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短編ミステリー【8人の淑女】その2

優 子 ◆ クビにしろ!

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 優子は女子トイレにかけ込んだ。さすがに胸がまだドキドキしている。

 ついさっき、優子はエレベーターの中で、酒臭い「エラいさん」の頭をハイヒールの裏でひっぱたいてしまったのだ。尾篭(びろう)なはなしだが、痔の調子が悪く、朝からムカムカしていたのもよくなかった。

「あのオヤジが悪いのよ」

 鏡の前でユニフォームの襟を直し、個室に入って腰をおろすとやっと人心地がついた。

 おもわず、優子の口から

「ふー、まいったわね、いや、困ったわねえ」と吐息がもれた。

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 混み合った朝のエレベーターに、初老の秘書と一緒にかけ込んできたのは、赤ら顔で肩幅もあり背も高い、典型的な体育会系オヤジだ。社長の次男で、この会社の専務に就任したばかりだ。毎朝、ばかでかい声でがなりたてながらエレベーターにのりこんでくる。

 けさは、二日酔いというよりまだ酔っているといったほうがいい状態だった。

 優子は小柄だ。その役員の太った腹が、優子の目のまえに突き出し、向かい合う形になった。

「さ、酒くさ〜」

 と優子は下を向いて、息を止めた。

 優子は19階で降りる。

 この男は22階の役員フロアで降りる。

 高速エレベーターだからものの30秒もかからずに19階に到着するだろう。もうちょっとの我慢よ。

 そのとき優子のうなじに、熱帯雨林の風のような熱い鼻息が包み込むようにひろがった。うわ、と優子が顔をあげて上をみると、息せききってエレベーターにかけこんできたその役員が、真っ赤な顔で激しく息をついている。

 ゲロでも吐かれてはたまらないと、あわてて顔をそむけた優子を役員がにらんだ。

 キミ、失礼な!なんだ、その顔は。そう目が言っている。

 すえたような鼻息がこんどは優子の顔を直撃した。わざと息を吹き付けてきたのだ。

「やめてよっ!」優子が叫んだ。

「なんだ、役員に向かってその言いぐさは」

 真っ赤な顔をさらに赤くして、役員が優子の襟元につかみかかった。

 その手をふりほどき、すばやく身をそらした優子は、右足を後ろに上げ、靴を右手につかんで脱ぎ、おもいきり役員のバーコード頭をひっぱたいたのだ。

「パッカーン」

 気持ちいいほどの音がして、同時にエレベーター内が凍りついた。

 エレベーターが止まった。

 ドアが開いた。

 19階だ。男の脇をすり抜けるように、優子はすばやくエレベーターから降りた。

「まて、こらあ!」

 一瞬呆然としていた役員が、優子を振り返って怒鳴った。

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 酒臭い息を吐きかけた役員の頭をハイヒールでひっぱたいて、エレベーターを降りた優子はドアの外で靴を履きながら、

「乗るなら、飲むなっていうでしょっ」

 そう言い捨ててトイレに向かった。

 われながら気の利かない捨てぜりふだわ。

 優子のうしろで、なにやら叫びながらエレベーターを降りようとする役員を、秘書が抱えるようにして必死に止めていた。

 21階の営業フロアでその役員と秘書以外は全員エレベーターを降りた。

 社員たちはほっとした表情で、エレベーターから降りると、一様に息をすいこんだ。

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「あのアマ、あとでオレのところへ連れてこい!ただじゃあおかんぞ」

 営業部員たちの前ではさすがに堪えていた怒りが、役員の赤い顔一杯にはじけた。

「このオレに恥をかかせたんだ。ただじゃおかん。懲戒免職だ」

 秘書が小さな声で言った。

「ち、懲戒免職ですって?まさか。それは、ムリでございます」

「なぜだ、役員に暴力をふるったんだ。当然だろう」

「・・・・・・」

 22階の役員フロアでエレベーターを降りてからも、男はわめきつづけた。

「それじゃあ、あいつの上司を呼べ!なんとしてでも罰を与えてやらんと収まりがつかん」

「あの、それも、いかがかと・・・」

秘書が言った。それが役員の神経を逆なでした。

「これ以上なにもいうな。役員たるオレの頭を、あろうことか汚い靴の裏で叩きやがったんだ。あの女は絶対にゆるさん。これ以上、しのごの言うと、おまえもただじゃおかないぞ」

「と、おっしゃいますと?」

 役員は目をギラギラさせてはき捨てるように言った。

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「あの女は、クビだ。すぐに」

 ひとことも口答えをしたことのない秘書だったが、気弱に首を横に振った。

 役員には信じられないことだった。そうか、こいつ、あの女と・・・。

 ダメを押すように、秘書が

「だめです、ムリです。クビになんかできません」

 といった。

 役員が秘書を見ると、あろうことか、くちびるの端で小さく笑っているではないか。

 役員は、自分の目を疑い、つぎには秘書の頭をうたがった。

 その瞬間、ただでさえ高かった男の血圧が急騰し、脳細胞の中で血管に小さく亀裂の入る音がした。

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 痔のわるい優子は、温水洗浄トイレのあるこのビルのトイレを毎朝使っている。

 このビルの19階には、あの男が専務をしている広告会社の制作部門の他に、トイレタリーメーカーがテナントとして入居していた。優子はここの新式の温水トイレをなんの気兼ねなく使っていたのだ。

「これで、ここは使えなくなるじゃない。ちぇっ、せっかく良いところを見つけたと思ったのに」

 温水でオシリを洗いながら、優子がつぶやいた

 このビルの2軒隣、6階建てのテナントビルの2階にある経理事務所が優子のオフィスだ。

 築25年で、共同トイレは3階と5階にあり、ごく普通の水洗なのだ。