時を紡ぐものたち〜川越の骨董市にて(成田山川崎大師別院)
リュックをしょって川越へ。水割り焼酎を片手に、恒例の骨董市にでかけてきた。(平成14年4月28日)


祭り装束の若い衆も多かった。ダンナ(彼氏か)とライフスタイルが同じというのは何よりだ(^^;)

人々に和服を着せれば鬼平の時代になる。上の写真では背景の電線や寺の屋根向こうのビルを消してみた。いかに現代の町並みには猥雑な景観が多いかがわかる。屋根の上には空だけでいい。

なにやらいっぱい買い込んで、嬉しそうなおばさんとその連れ。
ものの価値観というヤツは、まさしく化け物である。
「欲しい」の一念が凝り固まって身上を潰した例もある。手に入れるには手段をえらばない、まるで永田町の腐敗集団のセンセイたちのような連中もいる。
不良流通がプレミア戦略で高値を煽る「まぼろしの焼酎」というやつも、衆生の「モノ」への執着心があればのことにすぎない。健全な市場の発展とは逆の方に人と金を動かそうとしている。飲み手も造りてもしっかりしなくては、本当に育ってきた「焼酎への理解」が一過性のブームとやらで終わってしまう。

・・・閑話休題。すぐ焼酎のはなしになってしまうなあ〜(^^;)

骨董市にはマス・マーケティングとは無縁の価値観がある。彼にとってのお宝は、他人にはどうでもよいモノだ。思い入れや、発見や、諦めていたものとの再会や思いがけない着想までも、ここにはある。
骨董の値段は、ほとんどその価値観の重さでつけられているようだ。したがって店じまいの時間になると投げ値となるものもある。これは、その業者にとって、持ち帰る手間より低い価値観しかなかったということか。それを待っている客もいる。
ここに並べられている品物は、ほとんどのものがすでに役目を終わっている。買い手はそのものを対価を支払って手に入れるのだから、そのものは再び命を吹き込まれる。はるかな時間の闇に消えたものが時を超えて復活する。

糸巻きを買った比較的に若いご婦人がいた。朽ちた糸巻きに再び糸が巻かれる。ディスプレイ用に買われていくのだろうから、本来の機能を果たしはしない。それでも、どこかの店で綺麗に拭き上げられて飾り付けされ、ゆっくりと時を紡ぎ続けるのだろう。



たいへんな人出だ。骨董市が毎月28日に開催されるのは知ってはいたが、行くのは初めてだ。火鉢に使う「五徳」を探すのが目的。鉄のしっかりしたゴトクはなかなか市販品をみつけるのがむつかしい。
祭り装束のわかいママさんが、乳母車を押して通り過ぎた。外人の姿もチラホラ。骨董市には発見の楽しみがあり、祭りには心を弾かせるものがあります。



店が片づけを始める時分にやっと新品の五徳を見つけた。1000円だった。となりの店ではサイズは同じだが、錆びている中古の五徳が3000円(^^;)。こういうところが、骨董市の面白さだ。寺の境内での骨董市、京都は東寺の大規模骨董市のにぎわいには及ぶべくもないが、やはり風情があるものだ。


火鉢の灰に埋まった五徳がみえるだろうか?
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