◆二. 美 穂 やりなおせるか人生

 美穂はいつものように夫が出かけるのを見送った。夫は八時の快速電車にのって都心に出る。会社までは一時間半の通勤時間だ。遠いけれど、始発駅だから座っていける。

「わたしは一日中立ちっぱなしで働いてるっていうのに、不公平よね」

 美穂にとっては、ほとんどはずみで結婚したようなものだった。

 美穂は今年四月で三十五才になる。結婚するまでは中堅どころの広告代理店の総務部に勤めていた。夫は年下の三十一才だ。

 気楽にOL生活を楽しんでいるうちに、同期は次々に結婚して退社、いつの間にか美穂の回りの女性は、若い派遣社員ばかりになったのだ。

 突然あせりを感じた美穂は、タイミング良く上司が紹介してくれた得意先の社員と見合いして結婚し、十五年勤めた会社を辞めた。いま考えれば、あれは上司のリストラ作戦に違いなかったと、美穂は悔しくてたまらない。

 年齢さえもうすこし若ければ、あんなババを引かなくてもすんだのよ、美穂は口の中で小さく呟いた。

 このマンションは二ヶ月前に買った。

 頭金は美穂が出した。夫には結婚したとき貯金というものがなかったのだ。

「愚図で計画性がないのよね、あのひと」

 しかし、ローンの払いは二十五年続くのだ。

「これからはバリバリ働いて貰わなくちゃね。さ、面倒だけれど洗濯しなくちゃ」

 朝食のあと、ゆっくりとコーヒーを飲んでいた美穂は、大儀そうに腰をあげた。

 「あ、その前にと・・・」美穂はパソコンの前に座った。

 メールソフトを立ち上げる。朝一番でチェックするのが習慣になっているのだ。

 サーバーには数通のメールが新着していた。差出人はインターネット通販の会社とプロバイダーの事務局だ。

 順番に見て行く。養毛剤に健康食品、ロードショー映画のキャラクター商品など何でも有りだ。

「え、これってなに。こんなにオーバーしてるはずなんてないわよ」

 プロバイダーからのマンスリーレポートで先月の接続料金を見た美穂は呪いの声をあげた。

「まったく!だいたい高すぎるのよ。情報化の時代って言うのにこんなに接続料が高いなんて。会社だったらタダの専用線が使い放題っていうのにね」

 毒づいた美穂の目に、次のメールのサブジェクトが飛び込んだ。

「なにかしら、これ」

 四通目のメールのタイトルにはこう書かれていた。

>だいじょうぶ?お宅のご主人

 そのメールは、駅前のマンションに住んでいる美穂の友人からだった。

 駅ビルの中にあるパソコン教室で知り合った同年輩の主婦だ。

 パソコンの技術を身につけて仕事を探し、独立して、さっさと旦那を放り出したいのなどと言っている。

「・・・大丈夫って、なんのことよ」美穂はメールを開いてみた。

 そのメールは

>おかしいのよ、今朝のご主人・・・

 という言葉で始まっていた。

 その友人が今朝、マンションの二階のベランダから駅前広場を見おろしていると、美穂の夫が駅の前でたたずんで、じっと考え込んでいたという。そして、ためらうように、駅前の時刻表や経路図を見上げたりしていたのだけれど、やがて思い切ったように駅にはいっていったというのだ。

>おたくのご主人って、お勤め先を替わったとも聞いてないし、さっきの様子ってただ事でなかったのね〜それで一応メールでお知らせしておくわ。おせっかいかもしれないけれど(^^;;ちょっと心配だったので・・・。ではでは

「ふん、面白がっているだけじゃないの!自分の旦那の心配でもすればいいのよ」

 美穂はそのメールをごみ箱に捨てて、メールソフトを終了した。

 だが、気になる。そう言われるとあらためて美穂は夫の仕事の状態が気になってきた。この頃では帰りの時間も一定しないし、休日出勤も多い。これまで釣りなどには全く興味もなかった癖に、たまの休みに読みふけっているのはアウトドアや釣り関係の本ばかり。

「あのひと、薬品メーカーの営業主任よ。一体どうしちゃったの」

 美穂は胸が苦しくなった。そういえば、会社の業績も良くないって言っていたわね、まさかリストラされたんじゃないわよね。

 会社に行くと言って釣りに行ったり、まさかハローワークに通っているんじゃないでしょうねなどと、美穂の不安が増殖し始めた。

「冗談じゃないわ!あんな愚図な夫の道連れなんて、まっぴらよ」

 あ、いけない。独り合点してるだけで間違いってこともあるものね。そう思い直して美穂は電話をとりあげた。

 震える指で、夫の会社の番号をプッシュする。

 さすがに胸の動悸を押さえられない。緊張して呼び出し音を数えた。四つ目に通じた。内線番号を告げ、つないでもらう。

「はい、営業課です」

 若い女の声が応えた。

 美穂がおそるおそる夫の名前を告げると、その若い女子社員は「おまちください」といって保留ボタンを押した。

 しばらくお待ちくださいというメッセージの後ろで流れているのは、映画ロッキーのテーマだ。

 やがて、さっきの若い女子社員がまた電話に出て、気の毒そうにこう言った。

「そういう方は、ここにはいらっしゃいませんが・・・いま営業課の者は全員出払っておりますので、もし・・・」

「え、なに、冗談じゃないわ」

 最後まで聞く気もなくなって、美穂は電話を切った。

 

「なにいってるの、主任は先月からプロジェクトルームに移ったんじゃない」

 別の電話にでていたベテラン女子社員が受話器をおいて言った。

 す、すみませんと謝った若い女子社員は、

「だって、そんなことわかんないわよ。それに電話をすぐ切っちゃうんだもの」と小さい声でつぶやいた。

 彼女は派遣社員だ。営業課のデスクについて今日でまだ三日目だった。

 

「まったく、会社をクビになったらなったで、私にまで黙っているなんて、なんなのよ」

 美穂は電話を切ってしばらく呆然としていたが、

「あーっ、あれ!」

 思わず叫び声をあげ、あわてて和室にかけこんだ。震える手で和箪笥の引き出しをチェックする。

 ここに美穂の預金通帳が仕舞ってあるのだ。

 そのことは夫も知っている。だからこそ美穂は突然心配になったのだ。

 あの金に手を付けていたら許さないわよ!

「ああ、よかった、お金は無事ね。でもこのマンションの頭金、どうしてくれるのよ」

 通帳と印鑑を自分のハンドバックに仕舞い、美穂はダイニングに戻った。つけっぱなしのテレビはワイドショーをやっていた。まったく呑気なもんね、美穂は苦々しく頬をゆがめて、テレビのスイッチを切ろうとした。そのとき、ワイドショーの特集タイトルが美穂の目に突き刺さった。

「悲惨!ハローワークの古参兵たち」

 まったく、なんてタイトルなの!あきれながらも、美穂の目はテレビ画面から離れられない。

 テレビでは、中年の女性レポーターがマイクを食いちぎるような勢いでしゃべっている。

「わたくし、ここ池袋のハローワーク、かっては職安と申しておりましたが、ここから中継でお送りしております」

「まさか、あのひとがテレビに映ったりして。まさかよね」

 そう思いつつ美穂は画面に見入ってしまった。

 テレビには夫の姿は映っていなかった。画面では女性レポーターが、嫌がる求職者に次々にマイクを向けていた。

「まったく、この不況のまっただ中、求職者の群は途絶えることがありません。いつまで続くぬかるみぞ、というところでしょうか。そこで、わたくし、つたないながら一句。<いばれない、ハローワークの、古参兵> 失礼いたしました。池袋のハローワークからお送りしました」

 まったく、なんてレポーターなの、そういって美穂はテレビのスイッチを切った。

 ぐずぐずしてはいられないわ。美穂は大急ぎで出かける準備をした。

 美穂は知らないことだったが、夫はこの朝、社長室に呼ばれ、直々に仕事ぶりを激賞されていたのだ。

 薬品メーカーとして、総合健康事業への取り組みをいよいよ始める。事業ドメインを策定し、マーケットのアクセプタンス(受容性)を様々な角度からリサーチし、テストマーケティングも想定通りの成果を上げていた。

 一見鈍くみえて実は几帳面な性格の夫には、まさにうってつけの新業務だった。アウトドアレジャー、特にフィッシングを核とした新規事業には、経営トップの期待が込められている。

「君を正式にこのプロジェクトの責任者として、本日付けで準備室室長に任命する。課長待遇だ。おめでとう!期待しているよ」社長が言った。

 ご期待に添えるよう頑張ります、紅潮した顔でそう言って社長室を出て、新課長は古巣の営業課をのぞいた。

「主任、おめでとうございます。いよいよですわね」ベテランの女子社員が声をあげた。

「ありがとう」

「そういえば奥さんだと思いますけど、電話がこっちにあったようですよ」

「そうか、あたらしい内線番号を教えていなかったっけ」

 

 夫は自宅からはちょっと遠いが、いつもの私鉄と並行して走る路線で帰ることにした。その駅の近くには美味しいケーキ屋がある。

 そうだ、ケーキ屋のとなりの酒屋でワインも買って帰ろう!夫は景気のいい思いつきに、つい頬を緩めた。

 いつも不満そうな顔をしている妻だが、夫が昇進したと聞けば機嫌良くなるに違いない。

 今朝は定期券を忘れてしまったから、会社との往復に960円もかかってしまったのだ。

「駅前で気がついて、うちに取りに帰ろうかとためらったけれど、それじゃ遅刻してしまうからなあ」

 遅刻しなくてよかった。まさか朝礼のすぐあとに社長に呼ばれるなんて思わなかったもの。それにしても昇進できるとは・・・。夫は満足の吐息を漏らした。「課長手当の半分くらいは、小遣いを増やしてもらえるかもな」

 

 美穂が外出先から帰ってダイニングテーブルにバッグを置いたとき、ベランダ越しに、歩いてくる夫の姿が見えた。

「帰ってくるのが早すぎるわね、やはりね」

 美穂がひとりうなづいた。

 しかも、いま夫が歩いてきたのは、駅とは反対の方角からだった。

 チャイムが鳴った。

「ただいま」

 夫の声がした。

 

「ワインを買ってきたの?」

 夫が手に持っている包みに目を向けて、怪訝な表情で美穂が言った。

「うん、仕事がうまくいってね」

(新しい仕事が見つかったってことかしら。ハローワークに古参兵がごろごろしているご時世に、この愚図に見つけられる仕事なんてロクなものじゃないでしょうよ。聞きたくもないわ)

「社長に期待しているといわれたよ」

(ますますロクなもんじゃないわね、騙されているんじゃないの)

「それに、課長になったよ。給料もあがるって」

(ほら、やっぱり怪しいわ。ただの主任だったはずよ、このひと。課長で転職ですって?騙されているわ、間違いないわよ)

「きょう、定期券をわすれてね、困ったよ」

(前の会社の定期券なんて、もうとりあげられているでしょうに。白々しいわ)

「だから、ちょうど良かったんだ、あのケーキ屋によってきたのさ。あそこのケーキ、評判だからね」

 お祝いだ、ワインもあけようよ、といってオープナーを探しにキッチンに向かう夫の背中に、美穂は声をかけた。

「まだ、やりなおせるわよ、あなたは若いんだし」

 夫が、「え?」と振り向いた。

 美穂はつとめて冷静な表情で続けた。

「この家の権利はわたしが貰うわよ。だって頭金をだしたのはこっちだしね。だから、あなたには出ていって貰いたいのよ。わたしもこの年だから、人生を一からやり直す気はないのよ、悪いけれど」

 そういって美穂はバッグから一通の書類を取り出してテーブルの上に置いた。

「これにハンコを押して貰います」   

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