もうひとつブックマーク



 わたしのコンピューターは、もうずいぶん使ってない。ノートブックの蓋には埃が白く積もっているほどだ。
 きょうの午後、ふと思い出してたち上げてみた。懐かしい音がして起動はしたが遅い。CPUの古さはいなめないな。もうすっかり忘れていたネットの知人たちのサイトを見てみようと、PPP接続しようとしたら、失敗した。一応モデムのインジケーターは点灯しているから、設定が狂ってしまったのかもしれない。

 妻はいま仕事で外に出ている。いつもはうちにいて自分のコンピューターでなにやら文章を書いたり、絵を描いたりしている。

 データは通信で送ることが多いようだが、大容量のイラストデータは、MOで直接注文先に持参するのだ。

 わたしはあまりコンピューターには詳しくはない。
 詳しくはないが、一週間ほど前に、届いたばかりの梱包を開けた妻が、
「かわいい!」と言ったのが、アップル社の新しいコンピューターであることはわかった。
 パステル調のツートンカラーで、半透明のケースが、マシンというよりペットかおもちゃのようで、「これで仕事になるのかな」と心配になったほどだ。
 だが、久しぶりに明るい顔をみせた妻をみるとこちらも嬉しくなった。

 妻は、まだ小一時間は帰ってこない。
 おそるおそるそのコンピューターを起動してみた。起動してみて驚いた。速いし、デスクトップの綺麗なことといったら。
 さっそくブラウザソフトを立ち上げてみた。モデムの速度も速いようだ。ブックマークをクリックした。なじみのサイトが登録されてない。ちょっと驚いたが、これは妻のコンピューターだ。なくて当然だ。

 出版社や、編集プロダクション、それにわたしも知っている、妻の友人たちの個人サイトがブックマークされていた。
「これは、なんだろう」
 一番下に登録されているブックマークのタイトルをみて、わたしは少々驚いた。そこには、「オンライン健康相談」とあった。

 そうは見えなかったけれど、どこか具合がわるいのだろうか。
 もし、めんどうな病気だったら大変だ。
 妻は自分の不調を顔や口に出さないから、ほおっておくと取り返しがつかなくなる。
 おそらく、そのサイトを開いて掲示板かなにかを調べ、妻の相談内容をみてみるべきだったかもしれない。
 あとで考えれば、そうすべきだったのだ。しかし、後で考えるのは、考えないことと同意義だ。
 そのときのわたしは、コンピューターを終了することも忘れて、あわてて飛び出したのだ。

 妻が顔一杯の笑顔でわたしに話しかけている。
 仕事が認められて、こんど自分の名前で本を出すことになったという。
 小さなデータ処理のバイトはもう止めて、執筆に専念できるらしい。おまけに、出版社が最新のコンピューター(わたしには解らないが、G3の最高速のなんだかといっている)を支給してくれるのだと。
 そしてね、と妻は言葉を続けた。三ヶ月ですって。赤ちゃんができたの、と。
 妻はそういって、パソコンラックの上にわたしの写真を置いた。あれ、アイマックの電源を入れっぱなしで出ちゃったのかしら、というつぶやきも聞こえた。


 ちょっとした事故がもとで、この世界に来てしまってから2カ月、まだ新参者だが、妻の「命のロウソク」を見にかけ込んできたわたしの勢いはすごかったらしい。あとで管理主任の天使が言っていた。
 妻のロウソクはしっかりとたち、明るく燃えていた。そして、そのとなりに、小さなかわいらしい一本のロウソクが寄り添っていて燃え初めていたのだ。



おわり