平成12年10月の手控えは、「過去の手控え」でご覧ください。
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 from1998
過去の手控え
手控え欧州篇
244話 11.26
ぱぱっと手料理
 小生の「ダイヤメ日記」は、ただだらしなく飲み続けている本格焼酎の銘柄を紹介し、コメント(らしきもの)を付けるだけの、まったく生産性はなく、努力を要しない戯れ言だが、ある日、おなじウエッブ上の日記でも、驚くべきものを発見した。いや、驚いたというどころではない。まさに「驚愕」し「瞠目」した。
 そのサイトの主宰者は、大阪から単身赴任されている方だ。単身赴任とくると、小生の周りをみても「外食」「朝食抜き」「居酒屋で酒、仕上げにラーメン」「靴下三回」というのが相場だ。(靴下・・・というのは、洗わずに何回履けるかという意味です)
 しか〜し、この方は、なんと自炊をなさっている。自炊と言っても、お湯を沸かしてカップ麺、などと言った愚かなレベルではない。煮物、野菜、おひたし、汁などキチンと自分で作り、たまには会社の人たちの分まで作るらしい。

 驚愕の一端をお見せしようか。すべて、この10〜11月の分からの抜粋だ。(一応、あとでご本人には、断っておきます)
連日欠かさず書いてアップされているこの日記。外食や店屋物で横着を決め込む若い娘(べつに若くなくてもいいが)や主婦たちには、目の刺激、耳の薬になるんじゃないだろうか?

某日 今日は一日中雨、夕食は鶏ミンチ、ネギ、ニラ、シメジ、もやし、豆腐で水炊き。
某日 今夜は久しぶりに餃子を焼く。
某日 今日は豚角煮、きんぴらごぼう、冷やっこ、白菜と昆布の味噌汁。
某日 今夜は寄せ鍋で日本酒、秋鹿・純米と賀茂泉・山吹色の酒を楽しむ、。
某日 今日はちょっと喉が痛い、夜は武蔵小山の某居酒屋(K)にて焼酎を飲む。
某日 今日は肌寒い1日、夕食は鶏水炊きで暖まる。
某日 今夜は鶏もつ煮込み、冷やっこ、豚汁、日本酒は、白鶴・純米。
某日 豚ヒレカツ野菜サラダ添え、冷やっこ、白菜入り味噌汁、月の中をお湯割りで飲む。
某日 夕方から霧雨程度の雨が降る、今夜は水餃子鍋。
某日 今夜は肉じゃが、冷やっこ、白菜味噌汁、休肝日とする。
某日 随分生暖かい一日、今夜は大根と厚揚げの炊き合わせ、冷やっこ、白菜味噌汁。
某日 今日は一日中雨で肌寒い、夕食は鮭バター焼き、冷やっこ、白菜味噌汁。
某日 夕食は鰯タタキ、冷やっこ、胡瓜塩もみ、納豆、味噌汁。
某日 夕食はサンマ竜田揚げ、冷やっこ、白菜、茄子、春菊の煮物、秋鹿を1合飲む。
椀方の宅飲雑記帳 2000年11月編)より

 料理のうまい男は古今東西を問わず「モテる」と決まっている。
「新宿の裏町にある汚い小さな暗い店なんだけど、いも焼酎でも飲みに行こう」とか、
「そのへんで出来合いの総菜でも買ってさ、チューハイでものまない?」という誘いにのる女性はまあ、いないだろう。
「フランスのビンテージものでサ、シャルル・モンファプエ・ヴィサール・シャトウの1910年ものがあるんだけど、どう?」なんていうやつは、舌でも噛んでしまえばよい。
「チーズ・フォンデュを作るよ。ワインじゃなくて秋鹿の純米がよく合うんだ」という台詞で、奥さんをゲットしたという椀方氏の逸話は、なにか吟醸酒の喉越しのようにすっと理解できる気がするのは小生だけだろうか(ウソだが)。
 最初のは、小生がかってカミさんに言った台詞です(これはホント)。
 閑話休題。
 この椀方さんと、ある夕べ、四谷三丁目の居酒屋でご一緒したことがある。お年は秘剣より若干お若いが、軽佻浮薄な秘剣にくらべ、落ちついた物腰、物言い、かつ長身痩躯、知的な風貌の中に強い意志をお持ちの方だった。清酒にも本格焼酎にも尋常ではない知識と経験があり、かつ斗酒なお辞せぬ酒豪でもあられた。しかし、奥さんの待つ大阪に帰った時にも料理は自分でなさるのかは知らない。

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243話 11.19
カニと白髪とBBQ
「カニのおじちゃん、白髪がふえたねえ。ねえ、とーちゃん」
 先週末にキャンプに同行した友人のこども、小学2年生の男の子が父親にそういったとか。
 カニのおじちゃんというのは、どうも小生のことらしい。3年前、今回とおなじ河原でのキャンプで、一緒にバーベキューをしたことがある。その時、炭火でカニを焼いてみんなで食ったのだけど、なぜか「カニを焼いて食べたとき、一緒にいたおじちゃん」というのが、略して「カニのおじちゃん」となったらしい。なんだかなー、バルタン星人にでもなったような感じだ。
 3年前だからまだ小生は40代も押し詰まってはいない頃だ。白髪も老眼もアタマの毛の量も、今ほど酷くはなかったのだろう。と、いうことは・・・そうとう老い耄れたなと看破されたに違いない。なるほど、男子3日会はざれば、刮目して見よという。それは愚生のごときガタのきたオヤジには縁のない言葉であり、この男の子や、(現代では)女の子にこそ相応しい警句であるのだろう。
 冒頭の言葉を、帰りの車の中でそっとつぶやいたというのだから、子どもながら、たしなみのある振る舞いといわずばなるまい。男子3年あわざれば、刮目するどころか、覚悟して見なくてはならない証左である。
 さりとて、マジかよー、すっげえーじゃんなどと、愚かな腐れぐちをきく、腐って落ちる寸前のサバの目をした今様のばか、いやわかものたちがみんな3日会わなければ刮目して見よ、の対象にならんことは明らかだ。奴等は3日もたてば腐敗が進行して目も当てられなくなるのは必定である。なんだか、どんどん爺い臭い文体になってゆくな。まあ、爺いだから、あたりまえじゃん。

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242話 11.12
ダイヤメ日記なるもの
 平成10年5月27日に、手控えを日記として付け始めてから2年半の時が流れ、今日で242話になった。え?勘定があわないって?
 最初は毎日書いていた。日記というより日常の雑多な所感をつらつらと書きつづっていた。だが、まあ日記と焼酎のみはユダヤとイスラム、政治家と道徳家、甲類と本格焼酎のごとく、両立するもんじゃなく相性が悪いと古人も言うではないか。(誰がいった?などと追求しないように)
 最初は毎日書いていたが、そのうち二日にいっぺんとなり、一週間に一度になるのにはそう時間はかからなかった、と記憶している。そのあたり、よくわからない。(過去の手控えをみりゃいいじゃないかと言わないように。小生のWEB辞書には<戻る>はないのだ。うむ、我ながらかっこいいな。え?ばかじゃんだって?)
 焼酎を飲むことと、日記を書くことが両立しないという公理は、しかし、小生がこの9月から付け始めた「ダイヤメ日記」なるものによって論理的に崩壊し瓦解した、というのは早計かもしれんが、とりあえず3ヶ月近くはこの日記、続いている。
「ダイヤメ」というのは、薩摩言葉で「だれ=疲れ」を「やめ=止め」ること、すなわち、晩酌のことを言う。働き終わって家に帰る。焼酎をゆっくりと味わうことで一日の疲れを癒す。これをダイヤメというのだ。

家に帰ると、カミさんが「お疲れさま、さあ、焼酎でもいっぱい」と酌をする。
親方や施主は、職人に「いや、ご苦労さん。さあ、焼酎でものまないか」と慰労する。

 薩摩の、人と人の潤滑油は焼酎なのだ。遥か16世紀のむかしのことだが、薩摩の大口地方にある神社を造営したとき、「(施主である)神主が一杯の焼酎もくれなかった、ケチだなあ」と板切れに落書きして屋根の構造物のなかに隠した二人の大工がいた。焼酎のうらみはげに恐ろしいのである。この板切れに書かれた「焼酎」の2文字こそが、わが国の歴史に焼酎が登場した第一号なのだ。ちなみにこの焼酎は米焼酎だったと考えられる。芋の伝承は、さらにのちの時代だからだ。この話は、こちらでご覧ください

 ダイヤメ日記が続いている理由の一つは、焼酎には「推理小説の謎を解くような」面白さがあるからかも知れない。特に初めての酒を、造りや、麹や、水や、熟成について考えながら味わう楽しみは、絡んだ糸を解いてゆく風情にも近いと思う。ゆっくりと匂いを味わい、舌触りを楽しみ、喉越しと余韻を感じてゆくうちに、その酒の造り手の考え方や表情までもが浮かんでくるような気がすることが多い。そして、その蔵元の所在するロケーションを考え合わせ、地域の知人友人の記憶までも思い起こしてゆくうちに、その酒の輪郭がはっきりと現れてくる。まさしく造り手の顔の見える「焼酎」になった瞬間だ。薩摩の本格焼酎が、風土であり、地域の文化であり、そして誇りであるという所以はそこにあるかもしれない。

 

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241話 11.4
麹の神様
 昭和36年、この年に焼酎業にとっては画期的なことが起きた。これまで杜氏の職人技に頼るしかなかった製麹工程の機械化を実現した自動製麹機の発明である。
 この発明によって、蔵の仕事は大きく変わったといっていい。昔ながらの手造りカメ壷仕込みの大切さは言うまでもないが、薩摩の蔵がきちんと経営を成り立たせるには、安定した作品を継続的に生産してゆくことが必要だ。そして、そのために製造過程のなかでの効率化、安定化を図るのは当然のことである。その点で、米麹用の米を洗い水分を吸収させる浸漬(しんせき)の工程、蒸きょう、そして冷却から製麹へという、一連の工程を自動化する発明は薩摩の焼酎業界にとっての福音であったといっていい。そして、注目すべきは、この自動製麹機を発明した当人が言うこの言葉である。
「大事なのは、麹だ。機械に頼っておろそかになってはいけない」
 そのとおりだと、秘剣は思う。
 本格焼酎は「工業製品」では断じてない。
 
有用微生物の天然の力の作用によって生まれるものに人が手を掛け魂をつぎ込んではじめて「作品」として生まれるものだと思う。
 本格焼酎の造りで大切なことは何かと聞けば、答えとして返ってくるのは、米であったり、原料の芋であったり、また仕込みに不可欠な水であったりするだろう。それはそのとおり、すべてが造り手の工夫や努力によって磨かれ、見いだされ、育まれてきたものばかりだ。そして、麹もまた先人のひたむきな努力によって研究され培養されてきた
 秘剣の鹿児島の生家(池の上町)から歩いて5分、錦江湾に注ぐ稲荷川を渡ると、母校「清水小学校」がある清水町に入る。そこからさらに国道へと向かう。国道10号線に突き当たる左の角には大きなスーパーがある。昔はここに「ミソノ温泉」という「銭湯」があった(鹿児島市内の銭湯はほとんどが温泉か鉱泉)。その角を左に曲がり、国道を北に少し歩いた左側に、「河内源一郎商店」はある。社長は山元正明氏、冒頭に書いた「自動製麹機」の発明者である。
 山元氏と河内源一郎との出会いは、大東亜戦争時の燃料用アルコールの調達を担当していた山元氏が、製造に欠かせない「種麹」を求めたことから始まったという。奥様は源一郎の息女昌子さん。
 
 あらためて、河内源一郎の足跡を調べてみた。麹研究一筋に生きた姿が次第に見えてくる。戦災による不遇の時代、闘病・・・。ただ、一貫して見えるのは、源一郎の研究は「学問」のためのものではなく、常に事業者、焼酎製造者の立場を考えた親身のものだったということ。
 河内は明治44年、鹿児島税務監督局の鑑定官として赴任した。もとは広島県福山市の生まれである。税吏の常としていわれる「苛斂誅求」などは河内には関係なかった。生家は「山田屋」という醤油製造業。麹やモロミになじんで成長した彼にとって、鹿児島の焼酎業は身近なものに感じられたのだろう。彼の熱心な技術指導は、鹿児島の多くの業者に慕われ信頼されたという。
 黄麹で造っていた時代だ。薩摩の熱い夏の日が続くと当然腐造が起こる。河内が沖縄で使用されていた黒麹に目を付けたのは当然だった。さらに強力な黒麹を培養しようと努力する中で、天からの僥倖がもたらされた。そう、僥倖といっていいだろう、努力の結実と同じ意味で使いたい言葉だが。これが、すなわち後日「アスペルギウス・カワチ・キタハラ」の学名を付与された「河内白麹菌」の発見だった。ひたすら優れた麹菌を作るために捧げられた一生の頂点だったといえようか。当時は、黒麹で造った焼酎は味がきつく(現代なら、特に県外の焼酎ファンなら、味にキレがあるというのだろう。関東と薩摩の風味に対する違いはいまでも大きい)、なかなか普及しなかったともいう。
 河内はさきほども述べたが、自分の名誉・栄光・金儲けなどには麹菌一個分ほども興味も関心もなかった。よりよい麹をつくるためにすべてを捧げたといっていい。自分の研究によって生み出された成果、特許、専売権などをすべて業界に公表して躊躇うことがなかった。戦災で麹菌の培養器が失われた後は、常に試験管とシャーレを肌身につけていた。鹿児島市内が米軍の無差別大爆撃にあったあと、戦災で徹底的に破壊された清水町の自宅商店の跡地から、ひとかけらの麹菌を採取しようと探し続けていた河内の姿を山元氏は鮮明に記憶しているという。

 先人達の真摯な研究と懸命な努力を、積み重ね、また積み重ねて、いまの薩摩の「焼酎」があるということを痛切に感じる。これを伝統といい、文化というのだろう。一部の欲得だけで「本格焼酎」を扱う風潮が先人達の汗の前には、哀しくも卑小なものにみえてくる。

 河内源一郎、広島県福山市の人。薩摩の地で焼酎の発展に尽力。その血統はただしく継承され、いまに続く。彼は昭和23年3月31日に鹿児島市清水町の自宅商店の玄関先で亡くなった。倒れたとき、胸に抱いていたガラスシャーレが、哀しく泣くように音をたてたという。

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