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 from1998
過去の手控え
手控え欧州篇

ひるね蔵 けふの手控え

たまに更新していますので、リロードしてください。
平成12年4月までの手控えは、「過去の手控え」でご覧ください。
220話 5.28

渓流の静かな日

「な、なんだ。このガキの山は」

「ジャニーズショップにはいる順番待ちの列よ、きっと」
「う、凄いねえ」
 原宿の駅前。数週間まえの日曜の昼前だった。やぼ用があってカミさんと表参道まで来たのだが、改札を出た途端にガキの人ゴミに圧倒されてしまった。聞くと原宿が子供達であふれかえるのは休日だけではないらしい。千葉県民の日や埼玉県民の日は、それぞれの土地柄を、表情や風情に漂わせる女子生徒たちで、竹下通りなどは通行出来ないくらいの混雑ぶりだそうだ。

 まっとうな大人なら10秒と耐えられるものではない。後学のためにと、ジャニーズショップの前を通って竹下通りに降り、明治通りから表参道へと歩いてみた。いや、歩いただけで疲れ果てた。

 この人混み、渓流解禁の日の朝に似ている。釣り人には一年一度のお祭りの日でもある解禁日の釣りは実にすさまじいものだ。特に放流地点などでは、肘と肘がくっつかんばかりの間隔で釣り人が立ち並び、解禁のサイレンを合図に放流された鱒やヤマメを釣りまくる。竿はぶつかり、糸はおまつりし、ハリには魚だけでなく他人の帽子や耳たぶがひっかかる。河原には弁当殻やタバコの吸いがらが散乱し、エサの入っていたボール紙の箱や、ワンカップの空瓶も転がっている。徹夜で解禁を待っている釣りオヤジたちも多いのだ。そんな解禁日に出かけなくなってもう何年たつだろう。

 昨日の土曜日、久しぶりに奥多摩に出かけてきた。川を見るだけでもいいかなと、すっかり日が昇った時分にジープをひっぱりだして、出かけたのだ。

 奥多摩といっても、下奥多摩橋のすこし下流。広い河原には雑木や背の高い草が生い茂っていた。渓流魚の解禁と5月の特別放流はとっくに終わっているし、まだ鮎が解禁になってないので、釣り人の姿も少なかった。空の高みで二羽のとんびがぐるぐる回りながら喧嘩している。おもいがけず近いところで鴬が鳴いた。静かな河原には碁石を打つように、背黒セキレイが遊んでいた。
 流れを見ると、瀬から開きに移るあたりに山女魚がヒラをうっていたので、6mの渓流竿を出し、試してみることにした。天井糸は0.3号、ハリスは0.17号。プロヤマメの4号のハリを外掛けにむすび、仁丹大のガン玉をハリから20cmに打つ。エサは川虫と近くの釣り具店「川よし」で買ったイクラ。

 瀬の釣りは楽しい。食いついたヤマメは思いがけず強い引きを見せたり横に疾走したりする。瀬でしばらく釣った後、少し流れのある本流筋も試してみた。流れの脇の沈み石の横で結構な型のヤマメがパーマークを輝かせてエサに飛びついてきた。結局夕方までこの河原で釣りを堪能したのだった。

 この日の晩御飯のおかずは、ヤマメの空揚げ。耳鳴りのように瀬音が響いているのを感じながら、下ごしらえをした。からっと揚げたヤマメの、ほくほくとした香ばしい食感がたとえようもなく味蕾を刺激する。これを肴に飲む一杯のすばらしさは、金などで買えるものではない。釣ってこなくては味わえない釣り人の特権だろう。


219話 5.21

初夏のフリーマー

  ゆうべ、カミさんが「航空公園で、あしたあるのよ」と、焼酎をお湯で割りながら言った。

「市民バザール」というフリーマーケットのことだ。定期的に開催されてはいるらしいのだが、それがいつなのかよくは知らなかった。
 梅雨のような雨に降り込められて、一日中書斎で本を読んでいた小生、読んでいた本がヘミングウエイの釣りエッセイとはいえ、もういいかげんに飽きてしまっていた。「お、行ってみようか」と、カミさんから焼酎の椀を受け取りながら即答した。

 今日は雲の間に青空ものぞき、風もやわらかな初夏らしい日だった。ちょっと早めに洗濯を終えたカミさんと会場の航空公園に向かった。

 クルマで(カタカナでクルマと書くときは、ジープではない)約8分。わが陸軍航空発祥の記念の場所は、いま広大な都市公園として市民の癒しに一役買っている。広大なエリアの一部(といってもやはり広大)にフリーマーケットの場所が設定されていて、ざっと200件くらいの出店者が段ボールやブルーシート、アウトドアテーブルなどの上に商品を並べていた。1時間あとにまたここで、と、カミさんと別れて、人波の間から店を眺めて歩く。店に並んでいるものの殆どは、古着やもう使わなくなったらしい玩具だ。自転車やオーディオもある。CDや漫画、ゴルフの道具などもあった。 並べられた品の数々を店の主の顔と見比べると、彼や彼女のくらしの様子がわかる、ような店もある。品物を見て歩くのもいいが、客と出店者のやりとりを聞くのもまた面白い。

「おとうさん、どう、これ。ブランドものよっ」
 ぷくぷくした丸い顔の中年の女が並べた商品を指さしている。どうも小生に向かって叫んでいるらしい。
「え?ブランドって、これかい」彼女が指さしているのは6穴バインダーのシステム手帳だ。
「ヴィンセント、ばれんてぃノ・・・ねえ。知らんな」それにおばちゃん、あんたにおとうさんと呼ばれる筋合いはないぞ。

「あにいってるんだい。ねえ、このおとうさん、ばレンちノを知らないんだって」これは彼女が隣で茶碗を売っていた仲間に言ったセリフだ。

「たったの1000円だよ。新品だよ。どう、おとうさん、買っていきな」
 このばばあは手帳を手にとって小生に押しつけるようにして見せた。
「安くしとくよ、どう、800円」
「500円だ」
 少なくとも、外側は皮製のようだ。
「ん、じゃあ700円でいいよ。しかたないね、このおとうさん。値切るのが上手だよ」
 ばばあ、おとうさんはやめろって。中身は結構お粗末なダイヤリーとアドレス帳だ。まあ、中身は伊東屋で買えばいいな。

「500円なら買うよ、どうだい」実は小生、今仕事で使っているA4サイズの手帳を持て余している。ちょうどシステム手帳が欲しかったところではあった。

「しょうがないね、わかったよ。じゃあ、600円でいいよ」ばばあ、粘る、粘る。

「500円」そう言って、小生はジーンズのポケットから100円玉を掴みだし、差し出した。「ほら、これっきゃないんだ。あれ、ゴミもついてら」

 ポケットの繊維クズと一緒に差し出した5個の100円玉を分厚い手のひらに受けて、「ま、いいかね。おまけもつけてもらったし」
 ゴミをつまんでこのばばあ、にっこり笑った。いい顔だ。

 今日の戦果は、このシステム手帳以外に、100円の黒のポロシャツ。200円のカジュアルシャツ(カラフル、派手。ENRICO COVERI made in ITALY/値札13000円)。1200円のトイザらスの木製ゲーム盤(チェス、バックギャモン・・・/定価ン千円の未開封新品)。200円のTシャツ(カヌーイラスト柄 LL.Bean/中古良品)。それぞれに値切ったり、すかしたり、おせじを言ったりして買った。いや、満足した。
 カミさんがニコニコしながら待ち合わせの場所に帰ってきた。いろいろ買い込んだようで、両手におおきなビニール袋を下げていた。

 で、思うのだが、フリーマーには、品物を買うという行為以外の楽しさが、たしかにある。どうですかな、みなさん?

218話 5.14

色即是空 空即是色

 もう四半世紀も昔のことになる。
 ある国の陸軍の演習場で、はじめて実弾の込められた小銃を渡され射座についたとき、微かに震えていたのは、いつも大言していた男だった。顔色ひとつ変えずにトリガーを引き続けたのは、小柄なおとなしい奴だった。
 強そうにみえる奴がじつは小心で、めだたない地味な男が意外にもしたたかな心根の持ち主ということ、こういうことは結構多いのだろう。だが、このことは矛盾ではない。

 たしか池波正太郎さんだったと思う。ある主人公の言葉を借りて、こう言っておられた。「人は悪さをしながら、善いこともする。善行を積みながらも、悪事を働いたりするのだ。それが人間というものなのだな」

 これは、矛盾だ。たしかに矛盾だが、それが人間の本質であるのならば、溜息をひとつ吐いて頷くしかないだろう。
 池波さんの言い方を借りて、試しにこういってみようか。「人は勇敢でありながら、卑怯な振る舞いをする。卑怯なことをなしながら、なぜか勇気を奮ったりもする」
 矛盾が人の本然であるとしても、これはなりたたない。人は悪人と善人のふたつながらの性を持ちうるし、勇気と怯懦の間を彷徨するのはごく普通のことだ。だが、「卑怯」は性格や性質ではなく「政治」である。ただ一人のこともあれば、会社のこともある。もちろん国家としての場合もある。

「この国はほんとうにだらしない国になってしまった」と言ったのは、先日の地下鉄事故で娘さんを亡くされた父親だ。「ニッポン人は、昔は勇敢な民族だったが、いまは腰抜け」と吐き捨てたのは、チベット難民で、亡命政府のスポークスマンをつとめているT氏。知己であり、尊敬する先輩でもある彼のために言っておきたいが、T氏は日本と日本人を、心底から愛しているひとだ。

 バスジャック事件に思ったことがひとつある。死者を出し、けが人が車内にいることもわかっており、脱出した乗客らから犯人の異常さと行動の極度の危険さが予測できていたにもかかわらず、警察は長時間に渡り事件を解決できなかった。それはなぜか?
 犯行が明らかになった直後の解決方法は一つしかなかったはずだが、その方法を選択する勇気を当局は持たなかった。それは、なぜか?
 保身を図る体系のなかから、責任者ラインが一歩も出ることがなかったからだ。それ以外の理由はない。もし他の理由、例えば技術的な欠陥などがあったとしたら、それはそれで情けない限りだ。SATがアメリカの特殊警察部隊の訓練を受けている以上、そんな理由があるとは思えない。
 したがって、バスジャック事件のあの救いがたいほど遅滞してしまった結末は、警察当局が公言するような「最良の解決」などではなく、当局責任ラインの「政治的保身」の結果であった。彼らの「卑怯」のために乗客たちは長時間にわたり、凶器をもった狂人つまりは死と直面させられたのだ。

 容疑者が少年であるために云々と言った馬鹿がいた。犯人が少年ならば甘んじて犠牲になれとでもいうのだろうか。犯人は17歳だという。断じて言うが、17歳は子供ではない。アホらしいので解説はしないことにするが。

 たったひとつの解決方法。それは、狙撃による犯人の無力化だった。早期に確実に狙撃して犯人を倒す。これがこの種の事件での国際常識だろう。状況に関する情報があり、ライフルがあり、狙撃手がいる。無かったのは「判断と決断」だけだったはずだ。ミニ政治屋たちの「卑怯」、これはもう犯罪といっていい。
 事件後、関係者や評論家や文化人や芸能人など多くのひとたちが様々な論評をした。だが、聞くに値する論評はたったひとつだった。
 軍事評論家の小川和久氏はさらに、これでは沖縄サミットの警備が心配だと最後に触れたが、まったく同感だ。


217話 5.7

霍乱

 昨日は一日中胃を抑えて唸っていた。ストレスからの胃潰瘍か、とも期待したのだが、そんな上等なものではない。前日のバーベキューで、暴飲暴食した報いである。反省のない自分への天の鉄槌である。
 原っぱの縁を流れる小川の向こうに、Sさんのお宅がある。ちょっと高台になった小振りの庭がバーベキューにはぴったりという羨ましいお宅だ。

「主人が帰ってきているので、いかがですか」とのお誘いに、カミさんと下の娘と一緒に出かけていった。S氏はロケット工学のドクターだ。某巨大重工業の研究機関にお勤めだったが、九州鹿児島の大学から招請されたのを機に退職し、今は単身で南国の大学生活を楽しんでおられる。アウトドア生活、沢登り、キャンプに長じ、夜空の星を肴に酒、焼酎、ビールなど目の前にあればあるだけ飲んじゃうという、すばらしい方である。おなじ知的学究という点で、小生はS氏にシンパシーを抱かざるを得ない。(単語の用法に不適切な点があったかもしれませんが、気にしないでください)

 外での宴会はまず火を起こすところから始まる。当たり前か。
 持参したバーベキューコンロ(フリーマーで500円で買ったモノ。簡単な構造とコンパクトな仕舞い寸法で重用している)に炭火を起こす。数本の使用済み割り箸とビールの入っていた紙箱で簡単に着火。あとはひたすらウチワで扇ぐ。空気を送り込み、火種をカキ起こす。このウチワは、頑丈なものでなくてはいけない。鰻屋で使っているような、分厚い油紙を両面から貼り付けたしっかりしたものが望ましい。すこし破れて、柿色に退色していれば最高だ。

 缶ビールを開け、まず再会と健康を祈って乾杯。

 炭がオレンジ色に炎を上げ始めた。コンロいっぱいに広げて、火力を一定に抑制する。新しい炭を漸次投入し、火力調整の新たな変数とする。この微妙、この細心。野外での炊さんには厨房でのそれ以上の芸術性が確かにあるのだ。
 火の準備が出来たところで、焼きにはいるのだが、その前に純米原酒で乾杯。紙コップで2杯ほどひっかけて、威勢を付ける。テーブルに肉や野菜、魚がならべられた。肉にはナイフを軽く入れておく。

 肉と魚を焼き始める。炭火でじっくり焼き上げた食材にまさる味わいはないといっていい。けぶりが微かに食材を燻蒸し、強い火力が肉汁を封じ込め、遠赤外線は魚や肉の内部までしっかりと焼き上げる。
 この夕の宴会には近所の人々9人と一匹が参加して賑やかだった。9つの胃袋が控えているので、焼くほうも芸術性など追求してばかりはいられない。右手に金箸、左手に酒を持ってひたすら焼き続けた。つまみ食いしながら、酒をあおる。原酒はまたたくうちに消滅し、つぎは自宅から持参した本格焼酎、魔王だ。お湯割りでこれもどんどん飲む。肉、魚を焼いては待ちかまえる胃袋に供給し、魔王が空くとこんどはワイン。次第に黄昏てゆくそらの赤みを肴にひたすら野外宴会は盛り上がっていった。

 翌朝、強烈な胸焼けと胃痛が襲来したのは当然だったかもしれない。小生にもまして鯨飲されていたS氏はどうだろうかと心配になった。這うようにして近所のドラッグストアに行き、液キャベとキャベジンの錠剤を買った。液キャベを飲み、書斎の椅子に沈み込んでいるうちに、胸焼けはややおさまったものの、こんどは吐き気が襲来してきた。それでも夕方までには、体内反乱軍との戦闘は収束にむかってきた。昨夜のバーベキューの道具を引き取りにS氏のお宅にうかがうと、顔を真っ赤にしたS氏が、彼の戦闘状況もやっと収束しつつあると、冷静かつ苦しそうに言った。

 「また、夏に帰ってきたら、やりましょう」と、56才のプロフェッサーが言った。
 「やりましょう!」と、無冠の50才も力強く答えた。

216話 4.30

2000年のGW

 ゴールデンウイーク二日目。天気は下り坂という。  昨日はよく晴れたがきょうは午後の時間がゆくにつれ、穏やかに薄い雲が空を覆いはじめた。ちょうど花曇りと言った風情で、これはこれでなかなかいい。
 今年の連休は暦通りだ。きょうはなんの予定もないのでゆっくり起きた。コーヒーを飲みながらテレビを見ると、客で大混雑の成田空港の絵が映っていた。

 このGWに海外にでかける日本人は過去最大とか。不景気に喘いでいるのは中高年労働者ばかりなのだろうか。円高基調になっているが、それが海外からの負圧となって海外旅行者の吸引に直結するという単純構造では、この国の経済の先が思いやられる。

そういえば、首相が海外歴訪に出かけたと聞いた。と、聞いたのだが、あまり印象がないのはその旅にテーマがなく、必然性もほとんどないからだろう。報道によるとこの外遊、「とりあえずの挨拶」の旅だそうだ。これではGWの海外旅行者と同じで、外国歴訪ではなく「漫遊」というべきだろう。税金を使っているだけ、一般国民の旅より無駄といえる。

 政治屋さんたちには、自前ということを心得て欲しい。意味のない外遊、料亭やゴルフ、偉そうなスモークガラスの公用車、演説や質問の草稿書き、こんなものを全部自前にしたらどうだろう。まあ、彼らは呼吸不全になって、きっと全滅してしまうだろうな。ついでにすぐ間近にあるテロ国家への血税投入も止めて欲しいぞ。女手品師を無事に(ホントか?)返したからといって油断してはいけない。

 昨日、ツタヤから借りたビデオ3本。

「ソルジャー・魂の銃弾」 「ペイバック」 「エネミーオブアメリカ」
あとの2本は、ハリウッドらしいご都合主義の楽しい映画だった。最初の奴は、ボスニア・ヘルツゴビナを舞台に、セルビア人、クロアチア人、ムスリムの友情・憎悪・運命・殺戮などをドキュメントタッチに描いた、ちょっと重い作品。

 昨日を禁酒日としたので、今夜は焼酎をいただくことにする。普通は手に入らない地の焼酎が、「酒のこばやし」さんのおかげで、まだたんまり残っている。さっき、カミさんが産直センターに行っていろいろ買い込んできた。なにか他にもご馳走を用意している様子だ。今夜は、とうとう大台に乗ってしまった小生を慰める会を、家族で開いてくれるらしい。

春の野に可愛しきいのちかさね咲く   秘剣


215話 4.22

創る、ということ

 鈴木輝一郎さんという時代小説作家(現代ものも書く)がいる。
 確実な文章力と安定したプロットで、しっかりとファンを掴んでいるひとだ。

 この人が、こんなことを言っていた。
「文章はね、なんでもいいから毎日必ず書くことです。雑文でも、日記でも」


 
 鈴木さんは、自分のホームページをほとんど毎日更新している。糸井重里サンのように、スタッフに更新させるのではなく、自分でやっている。取材旅行の時など、モバイルでFTP(サーバーへの転送)をしているらしい。

「お忙しいでしょうに、よくホームページの面倒までみられますね」と感心すると、

「いえ、大した内容じゃないし。テキストだけですからね。それに・・・」
 直木賞作家でもない自分の本は、宣伝しなきゃ売れないしね、著作のプロモーションのための更新ですよ、と照れていう。
 鈴木氏の連日といっていいサイトの更新は、実は「毎日、なにかしら文章を書く」ためであると小生は思っている。そして、鈴木氏の文章には技巧だけでなく、生き方の作法がちゃんと顕れていることにも気づいている。その作法を鍛え、練り上げ、彼の作品に登場する多くの主人公のように、臆せず躊躇わず果敢な人生を送ろうと志しておられることが確かなこととして、そこから窺える。

 マーケティングに掣肘される点では作家とは違うが、広告のクリエイターも文字どおり創造者であるはずだ。作り手としてのこころざしは、そのあるなしを含めて制作物に反映されるのは当然だと思う。作品にそれを見たとき、嬉しい気持ちになるのは小生だけではないだろう。

 オンエアは終わったが、総理府の「ノーマライゼーション」というTV-CMがある。 この作品からは、作り手の志が伝わって余りある。お役所の担当者との戦いに耐え抜いて完成させたという内情は、このCMの制作を担当した若いCMディレクターから聞いた。

 ハンディキャップをもつ人たちを、そしてその人たちの希望と夢を正面から捉えたこのCM、クライアントの狙いを遥かに超える、強い力を持った作品となった。

 こころざしを、それと意図せずにコミュニケートできるような、絵を描き、文章を綴りたいものだと、本当にそう思う。

 そういっておいて、なんだけれど、以前書いた「いわなの冬」という短編(と呼ぶも恥だが)に挿し絵をつけた。タブレットとペインター、フォトショップのコラボレーションのおかげで、貧弱な表現力しかない小生でも、絵の楽しみを拡大することができる。ありがたい世の中になったものだ(爺臭いなあ)。


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