)を介して沈黙の艦隊(外付けハードディスク、MO、スキャナー)を接続して、海千山千、いや、海の神と山の神にお祈りし、ついでに般若心経をとなえ、バテレン渡来の機械ゆえ十字をきってから電源を投入した。みごとに艦隊が動き出した。ひるね蔵の本隊ファイルも復活した。(手控えファイルも消失していた)あとは本隊の修復・・・。

いや、人生万事塞翁が馬というけれど、一喜一憂するより状況をたのしむくらいが良いのかもしれない。

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288話  14.5.25 居酒屋の職人
いま流行の焼酎バー。仕事場がある六本木から程近い西麻布にもいくつかある。
そのひとつに行ったとき、お湯割りの味や温度を確かめているのか、あるいはパフォーマンスかはわからないけれど、店のスタッフが、グラスからひとさじ掬ってテイスティングしていたのを見たことがある。それを見て(理由がどうであれ、当人たちは真剣なのだろうが)つい笑ってしまったのを覚えている。
この店は若い男女がオシャレに集う店だ。焼酎の店がかくも・・・と嘆息するくらい繁盛している。

かわ清は中央線沿線の某商店街にある小さな居酒屋だ。店頭に吊られた提灯に「焼酎」と大書してあるのを見ただけで、この店のコンセプトがわかる。ここの女将は、お湯割りの注文があると、さっとちろりに酒と水をいれ、コンロにかけた薬缶の取っ手にそのフックをかけて、薬缶のお湯で燗をつける。その間に、からからや陶器のコップにポットからお湯を入れて、器を暖める。湯煎した酒を酒器にうつして客に供する。一連の動作は流れるようにスムーズで、素早い。まったくムダがない。それでいてガラス玉を転がすような独特の声で、穏やかに客と話すテンポはかわることがない。もちろんスプーンを使ってテイスティングなどしはしない。そして盃に注がれた酒は完全に適温だ。まさしく職人芸というべきだろう。職人の技は、速醸などできない。心と時間が注ぎ込まれ、ゆっくりと醸されていくものだ。

いま、本格焼酎や泡盛がブームだという。居酒屋に通う飲兵衛としても、それは感じている。東京には、雨後の竹の子のように「焼酎バー」が出現している。関西でもおなじらしい。先日、都心部の、ビル全体に飲食店を展開する大資本が、本格焼酎だけを扱う(オシャレな)店をそのビルに開店した。「おいおい、ダイジョーブかい?」と思ったけれど、つい行ってしまった。それで、どーだったかというとですね、がっかりしました。
ブラックタイのにーちゃんが言った。
「この焼酎はお燗はいたしません」 (注文したのは、萬膳だった)
なぜ?ときくと、燗に向かないと、本社から言われていますので・・・と訳の分からない弁解をした。
「森伊蔵は、一杯1200円になっております」(一杯というのは、60mgだった)
30杯とって、36000円だ。これでは、悪徳流通が絶えないはずだ。
規模で利益をださなくてはならない企業にとっては、焼酎といえどもかっての清酒と同様、利益商材にすぎない。売れるときには投資し、火が下火になれば、回収して終わる。次の利益商材を求めて。
だが、そんな店だけでないことはよく知っている。かわ清ばかりではない。武蔵小山のからいもの里をはじめ、四ッ谷三丁目の羅無櫓も、芝大門のひじり亭も、神楽坂のアクビも、神宮前のきばいやんせも、渋谷のたもいやんせ、五臓六腑、古典も、ほんとうに焼酎の好きな店主氏ばかりだ。ほかの地区にも、まだまだあるだろう。新所沢のいづみも忘れてはいけない。どの店もせいぜい10坪たらずのちいさな店ばかりだ。だが、そこにはほんとうに焼酎を愛し、造っている人たちの思いを伝えたいというこころざしがある。銘柄をならべて、マニュアルにそってバイト君が答えるマスプロモーションの店ではまず勝負にならない熱さがある。店は小さくともそういう飲兵衛とのインターフェイスをこそ、大事にしたいものだと思う。マスマーケティングはCRMやCS等と言いつつも結局はブランドでの売りに帰着するが、造りの職人たちが思い浮かべるのは、飲み手=ユーザーの笑顔にほかならないのだから。CRMやCS=ユーザーとの関係や満足度をマーケティング目標とする考え方のこと)

(平成14年5月24日のダイヤメ日記から)・・・マスプロダクトとマスマーケティングが全能であった時代が終焉したことを考えずに、カタチだけの「焼酎ブーム」に乗った大資本の参入が相次いだ。失敗するにちがいないと思っていたら、まさにそのとおりになった。大資本はこのカテゴリーで失敗してもそれはケーススタディの一つに過ぎない。次の利益ドメインに転換すればよい。しかし、彼らが去った後の地場の荒廃まで彼らは責任をもつことはない。

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287話  14.5.5 端午の節句

鯉のぼりによく似合う焼酎ですね〜




......あく巻き...あまり甘美ではない
..................................けれど懐かしい思い出の味


端午の節句の祝い菓子といえば「柏餅」。
だが関西では圧倒的に「ちまき」となる。ちまきは上新粉ともち粉とを合わせてつくった生地を熊笹の葉で包み、い草で巻いて蒸したもの。
日本の食文化は中国から伝えられたものが多いが、端午の節句に欠かせないこの「ちまき」も例にもれず中国の故事に由来している。

九州では、その全域(・・・か、どうか、未確認)で、「あく巻き」が作られ、端午の節句の懐かしい味となっている。
ただ蒸すだけの「粽(ちまき)」とは違い、灰汁による炊きあげのために特有の味わいとなり、かならずしも子供の大好物とはいえなかったような思い出がある。今はどうなのだろうか・・・。

■ウエッブで調べてみたら、こんな説明記事があった。
---あく巻き--------------------
その名の通り木の灰を濾し取った灰汁で炊く食べ物だ。分布は宮崎から鹿児島まで。どうも鹿児島の方が目立っているようだ。

※熊本にはあるのではと思うけれど・・・

(特有の灰汁風味があるが)慣れればそれも気にならず、アクが逆に美味しさになる。食べ方は、砂糖ときな粉を混ぜたものをかけて食べる。
たっぷり書ける方が美味しい。

※そのとおりです(^^)辛党でも、砂糖混じり黄粉をかけていただくあく巻きはおいしい。

作り方は木の灰に水をかけ濾し取った灰汁にもち米を漬ける。
そして、そのもち米を竹の皮で包み、件の灰汁で煮たものだ。
そのため、見た目は茶色い色をしている。

※茶色というより、餅米が一粒一粒、やや透明な黄金色に輝いているといった感じだ。

宮崎では5月5日の端午の節句に食べていたそうなので、粽のかわりにちがいない。
もち米を竹の皮に包んで食べることと、端午の節句に子供の成長を願い食べることが共通している。

※ちまきの代わりというのは、やはり風土を反映しているのだろうか。灰汁に漬けることで保存性を高めたものだと思う。焼酎の造りにおける、黄麹から、白麹への工夫と同様に、南国ならではの暮らしの智恵だったのだろうか。




リカーハウスながさき ほろ酔い通信5/4より

灰汁巻きと新茶

この字を読んで「なつかしい」、と感じた方。
あなたは、九州人か、九州にゆかりのある方でしょう。

「灰汁巻き」と書いて「あくまき」と読みます。鹿児島のMさんより送っていただいたのです。
若竹の皮に餅米をくるんだ「ちまき」のことで鹿児島の5月の節句にかかせないものです。
(鹿児島県観光・県産品ガイド/郷土料理より)

「灰汁巻き」で検索してみましたら、いろいろなホームページで紹介されていました。その中に、きちんと作り方が載っているページがありましたので、ご紹介いたします。
長崎県「広報 いさはや」の食改さんの「健康レシピ」Vol.17からです。

材料15本分 もち米約1升 1.5キログラム
       水      3.5キログラム
       灰汁(あく) 100グラム
       竹の皮    15枚
       黒砂糖
       きなこ 

1、水に灰汁を溶かす。
2、洗ったもち米にかぶるくらいの1、を入れ、最低10時間以上漬け込む。1、の残りは、取っておく。
3、もち米をざるにあげ、湯のみ1杯くらい(約100グラム)を1個分として竹の皮に包む。
4、大きめの鍋に3、を並べ1、の残りを「灰汁巻き」が充分つかる程度に入れて沸騰させてから4時間炊く。汁気が無くなってきたら差し水をし、「灰汁巻き」が水面から出ないように気をつける。
5、食べる時、砂糖・きなこをかける。

これが、Mさんによると、好き・不好きがあるそうですが、私にはとても美味しいのでした。
色は、灰汁で煮るので茶色で、感じは、「ゆべし」に似ています。大きな竹の皮で包まれていますので、しっとりしていて食感は、もちもちしていて、やわらかいのです。昔は、たこ糸で切ったと伺いました。
なるほど、包丁ではちょっと切りにくい固さです。灰汁は、木を燃して作ります。
木灰汁の成分のおかげで日もちが良く、常温で1週間、
冷蔵庫では2週間は、大丈夫とのこと。固くなったら電子レンジで温めればよいのです。
秀吉の朝鮮の役には、島津軍は、この「灰汁巻き」を持参したとか。昔は、どのご家庭でも作ったようですが、今は、専門にお菓子やさんで売られているようです。
ちまきの由来

楚の国の屈原(くつげん:BC340〜278)は、若くして政治家としての手腕を発揮していたが、それゆえまわりの者に妬まれて官を辞し詩人となった。やがて国の行く末を嘆き、62歳の時、泊羅(べきら)の淵に身を投げた。泊羅の淵に・・・で始まる「昭和維新の歌」にも描かれているように、憂国の烈士の象徴ともいえる人物である。人々はていねいに彼を弔い、命日の5月5日には米を「おうち」(せんだん)の葉で包み、5色の糸で縛って捧げるようになった。おうちの葉は香りがあり、また5色の糸は「木火土金水」の五行を表わして、邪気を払うと信じられていた。日本では「ちがや」の葉に巻いて(茅巻き)蒸すため、ちまきと呼ばれている。
今も中国では旧暦5月5日には、ちまきを食べる習慣が残る。日本伝来は平安時代。宮中での端午の儀式に使われるようになり、以後、関西を中心に広まった。ちまきには二千年もの間、屈原の愛国心を賛え、その死を悼む人々の心が込められていたのだ。



あく巻きの開封と切り分け方法


■竹の皮で包まれています。あれ?糸のようなものが見えますね(糸です^^;)。これがないとあく巻きは切れません。


■開封しました。左のコメントに書いた、黄金色というのがおわかりになりますでしょうか?


■糸を使って応分に切り分けます。


■ちょっと不細工になってしまった^^;
砂糖を混ぜたきなこを振りかけていただきます。























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286話   時を紡ぐもの〜川越の骨董市にて(成田山川崎大師別院)
平成14年4月28日午後、リュックをしょって川越へ。恒例の骨董市にでかけてきた。


祭り装束の若い衆も多かった。ダンナ(彼氏か)とライフスタイルが同じというのは何よりだ(^^;)

人々に和服を着せれば鬼平の時代になる。上の写真では背景の電線や寺の屋根向こうのビルを消してみた。いかに現代の町並みには猥雑な景観が多いかがわかる。屋根の上には空だけでいい。

なにやらいっぱい買い込んで、嬉しそうなおばさんとその連れ。
ものの価値観というヤツは、まさしく化け物である。
「欲しい」の一念が凝り固まって身上を潰した例もある。手に入れるには手段をえらばない、まるで永田町の腐敗集団のセンセイたちのような連中もいる。

・・・閑話休題。

骨董市にはマス・マーケティングとは無縁の価値観がある。彼にとってのお宝は、他人にはどうでもよいモノだ。思い入れや、発見や、諦めていたものとの再会や思いがけない着想までも、ここにはある。
骨董の値段は、ほとんどその価値観の重さでつけられているようだ。したがって店じまいの時間になると投げ値となるものもある。これは、その業者にとって、持ち帰る手間より低い価値観しかなかったということか。それを待っている客もいる。
ここに並べられている品物は、ほとんどのものがすでに役目を終わっている。買い手はそのものを対価を支払って手に入れるのだから、そのものは再び命を吹き込まれる。はるかな時間の闇に消えたものが時を超えて復活する。

糸巻きを買った比較的に若いご婦人がいた。朽ちた糸巻きに再び糸が巻かれる。ディスプレイ用に買われていくのだろうから、本来の機能を果たしはしない。それでも、どこかの店で綺麗に拭き上げられて飾り付けされ、ゆっくりと時を紡ぎ続けるのだろう。



たいへんな人出だ。骨董市が毎月28日に開催されるのは知ってはいたが、行くのは初めてだ。火鉢に使う「五徳」を探すのが目的。鉄のしっかりしたゴトクはなかなか市販品をみつけるのがむつかしい。
祭り装束のわかいママさんが、乳母車を押して通り過ぎた。外人の姿もチラホラ。骨董市には発見の楽しみがあり、祭りには心を弾かせるものがあります。



店が片づけを始める時分にやっと新品の五徳を見つけた。1000円だった。となりの店ではサイズは同じだが、錆びている中古の五徳が3000円(^^;)。こういうところが、骨董市の面白さだ。寺の境内での骨董市、京都は東寺の大規模骨董市のにぎわいには及ぶべくもないが、やはり風情があるものだ。


火鉢の灰に埋まった五徳がみえるだろうか?
.


285話 14.4.14
百年養うは何のためか
「士魂の提督 伊東祐享(すけゆき)」(神川武利著・PHP文庫)を読んだ。
20才で薩英戦争を戦った伊東は、明治27年9月17日、わが連合艦隊初代司令長官として、黄海で清国北洋艦隊との決戦に臨む。時に52才。

当時の中国=清は、朝鮮の宗主国として覇権への野望を隠そうともしない一大帝國である。
日本からのODAで高級幹部が家を建てベンツを買い、軍と民を食わせていながら、わが国へは恫喝が最も有効だと(まあ、そのとおりなのだが)不逞にも思いこんでいる今の中国ではなかった。当時の中国大陸を支配していたのは、堂々たる国際的大国であった(少なくとも世界にはそう思われていたし、自らもそう信じていた)のだ。

この東洋の獅子に対して当時のわが国は世界からは極東の小島程度にしか認識されない存在だった。黄海上の死闘で、「まだ定遠は沈まずや」とのちに歌われた若い三等水兵の叫びは、絶体絶命の国難のただなかにあったわが国の叫びに等しかった。

明治の長い戦いを日本人が勝ち抜いたその底には、数百年に及ぶ郷中教育で、節義と勇猛心を鍛え上げたおびただしい薩摩隼人たちの存在があったことも、薩摩の人間として誇りとして銘記しておかなくてはなるまい。

教育は国家の根幹をカタチにし、次代に繋いで行く大事である。このたびの、知的肥満もはなはだしい文部官僚らが、小賢しく「ゆとり」教育と言う「低能化」「公立教師のみ楽する」政策は、この国の将来に<おはなしにならぬ>悪影響を与えることは明白だ。節義と知力と勇猛心を持って、明治をたたかった薩摩の先人達の伝記を紐解くたびに、この国の今に必要なものは「ゆとり」ではなく「継続して持ち続けなくてはならない緊張感」だと思うのだが。


修身の教科書

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284話 14.4.7
時に棲むもの
なんでも「一人前」になるには時間が必要だ。人間ももちろんそうだし、たとえば酒そして味噌、醤油にしても社会や経済の都合でインスタントに出来上がるものではない。(大企業の管理された工場で、高速醸造されるプロダクトはあるけれど)酒造りなら、麹や酵母が仕事をするのには必要な環境と必要なだけの時間がかかる。醤油のもろみが熟成するのにも長い眠りの時間が必要だ。その必要な時間に人が手を貸して最後のカタチをつくってゆく。
「金(かね)本位制」に堕落した現代日本の社会的価値観から「もの」を造ることへの「魂」が消えてひさしい。そして同時に「考える」スパンが短縮されたことも情けないことである。時間をかけなくては出来ないことを「現代」はその価値観から亡失してしまった。かすかに手造りの職人たちが、その「時間」を大切に受け継いできてはいる。薩摩を筆頭に、九州全域で500年続く焼酎造りの伝統もそうだ。そして焼酎と同じくらい長い伝統を伝える醤油造りもまた同じである。

昨日はよく晴れて気持ちのいい土曜日だった。午後からカミさんと一緒に、小江戸と呼ばれて親しまれている埼玉県川越市に出かけた。蔵造りの町並みを見に行ったのだ。行きは小生が運転、帰りはカミさんというワークシェアリングだ。どっかの議員さんとちがい、不透明性のない役割分担だ。そう提案したら、「どーせ、昼酒が目当てでしょ」とカミさんのするどい追求が・・・・・・^^;
カミさんや愚娘たちは、なんども来ているらしいけれど、川越の蔵造りの町並みを見るのは初めてだ。オリンピックと高度経済成長と役人によって滅茶苦茶に壊された東京の町には「もう、江戸の風情などというものは、ない(故池波正太郎氏)」けれど、それが川越には色濃く残っていた。もともと蔵造りは、防火を目的とした江戸の町屋形式だ。この残存する蔵造りの町並みをここの人々が地元の活性化のために積極的に活かそうと努力しているのが、そぞろ歩いて見物している小生たちにもよくわかった。町興しはインスタントにはできない。蔵造りの町並みを往時の様子に復元改修するにも、今風の建物を昔風に改装するにも、費用や納得や合意などと共に、長い時間がかかったにちがいない。そしてこれからも町の吸引力を確保するには継続的な努力が必要なのだろう。


川越蔵造りの町並み
川越ラーメンと芋餃子で昼飯をすませて(もちろん、昼ビールも)、仲町通りの醤油蔵、松本醤油商店に向かった。川越についてすぐに「たまり漬け」を買いに行ったのだが、そのときに見学の可否を聞いたら、「きょうは団体の見学客があるので、一緒に見学できますよ」と言われていたのだ。店先で団体の到着を待っている担当のかたと色々お話ししているうちに、団体の到着時間を過ぎてしまった。が、現れない。連絡もないらしい。20分過ぎたとき、「お待たせしてすみませんね。それでは、ご案内しますから、どうぞ」と担当の方がおっしゃった。恐縮しながらあらためてご挨拶した。ご案内くださったのは、松本商店の番頭さんで、内田さん。松本商店の前身となった蔵は、天保元年の創業というから、いまから170年ほど前だ。蔵の中をみせていただいた。大豆を蒸かす機械、小麦を煎ってザラメ状に砕く(カッサイ)装置、そしてそうやって拵えた原料を入れ、種麹(コクハンモヤシ)を付けて48時間で麹を作る山崎式自動製麹機などが配置してある。
蔵の奥まったところに、巨大な木桶がおびただしく並んでいた。
「この木桶のなかに塩水をいれておくのです」二日二晩で出来た麹を、塩水の入った木桶に入れ、発酵させ、熟成させるのだという。「この木桶は、どのくらいの容量なのですか」「30石です」カミさんが、30石って?と聞いたので、一升瓶で3000本と答えたら納得したらしい。
さすがにカミさん、一升瓶は見慣れている^^;
「何年前から使用しているのですか」
「170年です。はい、創業以来ということになります」
「新しく作った木桶はないのでしょうか」
「あたらしい、といってもずいぶん前のことです。近年にはないですね。職人がいないのですよ」そのずいぶん前、というのが何十年も前のことだろうとは察しがついた。さっき、お店で販売を担当していた中年のご婦人に同じ質問をしたのだったが、ご婦人は記憶にないとのことだった。
「なにしろ塩分がありますから、タガが錆びて腐ります。それを補修するにもなかなか」
「竹のタガなら腐食しないのではないですか」
「そうですね。でも、100年以上たつとこうなってしまうのですよ」内田番頭さんがゆびさした木桶をみるとたしかにタガが緩んで下がっている。
その木桶を補強している鉄のタガは崩壊寸前の錆びようだった。鉄部だけではない。木桶の表面もぼろぼろだ。
オケの底部には7トンもの圧力がかかるという。大丈夫なのだろうか?蔵の高い梁、棟木を見上げると、がっしりとした太い木材で組まれていた。年月を感じるその蔵の奥や木組みには、たしかに生き物の気配がする。
「ここには50種以上の酵母が棲み着いています。名前がわかっている酵母だけで38種類です」内田さんがそういって、「蔵の癖といいますか、うちの醤油の香りやうま味を造ってくれるのは酵母たちなのですよ」
しみじみと蔵の中を見渡した。

松本醤油商店店舗正面


ご案内くださった内田さん

竹や鉄のタガばかりか、表面にも年代が。
「造りでは何が一番気を使うところでしょうか」とお聞きしたら、すぐに返事が返ってきた。「温度管理です」そして、夏の間は、木桶の中の塩水の温度が上がりすぎてモロミの発酵がコントロールできない、仕込みができないので、蔵の仕事は搾りと瓶詰めなのですよとおっしゃった。自然とともにある仕事なのだ。酒造りと変わることはないのだなとしみじみ思う。
一般に醤油は一年以上の熟成を必要とする。この蔵では熟成には二年という時間を与えるのだと言う。搾りは清酒蔵のものと同じ「船」にモロミを入れる。搾りたての醤油はどうなのでしょうかと聞いたら、「甘いです」とのお答え。いろいろな菌が生きて活動しているので、甘く感じるのだとか。火入れしてはじめて醤油の味になるらしい。85度で30分の火入れが終わり、放熱して濾過するまでにさらに10日かかる。
170年のあいだ働き続けている木桶の中で、二年間熟成してやっと光を浴びるモロミが醤油となり、最後にポンプで運ばれるのは蔵の二階だ。ここに貯蔵された醤油は「自然落下方式で、瓶詰め機械に流れてくるんです」とか。
小規模な蔵である。瓶詰め機械も、薩摩の焼酎蔵でみたのとほとんど変わらない小さなものだった。
ここが蔵の出口だった。
すでに通常の見学時間の倍、一時間ほど過ぎてしまっていた。 蔵の溶暗と言っていい暗さに慣れた目に、外の光が眩しかった。内田番頭さんにご挨拶したとき、販売所のほうからご婦人が駆けてきて、
「団体さんが見えました、いま」

気の毒な番頭さんはそれでもにこやかに、また見学コースの入り口に向かっていかれた。長い時間ありがとうございました。

お店のほうでご婦人がお茶を出してくださった。たまり漬けを試食しながらお茶をいただいていたら、店内に不思議なものがあるのに気付いた。大口の郡山八幡神社の木簡を思わせる書き付けだ。
タテに長い木片に墨痕鮮明に何かが書いてある。
よくみると醤油の木桶を作ったオケ職人が桶を組む板の側面(組んだら見えないところ)に自分たちの名前を書いたものらしい。天保二年(1831)の日付がある。ふ〜む、老中水野忠邦が登場して江戸やその近隣の都市が火の消えたような不景気になるにはまだ時間がある。(内輪話題ですが、かの船越平二郎が任務を終えて隠居したころ。まだまだ時代も明るく、ご先祖様たちが江戸の暮らしを楽しんでいたころだ)この蔵の、創業二年目の年である。
蔵に勢いがあり、木桶もどんどん作っていたに違いない。
ふと、木を削り、タガを打ち込む小気味のいい音や、職人の威勢のいい声が一瞬聴こえて、消えた。

時代、ひと、自然、作るということ、守るということ、いろいろなことを考え感じさせてくれた一日だった。お土産に超特撰はつかり醤油のミニチュア瓶をいただいて蔵を後にした。
この下のほうに、職人の名前が書き付けてある


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283話 14.4.1
継戦の意志
「戦いが終わるという状況について説明したまえ」と言ったのは、戦史を講義していたY教授である。もう数十年まえのことになる。
われわれ学生は、てんでにいろいろな解答を返したが、どの解答も教授の満足を得ることはできなかった。
「それを物理的な理由に求めては、間違うことになる」と教授は言い、正解としていずれかが「継戦の意志」を喪失したときに、戦いは終わると解説した。
このところのアラブとイスラエルの応酬をみていてこの言葉を思い浮かべたのだった。自爆テロを繰り出すアラブの戦術的是非などには論評する言葉もないが、内部問題を多く抱えながらも国家としての存続の意志を強固に持つイスラエルもまたアラブ同様に闘いへの意志を失うことはないだろう。


神風特別攻撃隊敷島隊の攻撃を受け炎上する米艦
「戦争は人類としての犯罪」であることは論をまたないが、同時に人として国として存続するための業として、受けとめなくてはならないものであることも事実だと思うのだ。
もし、幕末から明治にかけて西洋列強が剥きだした牙にたいしてわが国が人智を絞り命がけで立ち向かわなかったらどうなっていたか。想像すらしたくない。そして、歴史にこの「もし」をあたえるならば、亜細亜の独立は西洋列強の餓狼のごとき侵略の前には、到底なしえなかったと容易に想像できる。日本海海戦の時、東郷平八郎元帥率いるわが連合艦隊の旗艦三笠のマストに揚がったゼット旗は、皇国の興廃だけでなく亜細亜の興廃をもかけた戦闘旗だった。



東郷平八郎元帥

むろん、大東亜戦争敗戦にいたるまでの政府や軍のありかたに厳しい批判と検証をなさねばならないことは明白である。だがそれは「東京裁判」的な一方的解釈でも、「だめったら、ダメ」的ヒステリーであってもならない。
ファクトベースで冷静な研究態度が必須だと思うのだ。
まもなく新年度が始まる。人は生きねばならないから(国とおなじだ)、働く。故無き障害を得ても、思わぬ障壁に当面しても、わが真実を確信できるならばただ一文字を人生に描き続けるだけである。まさしく継戦の意志を持ち続けるにひとしいことだ。「撃ちてし止まむ」というスローガンもあったがこの本質は現代でも不変である。こころにゼット旗を掲げて進みたいものだ。
薩摩の若き友人のサイトで知ったのだが、海上自衛隊鹿屋基地の司令が、こんな訓示をしたという。「技を磨け、喜んで仕事をしよう!」
う〜む、よか言葉ではある・・・。

Z旗

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282話 14.3.17
春の武州
「ちょっと散歩に行って来るよ」
そういってカメラを片手にサンダルばきのままウチの近くを歩いてみた。
このあたりは植栽を中心に、農家の多い地域だ。蕗の薹はすでにひらいてしまっていて、霜の降りた黒い土の下から恥ずかしそうに顔をみせていた新緑の芽吹きという風情はもうない。午後の早い時間だ。やや強い陽射しに眩いほどの黄色を輝かせて菜の花が咲き誇っている。風が桜の大木の花を揺らして、空の高みに翔け昇っていった。


菜の花が咲いていた。畑の向こうに、どうも焼酎壷に似たようなものが・・・気になります^^;
畑の中の路をしばらく往くと、幟(のぼり)が一本、風に揺れていた。「新鮮野菜」と染め抜いてある。土地の農家が設置した「野菜の無人販売所」だ。両手に持ちきれないほどのブロッコリーに100円の札が付いていた。この幟はわざわざ作ったのかな?^^;




わが家の徒歩圏には、無人販売所が三つもある。この國が本当にダメになるのは、こういう人の善意と信頼とモラルに託したものがなくなったときだろう。まあ、すでに永田町界隈では間違っても成立しないね、これは。

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281話 14.3.10
梅の花と桜の花
わが草庵の界隈は、まだまだかなりの田舎である。
鹿児島の実家付近に比べても断然こっちのほうが鄙びている(威張ってどうする^^;)。
蕗の薹が顔をだし、カモの親子が川に遊び、その辺の麦畑で騒いでいる鳩はキジバトである。ヘビもいるし、狸もみたことがある。まあ、狸は逃げたペットだったようだけれど。

点在する農家は、植栽を主にしていて、きょうの午後散歩にでかけたら、いい枝振りの梅の木に紅白の花が芳香を漂わせながら爛漫に咲き誇っていた。
さすがに満開の時期は過ぎではいるようだが。

潔い開花と散華をみせる桜とちがって、梅の花はじっくりと咲き誇って余韻が長い。そんなことを久しぶりにうかがった掲示板に書いていたらピンポーンと宅急便がきた。この春に下の娘が入学する高校の制服が届いたのだ。着払いだ。値段を聞いて目が点になってしまった。

季節が移り、人が変わり、花が咲きそして散り、不動のものなど無いような時節に、しかし確固として動かないものも確かにある。
世の中や他人からの毀誉褒貶にジタバタすることの見苦しさは説明する理由をも超える。政治家や企業家や官僚たちが事件に問われたときにとる、例外なき醜態を見るのにも飽きた。

自ら省みて恥じずんば・・・という。
背筋を伸ばし口を閉じ目を真っ直ぐに見開いて前進するのみ。

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280話 14.2.3
ブームのあとさき
5年ほど前、「釣り」が一気に熱気をはらんだブームとなった。
釣り番組が、テレビ東京だけで6番組も編成されたほどだ。当初ブラックバスから始まったこのブームは、やがてマスコミの跳梁などによって渓流、鮎、磯、そして沖釣りと呼ぶ船の釣り、さらにファッション性が受けたのか、フライフィッシングまでも異様な盛り上がりをみせて広がっていった。ジャ○ーズのタレントがバスに熱中していると知ったファンは慌ててショップにかけ込み、釣りファッションを一式買い込む。タレントかコピーライターかわからん奴が、くわえタバコで釣りをするCMが流れる。幕張やお台場で開かれたフィッシングショーは猛烈な人混みで賑わった。
バス釣りのプロが登場し、琵琶湖は高速のバスボートが疾走しまくり、湖底にはおびただしいプラスチックワームやシンカー、ラインが堆積し、磯は焼け、根は荒れ、川は釣り人が残すゴミで汚れていった。
ブームに乗り遅れてはならじと、これまたおびただしい雑誌が創刊され、釣りのショップも次々に開店した。総合釣りメーカーの業績はもとより、ロッドやリールの生産額も倍々で伸び続けた。

そして、ある日突然、といっていいタイミングで、ブームが終わった。
本当にあっけないほどの終焉だった。

雑誌の休刊(廃刊と同義)、メーカーの撤退、ショップの閉店が相次いだ。
メーカーは生産ラインを整理し、釣り部門自体を廃した会社もあった。もちろんテレビ番組は次々に中止されて、キャスターたちもプロたちも次々に仕事を失っていった。
とくに事業規模を広げて人も抱え込み、工場を増設して(海外拠点を含む)生産体制を拡大したところなど、事業ドメインの転換などにはほとんど可能性を見いだせずに工場の売却や大規模のリストラで息をつないだ会社もあった。ブームの後には漠々たるフィールドだけが荒れ果てた姿を残しているだけだった。

「釣り」ブームのあとさきを、すこし誇張して書いてみた。まあ、誇張してはみたが、実際のところ、そんなものだったかもしれないと思う。

今、「焼酎」ブームだそうだ。
関東以西では、本格焼酎(乙類)のシェアが急増し、その勢いは関東以北にも伸びつつあるらしい。昭和50年あたりのチューハイ(焼酎)ブームとは違い、味そのものへの理解が得られたのだろう。焼酎の造りの技術も向上し、品質も極めてよいものが産み出されている。
健康によいという研究結果もあり、とくに若い女性を中心に、焼酎ブームが起きているとか。この一年を振り返ってみても、数多くの出版物が本格焼酎をとりあげ、多くの業務店が焼酎を店に置くようになった。マスコミの動きも激しい。焼酎やその産地、造り手などがグルメ番組で取り上げられることも増えたし、なんとワインの著名ソムリエ氏が「実は私は焼酎が・・・・・・」と本を出したり番組に出演なさったりもしはじめた。
だが、ブームゆえに、市場の混乱も始まっている。
大資本が鹿児島を初めとする産地の蔵に資本とマーケティング企画を注入しはじめた。大規模流通の可能性を見てしまった経営者が、どう自分らしさを確保してそれに対処してゆくか、鹿児島の地の文化であり、誇り高い歴史でもある「焼酎」を思うとき、非常なる懸念がある。
我が道を確固として貫く蔵もあれば、浮き足立つ蔵もあるだろう。
かっての「釣り」ブームの教えるところを考えてみたい。

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279話 14.1.19
つくらない人
「そんなもの買って、だれが料理するのよっ」
刃物で切りつけるような鋭い語調で女が言った。乳児を抱えたまだ若い女だ。美人ではないが人並みの容貌の、しかし目と口元になんとも暗鬱としたキツさと陰がある女だった。切りつけられたのは誰だろうと目を向けた。
ショッピングカートを押して女の後ろに従っていた男が目を伏せてなにやらぶつぶつ答えた。「おいしそうだよ、これ」とかなんとか言ったらしい。左手にはパックされたサバの干物を持っている。ノルウエーのサバだ。脂が乗って美味しい魚だ。パッケージから出して、焼けばよい、ただそれだけの素材だ。
「料理が面倒だから、総菜買いに来たんじゃないのっ」
若い母親がまた亭主を怒鳴りつけた。
「誰が料理するのよって、聞いたのよっ」
容赦ない言葉の弾丸がおとなしい亭主の小柄な体躯に打ち込まれる。
気の弱い小生は、目をそらしてウインドウショッピングならぬ生鮮売場ウオッチングを続けることにした。休みの午後、ちょうどよさげな「アラ」が並ぶ頃にこうやってぶらつくのが結構好きなのだ。もちろん出物があれば速攻で買って、ダイヤメの肴にする。
「オレがやるよ・・・」細い声で亭主がいい、女が「やれば〜」と吐いて捨て、若い夫婦の諍いは終わった。

「そんな奥さんがいるのかしらねえ」
ウチに帰ってカミさんにこの話しをしたら、一瞬呆然として、「そりゃあ、長続きしないわね」と言った。
だがまあ、夫婦の相性というのはわからないから、その夫婦の将来についてはなんとも言えない。しかし、このごろ料理をしない女性が増えているのは確からしい。こんなことを書くと、男女同権の時代に、料理を作るのは女性と決まってはいないでしょ!と、柳眉を逆立てて抗議されるかもしれない。小心ものだが頑迷固陋な薩摩の系譜を誇りとする小生は、とりあえず恐れ入ったあとで、こう呟くのだ。「亭主が外で稼いでくるのなら、妻が家事をするのが夫婦の協働というものではないか・・・」

この夜、ダイヤメしながら、カミさんに言った。
「子供が独立して、二人暮らしになったら、土日のご飯はオレが作るよ」
「え?」
「土日は朝寝してゆっくりすればよい」
「はい、それは嬉しいわねえ」
そう答えて、カミさんが「あらあらざけ」のグラスをきゅっと空けた。
・・・・・・どうも、小生の料理にはイマイチ信用がないようだ。^^;

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278話 14.1.12
映画マジック
比較的よく映画をみるほうだ。
部屋の本棚(焼酎棚^^;)の一番下は、全部映画のパンフレットで埋まっている。圧倒的に洋画が多い。ジャンルは問わない。ホラー以外ならなんでも観る。
邦画だと数少ない時代物や歴史物になる。
芋焼酎には「つまらない」焼酎は一銘柄もないが、映画には「つまらない」作品が多すぎる。邦画をみる機会が少ないのもそれが原因だ。
このごろでは宮崎さんのアニメが元気なので嬉しい。
「千と千尋の神隠し」は黙示録的に深いしかし爽やかな印象を残してくれた。傑作ぞろいの宮崎アニメの中ではやはり「トトロ」が好きだ。猫バスもいい、中でもまっくろくろすけが贔屓である。
「紅の豚」はメカニズムへの執着がはっきりしていて、その面だけでも見応えがあった。三輪自動車で鹿児島まで旅した宮崎さんの面目躍如だった。
アイドルを並べただけのドラマや、鈴木なにがしのホラーはどうも甲類焼酎同様に敬遠してしまう。理由は勿論あるけれど、せんないことだから言わない。
見てくれだけの無内容や、ウケ狙いの物語りに残り少ない人生の時間を空費するほど、おんじょ(薩摩弁で、爺い)はヒマではない。
昨年末のある日、「ハリーポッター/賢者の石」を観た。
全世界で○億人が既に原作を読んでいるというから、内容をここで紹介する必要など全くないだろう。良くできた映画だったし、入場料以上の価値・満足を貰って映画館を出た。
英語の原作にも目を通していたので、これは脚本が大変だぞ、と思っていたのだが、よくあの時間にまとめたものだと感心した。お話もよかったし、なによりキャスティングがよかった。粒よりというのは、こういうことだろう。
○億人のイメージは、○億人分あるわけだから、それをフィルムに定着させてスクリーンに映し出すことの難しさ危うさを考える。
この映画はそういう意味で、まことに素晴らしい魔法を見せてくれた。

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